貴方が愛した総ての淑女たちに

佐竹りふれ

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34. 兄の怒りと妹の涙

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 だんだんと小さくなっていくゴドフレイ兄妹の後姿を眺めながら、イアンはため息をついた。そんな弟の背中を、ティルダはねぎらうようにそっと叩く。

「あなた、心底嫌われているのね」

 姉の言葉に、イアンは素直に頷く。

「知ってるさ。昨晩もそう言っただろう?」

 ティルダは厳しい表情のまま頷いた。

「ええ、そうね。でも、彼は本当にあなたを……憎んでいるみたいだったわ。この意味があなたにはわかる?」
「……バックマン嬢との関係を認めてもらうためにものすごく努力しないといけない、と?」

 イアンの言葉に、ティルダは微妙な表情を見せた。

「まあ、そうね。それも間違ってはいない。でも、それだけじゃない。私が最後にこの社交界で過ごした時よりも、あなたの評判や噂がひどくなっている、ということよ」

 眉根を寄せる姉を見て、イアンはズン、と胃の奥が重くなるのを感じた。一度ついてしまった悪評は、どれだけ必死にもがいても離れていってくれない。それどころか、雪だるま式に悪評がどんどんと深刻になっている。イアンはこれまで、そのことに大きな不満を抱いてこなかった。しかしここに来て、それがこんなにも大きな足かせになるとは思ってもみなかった。
 弟の表情がどんどんと曇るのを見て、ティルダはため息をついた。

「……それで? ロッシ嬢との関係はどうなっているの? 今度はいったい何があったのよ?」

 イアンはそっと頭を振った。

「私にも分からない。彼女とのことは、もうとっくにすべて終わった、過去のことのはずなんだ。それ以来、彼女とは言葉を交わしたことはおろか、接触すらない。それなのに、なぜ彼女が今ここで、あんなことをしでかしたのか、皆目見当がつかないよ」

 困惑した表情のイアンの肩を、ティルダはそっと叩いた。

 一方、バックマン家の滞在する邸宅では、ピーターがそれまで抑えていた怒りを爆発させていた。

「全く、信じられない! どうしてどこに行っても必ずアイツが現れるんだ!?」

 ぐしゃぐしゃと感情のままに髪の毛をかきむしるピーターを、エヴは何とも言えない表情で見つめ返した。

「社交界なんて、所詮は狭い世界なわけだから、大したことじゃないでしょう」
 
 エヴがそう告げても、ピーターは納得できなかった。

「アイツを気に入っているのか?」

 まっすぐとピーターは妹の瞳を見つめる。

「そうだと言ったら、何か問題でも?」

 エヴの勝気な返答と表情は、ピーターの怒りの火に油を注いだだけだった。

「だめだ。アイツを気に入るなんてこと、あってはならない。アイツは邪悪な存在だ。お前にも悪い影響が出かねない。いつ、どこに行ってもアイツの悪評を聞く。ロクな奴じゃない。だから、あんな奴には近づいちゃダメなんだよ!」
「そんなこと、私は気にしないわ!」
「私が気にするんだ!」

 兄妹の言い争いは、どんどんと熱を帯びていった。使用人たちもどうしたものか、と顔を見合わせている。

「私はお前の兄で、この家の長男だ。だからこそ、私にはお前を守る義務がある。アイツには、二度と近づくな! いいな?」

 怒りのまま、背を向けて歩き去ろうとした兄の背中に、エヴは叫び返す。

「彼のことを何も知らないくせに!」

 妹の責め立てるような言葉に、ピーターは立ち止まると、くるりと向きを変えてエヴの方へと歩き戻ってくる。

「アイツのことを何も知らないのは、お前の方だ! アイツは最悪な男なんだ!」
「少なくとも、彼は私に良くしてくれているわ!」

 怒りで頬を赤く燃やす妹の姿を見て、唐突に、ピーターの頭の中でパズルのピースがハマった。自嘲的な笑い声を上げた兄を、エヴは不審そうな目で見つめ返す。

「私をはめたんだな?」

 ギラリ、とピーターの目が光る。今まで喧嘩をしたことはあっても、兄のこんな表情を見たのは、エヴにとって初めての経験だった。本能的に恐怖を感じ取り、彼女は一歩後ろに下がる。

「私をはめたんだろう? お前はアイツが今日、公園に来ることを知っていた。だから散歩に連れて行って欲しい、なんて急に頼んできたんだろう。そうして、うまいこと私を付添役に仕立て上げたんだ! お前と、あの卑劣なくそ野郎の付き添い役にな!」

 イアンへの嫌悪の感情を隠そうともしないピーターの表情に、エヴは胸が痛み、言葉を失った。こんなにも怒りをあらわにした兄へ、何と言ったらよいのか、分からなかった。
 エヴの沈黙に、イアンは再び自嘲気味な笑みを浮かべた。

「そうか。これは、アイツの計画だったんだな? 純粋な妹が、こんなだまし討ちみたいな卑怯な計画を自力で思いつくはずがない。ほらな? もうすでにアイツから悪い影響を受けているじゃないか。この一件が、何よりもの証拠だ!」

 勝ち誇ったように滔々と自分の意見を述べる兄を見つめながら、エヴは無性に泣きたくなった。兄と言い争いなんてしたくなかった。ましてや、こんな風に怒りで顔をゆがませた兄の表情など、見たくなかった。

「……明日もまた、アイツと踊るつもりなのか?」

 ピーターは、咎めるようにエヴを見つめた。そっとつばを飲み込んでから、エヴは口を開く。

「……だったら何? 私のことはもう放っておいてください!」

 何とか涙を流すことなく、ようやくその言葉を絞り出すと、エヴは自室に向かうため、一目散に階段を駆け上がっていった。

「まだ話は終わっていないぞ!」

 ピーターが声を荒らげて妹を追いかけようとしたその時、バックマン夫人が彼を引き留めた。

「どうしてですか!?」

 納得できない、という表情で母親にまで食って掛かろうとするピーターに、バックマン夫人は冷たい視線を返す。

「これ以上、私たちを失望させないでちょうだい、ピーター。私も、あなたの父上も、あなたがこんな風に社交界へ加わって欲しいだなんて、望んでいやしませんでした。エヴと違って、あなたはまだ準備ができていなかったのかもしれませんね。妹のことは放っておきなさい。自分の部屋にこもって、頭を冷やしなさい!」

 母親がこんな風に自分を怒ったことが、今までにあっただろうか。
 ピーターは、自尊心を打ち砕かれたショックと羞恥心で、言葉を失った。イアンのせいで自分が説教をされるだなんて、理不尽だ。そう思いつつも、言われた通り、ピーターは自室へ戻ることにした。
 エヴの部屋の前を通りかかった時、扉の向こうから微かなすすり泣きが聞こえた。その音に、ピーターの心は痛んだ。しかし、それでもイアンのことは許せない。
 自室の扉を閉めながら、イアンはいったいどんな小細工をして妹や母を丸め込んだのだろうか、とピーターは疑問に思った。寝台に横たわり、天井を見つめても、答えは出ない。

 どんなに物理的な距離が近くとも、すなわち心の距離が近いとは限らない。それは、家族であっても同じことである。
 この決定的な衝突は、我らがヒロインとヒーローにとって大きな衝撃となりうるのか否か、その答えは先の物語でお伝えしていこう。
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