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秋の課題編

第十九話 消えたページ (2)

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 どこをどのように駆け抜けたのか、自分でもよく覚えていない。

 とにかく一人になりたくて、人気を避け園舎の片隅まで来たときには、すっかり息が上がり額に汗が浮かんでいた。

 もう嫌だ。私が何をしたっていうの。何故、こんなにも嫌われなければならないの。

 こみ上げてくる感情に鼻の奥がつんとする。このまま消えてしまいたくて、その場に崩れ落ちそうになった。

「サリバン嬢!」

 ふいに肩を掴まれ振り向かされる。同じく息を切らせたチェイサーが、張り詰めた顔でそこに立っていた。

 私を見つめるグレーの瞳に一瞬安堵の色が浮かぶ。が、すぐに彼は眉間に皺を寄せてこちらを睨みつけた。

「馬鹿か、君は!」
「なんですって?!」

 頭ごなしに怒鳴られ、反射的に言い返す。

「あんな逃げ方をすれば、あいつらの言葉を肯定するようなものだろ!」

 チェイサーのこぶしに力がこもり、掴まれた肩がきしむように痛んだ。

 思わず顔をしかめると、彼はハッとしたようにその手を離した。

 それでもなお、私に向けられた目は苛立ちを隠しきれていない。

「あることないこと言われて、平気なのか?」

 平気かですって? そんなわけないじゃない。

 本当なら、あの発言をした女の頬をひっぱたいてやりたかった。でもそれができないほど、あの場にいるのが耐えられなかったのよ。

 きっとわからないでしょうね。私がどれだけ悔しくて歯がゆかったか。

 たとえ事実ではなくても、他の男に色目を使ったなどと、あなたにだけは聞かれたくなかったのに。

 唇を噛んで視線を落とす。

「サリバン嬢?」

 労わるように声のトーンを落としたチェイサーを見返すことができず顔を背ける。

 ああ、こういう可愛げのないところが嫌われる理由なんだろうか。

 口を閉ざしたまま横を向き続ける私に、チェイサーは小さくため息をついた。

「君はいつもそうだ。自分が正しいと主張しているくせに、いざ議論が始まると逃げだすんだ」
「逃げるですって?」

 聞き捨てならない台詞にうっかり彼を見上げると、切れ長の瞳に真正面から見据えられ、目がそらせなくなった。

「対立が激しくなってくると、付き合っていられないとばかりに背を向けるだろう」
「……!」

 チェイサーの言葉に思わず息を飲む。

 誰にも気づかれていないと思っていた。私が最後まで討論することを避けていること。

 相手にするのも馬鹿らしいと言いながら、その実、衝突するのを恐れているのだ。

 全力でぶつかってそれでもダメだったら、私の存在価値がなくなってしまうような気がして。

 心の奥底の弱い部分を見透かされていたことに羞恥が湧き上がる。言い返さない私に、チェイサーはさらに言葉を重ねた。

「自分が間違ってないと思うなら、最後まで貫き通せよ」

 なによ。そんなのできるわけないじゃない。だって。

「だってっ……誰が信じるというの? 私は『サリバン』なのよ?!」

 突然叫んだ私に、チェイサーは瞠目した。

 ダメだ。こんなことを言いたいんじゃないのに。けれど一度あふれ出た言葉は止まることを知らない。次から次へと口からこぼれてくる。

「どんなに説明したって、いつもあなたたちは私の言うことなんて聞いてくれなかった。私の主張がすべて正しかったとは思ってない。でも全てが間違いだったとも思わない。それなのにみんな、私の言葉は全て否定するのよ! 私がサリバンだから!!」

 最後はもう悲鳴に近かった。

 溜め込んでいた鬱憤を全て吐き出すと、自分が空っぽになったような感覚になり、寒さに体が震えた。自らを抱きしめるように両腕を体に回す。

 チェイサーは目を伏せ、唇を真一文字に結んでいる。しばらくの沈黙の後、眉根を寄せ絞り出した声はひどく後悔に満ちていた。

「誰より一番君を傷つけてきた俺に、こんなことを言う資格はないのかもしれない。それでも、」

 顔を上げて視線を私に注ぐ。

「俺は君を信じたい。俺の見てきた君は、他人を貶めるような人じゃない」

 向けられたまっすぐな目に、空虚な心が満たされていくような気がした。

「あ……」

 頬を大粒の涙が伝う。

 止めようとしても止まらない。あふれた雫は重力のままに、ただただ下へと流れ落ちた。

 情けないーー。

 これ以上みっともないところを見せたくなくて背を向けようとした時だった。

 急に腕を引き寄せられ、視界が暗くなる。次に、息が止まるような圧迫感と背中に腕が回されるのを感じた。

 そこでようやく、自分がチェイサーに抱きすくめられていることに気がついた。

「ごめん」

 耳元で聞こえた謝罪に、涙腺が決壊する。

「ふっ、ううっ……」

 漏れ出た嗚咽を抑えようとその胸に顔を埋めると、さらにきつく抱きしめられる。

 子供のように声を上げて泣く私に、チェイサーは黙ったままずっと髪を撫でていた。





  * * *





 どれくらいそうしていただろうか。

 いつの間にか涙は止まっている。乾いた涙で頬がひきつるのを感じながら、私はその場を動けずにいた。

 ううん、正確に言えば動きたくなかったのだ。頭を預けたチェイサーの胸からは、とくとくと心臓の音が聞こえる。

 制服越しに伝わる温かさも心地よくて、このまま眠りに落ちてしまえたらどんなに幸せだろうかと、そんなことを思った。

 そんな私を現実に引き戻したのは、他でもないチェイサーの声だった。

「えっと、サリバン嬢、もう大丈夫か?」

 ゆっくり見上げると、気まずそうな彼と目が合った。先ほどまで私の髪を撫でていてくれた右手も、所在なさげに宙に浮いている。

 それを少しさみしく思いながらも、後ろに下がって彼と距離を取った。

「ええ。申し訳ありません、取り乱しましたわ」
「いや、謝る必要はないんだ。落ち着いたなら、それでいい」

 素直に謝罪する私に焦ったのか、チェイサーは頭を掻いて軽く笑った。

「でも……私のせいで、制服を汚してしまいましたね」

 彼のジャケットは私がしがみついていたせいで皺になり、涙で胸元が濡れてしまっている。

 申し訳なくなり頭を下げると、チェイサーはジャケットを脱ぎ、軽く肩に引っ掛けた。

「問題ないさ。ちょうど暑かったから、こうしておけばいい」
「嘘ばっかり。今日はとても寒いのに」

 私に気を遣わせまいとしてくれているのだろうけど、あまりに苦しい言い訳で、くすくすと笑いを漏らさずにはいられなかった。

 その時、チェイサーの目がとても優しい光を帯びたように見えた。

 どきりと胸が高鳴り、思わず笑いを引っ込める。

「じゃあ、行こう」
「え? どこにですか?」
「もちろん、ホーク助手のところだ」

 至極当然に言って、チェイサーはニヤリと口の端をあげた。

「君の無実を証明しにいかないとな」


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