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冬の婚約編
第一話 帰郷
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サリバン邸の朝は早い。
当主であるお父様が朝早く起きる方なので、キッチンメイドたちは日が昇るよりも前に起きて支度を始めなければならないのだ。
私の部屋から厨房まではかなり距離があるから、朝の喧騒がこちらまで聴こえてくることはない。
それでもなんとなく人が忙しなく行き来する気配は分かるもので、ベッドの中でまどろみながら、幾人ものメイドが働いている様子に耳を澄ませるのが子供の頃から好きだった。
「アメリア様、お時間ですよ」
アンナの落ち着いた声が、ぼんやりとした頭に響いてくる。
カーテンを引く音と同時に光が部屋に差し込み、私は開きかけた目をもう一度ぎゅっと閉じた。
「まだもう少し寝ていたいわ。この頃は朝が寒くて、ベッドの中が心地良すぎるんだもの」
気だるさの残る声でぼやいたけど、アンナはくすくすと笑い声を立てるだけで何も言おうとしない。
結局のところ、私が二度寝をすることはないとわかっているのだ。
だって今日は、いよいよ領地に向かう日なのだから。お父様をお待たせするわけにはいかないものね。
運ばれてきたぬるま湯で顔を洗うと、ようやく目が覚めてきた。ドレッサーの前に腰を下ろし、いつものように髪を梳いてもらう。
「アメリア様が実は朝が苦手だと知ったら、世間の皆様は驚かれるでしょうね」
丁寧に毛先を梳かしながら、アンナが言う。
「そうね。これはあなたにしか見せられない姿だわ」
私の返しに、アンナは力強くうなづいた。
「ぜひそうなさってください。寝起きのアメリア様は非常に危ないですから」
危ないってどういう意味? 聞き捨てならない言葉に、鏡の中のアンナをじろりと睨みつける。
「寝起きが可愛くて艶っぽいのを知っているのは、私だけで十分です」
アンナは冗談とも本気とも取れない顔でにこりと笑う。思いもかけない殺し文句にどきりと胸が鳴った。
「……私、アンナと結婚しようかしら」
思わずつぶやくと、アンナはころころと笑い声をあげた。
「とても光栄ですけど、アメリア様にはきっともっと素敵な殿方が現れますよ」
本当にそうかしら。
悪名高いサリバン家の婿養子に進んでなるような男性なんて想像もつかない。
そんな人がいたら、よほどの野心家か、馬鹿だと思うわ。
「あーあ、やっぱりアンナと結婚しようかしら」
私はこの日二度目になる台詞をつぶやいた。
* * *
「早いな、用意はできたのか」
玄関ホールに現れたお父様は、鷹のような金色の目をこちらに向けた。
その表情はまったくもってフラットで、奥にどんな感情が潜んでいるのか、娘の私ですら見当もつかない。
「ええ、久しぶりの領地ですから。楽しみで気が急いてしまいましたの」
にこりと笑いながら、内心で冷や汗をかく。
お父様が予定時間よりも早く来ることを見越して十五分前に来たのに、その直後に現れるんだもの。
次からはあと五分……いえ十分は早く行動しないといけないかしら。
そんな私の焦りを知ってか知らずか、お父様は早々に馬車に乗り込んだ。ここから数時間の間、馬車の中で二人きりだ。
ああ、私もできるなら使用人たちと同じ馬車で移動したいわ。
ちらりとアンナの方を見れば、励ますような笑顔が帰ってきた。力なくそれに微笑み返すと、御者の手を借りて車内に乗り込む。
走り出した馬車の中、視線の置き場所に困った私は、流れる景色をただひたすらに眺めた。
どれほどそうしていただろう。それまでずっと無言で腕を組んでいたお父様が、おもむろに口を開いた。
「最近、何か変わったことはないか」
その言葉にぎくりと体が強張る。
これは単なる近況確認ではない。すでにお父様は何かを掴んでいる。だからこそ、こうやって尋ねてくるんだわ。
「そうですね……チェイサー伯爵家のソニア様と面識を得ましたわ」
ここ最近起こったことの中で、一番差支えない話題を探して報告する。
子供たち同士の関係性はともかく、チェイサー家自体は我がサリバン家とそれほど険悪ではない。
だから、チェイサー家令嬢であるソニアと仲良くなることでお父様の機嫌を損なうことはないだろう。
「ソニア嬢か。次期シェルト卿との結婚が決まっている令嬢だな」
お父様の何気ない言葉に驚き、目を見開く。
「ソニア様とニコラス様の婚約についてご存じでしたのね」
「当たり前だろう。そのくらい頭に入っていなくてどうする」
「……さすがお父様ですわ」
まさか本人から聞かされるまで知らなかったとは言えなくて、私は視線を下に落とした。
この人には知らないことなどないのかもしれない。そう考えると、報告していないことすら把握されているようで恐ろしい。
そう、例えば、ソニアの兄のこととか。
目を合わせていなくても、じっと視線を注がれているのがわかった。
蛇に睨まれた蛙というのはこういうことをいうんじゃないかしら。指一本動かすことができずに、ただひたすら時間が過ぎるのを願う。
しばらくすると、お父様は私から目線を外し、瞼を閉じて何かを考え込むような体勢になった。とりあえずそれ以上は何も言われなさそうでほっと胸をなでおろす。
お父様の聞きたかったことはソニアのことだったのかしら? やぶへびになるのが怖くてこちらからは質問できない。
結局この日は、それ以上の会話は馬車内では行われなかった。
当主であるお父様が朝早く起きる方なので、キッチンメイドたちは日が昇るよりも前に起きて支度を始めなければならないのだ。
私の部屋から厨房まではかなり距離があるから、朝の喧騒がこちらまで聴こえてくることはない。
それでもなんとなく人が忙しなく行き来する気配は分かるもので、ベッドの中でまどろみながら、幾人ものメイドが働いている様子に耳を澄ませるのが子供の頃から好きだった。
「アメリア様、お時間ですよ」
アンナの落ち着いた声が、ぼんやりとした頭に響いてくる。
カーテンを引く音と同時に光が部屋に差し込み、私は開きかけた目をもう一度ぎゅっと閉じた。
「まだもう少し寝ていたいわ。この頃は朝が寒くて、ベッドの中が心地良すぎるんだもの」
気だるさの残る声でぼやいたけど、アンナはくすくすと笑い声を立てるだけで何も言おうとしない。
結局のところ、私が二度寝をすることはないとわかっているのだ。
だって今日は、いよいよ領地に向かう日なのだから。お父様をお待たせするわけにはいかないものね。
運ばれてきたぬるま湯で顔を洗うと、ようやく目が覚めてきた。ドレッサーの前に腰を下ろし、いつものように髪を梳いてもらう。
「アメリア様が実は朝が苦手だと知ったら、世間の皆様は驚かれるでしょうね」
丁寧に毛先を梳かしながら、アンナが言う。
「そうね。これはあなたにしか見せられない姿だわ」
私の返しに、アンナは力強くうなづいた。
「ぜひそうなさってください。寝起きのアメリア様は非常に危ないですから」
危ないってどういう意味? 聞き捨てならない言葉に、鏡の中のアンナをじろりと睨みつける。
「寝起きが可愛くて艶っぽいのを知っているのは、私だけで十分です」
アンナは冗談とも本気とも取れない顔でにこりと笑う。思いもかけない殺し文句にどきりと胸が鳴った。
「……私、アンナと結婚しようかしら」
思わずつぶやくと、アンナはころころと笑い声をあげた。
「とても光栄ですけど、アメリア様にはきっともっと素敵な殿方が現れますよ」
本当にそうかしら。
悪名高いサリバン家の婿養子に進んでなるような男性なんて想像もつかない。
そんな人がいたら、よほどの野心家か、馬鹿だと思うわ。
「あーあ、やっぱりアンナと結婚しようかしら」
私はこの日二度目になる台詞をつぶやいた。
* * *
「早いな、用意はできたのか」
玄関ホールに現れたお父様は、鷹のような金色の目をこちらに向けた。
その表情はまったくもってフラットで、奥にどんな感情が潜んでいるのか、娘の私ですら見当もつかない。
「ええ、久しぶりの領地ですから。楽しみで気が急いてしまいましたの」
にこりと笑いながら、内心で冷や汗をかく。
お父様が予定時間よりも早く来ることを見越して十五分前に来たのに、その直後に現れるんだもの。
次からはあと五分……いえ十分は早く行動しないといけないかしら。
そんな私の焦りを知ってか知らずか、お父様は早々に馬車に乗り込んだ。ここから数時間の間、馬車の中で二人きりだ。
ああ、私もできるなら使用人たちと同じ馬車で移動したいわ。
ちらりとアンナの方を見れば、励ますような笑顔が帰ってきた。力なくそれに微笑み返すと、御者の手を借りて車内に乗り込む。
走り出した馬車の中、視線の置き場所に困った私は、流れる景色をただひたすらに眺めた。
どれほどそうしていただろう。それまでずっと無言で腕を組んでいたお父様が、おもむろに口を開いた。
「最近、何か変わったことはないか」
その言葉にぎくりと体が強張る。
これは単なる近況確認ではない。すでにお父様は何かを掴んでいる。だからこそ、こうやって尋ねてくるんだわ。
「そうですね……チェイサー伯爵家のソニア様と面識を得ましたわ」
ここ最近起こったことの中で、一番差支えない話題を探して報告する。
子供たち同士の関係性はともかく、チェイサー家自体は我がサリバン家とそれほど険悪ではない。
だから、チェイサー家令嬢であるソニアと仲良くなることでお父様の機嫌を損なうことはないだろう。
「ソニア嬢か。次期シェルト卿との結婚が決まっている令嬢だな」
お父様の何気ない言葉に驚き、目を見開く。
「ソニア様とニコラス様の婚約についてご存じでしたのね」
「当たり前だろう。そのくらい頭に入っていなくてどうする」
「……さすがお父様ですわ」
まさか本人から聞かされるまで知らなかったとは言えなくて、私は視線を下に落とした。
この人には知らないことなどないのかもしれない。そう考えると、報告していないことすら把握されているようで恐ろしい。
そう、例えば、ソニアの兄のこととか。
目を合わせていなくても、じっと視線を注がれているのがわかった。
蛇に睨まれた蛙というのはこういうことをいうんじゃないかしら。指一本動かすことができずに、ただひたすら時間が過ぎるのを願う。
しばらくすると、お父様は私から目線を外し、瞼を閉じて何かを考え込むような体勢になった。とりあえずそれ以上は何も言われなさそうでほっと胸をなでおろす。
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結局この日は、それ以上の会話は馬車内では行われなかった。
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