氷のように冷たい王子が、私だけに溶けるとき

夜桜

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氷の第三王子

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 空を裂くように、アズール王国の城塞が視界に広がった。
 幾重にも積み上げられた白銀の石壁。砲塔には黒い大砲が並び、その先では数百の衛兵が整然と配置されていた。まるでこれが戦場だとでも言うように、侵入者を拒む威圧感に満ちていた。


 わたし、ネリネはその前で息を呑んだ。


 初めて見る異国の城。帝国の宮殿とはまるで異なる威風堂々たる造り。あまりにも壮麗で、あまりにも冷たく思えた。


 けれど、その背中を、わたしはただ静かについていく。


 ケラウノスの背中を。


 銀の髪が風に靡き、騎士のような衣を纏うその姿は、まさにこの国における誇り高き王族そのものだった。


 衛兵たちはその姿を見て、即座に敬礼し、扉を開ける。
 やがて巨大な門が軋む音を立てて開かれ、わたしたちは重厚な空気の中、城内へと足を踏み入れた。


 歩くたびに響く靴音。天井の高い回廊。無数の衛兵たちが警戒に目を光らせる中、わたしはその一つひとつに怯え、肩を縮めていた。


 すると、前を歩いていたケラウノスがふと立ち止まり、わたしの方を振り返った。


「大丈夫、守るから」


 その言葉と共に、微笑みを浮かべた。
 温かく、優しい笑み。わたしは胸の奥が熱くなるのを感じた。


 やがて、わたしたちは玉座の間へと到着する。
 だが、そこに国王の姿はなかった。



「……父上は、今日はお出かけか」


 ケラウノス様が小さく呟いたその時、奥から優雅に姿を現したのは、一人の女性だった。


 漆黒に近い紺のドレスをまとい、瞳に冷たい光を宿した女性。銀髪の美貌。けれど、彼女の笑みには毒があった。


「久しぶりね、ケラウノス。そして、そちらが例の……落ちぶれた聖女かしら」



 さすがのわたしも彼女の存在は知っていた。

 第一王女、アルシノエ。
 オルジア帝国に一度だけ来訪したこともあった。



「……姉上」

 ケラウノスの声音が、わずかに低くなる。


「聖女だか何だか知らないけれど、そんな小汚い女をこの城に入れるなんて。すぐに牢へ連れて行きなさい」


 アルシノエの声が鋭く響く。周囲の衛兵たちが動こうとする。

 わたしは、ああ、やっぱり歓迎なんてされていない。もう頼れる場所もないんだと、心の中で絶望した。


 だけど。


「姉上――」


 ケラウノスがその場に響くような声を放った。
 そして、わたしの前に立ち、アルシノエを真っ直ぐに見つめる。その瞳は、これまで見せたことがないほど冷たく、鋭く、まるで氷の刃のようだった。


「ネリネは俺が守る。邪魔をするなら、姉上でも……容赦しない」


 空気が、凍った。
 アルシノエはわずかに眉を吊り上げたが、それ以上は何も言わなかった。
 沈黙の中、ケラウノスはわたしの手を取って歩き出す。


「ケラウノス様……?」
「行こう、ネリネ」


 ただ一言、それだけを告げて。

 広い城の通路を歩き、たどり着いたのは一つの部屋だった。重たい扉が開かれると、そこは……美しい大浴場だった。


「ここは……」
「ネリネ。君はまず身体を癒すといい。汚れを落として、今は先に備えるのだ」


 優しい笑みを浮かべるケラウノス。
 わたしは胸がいっぱいになって、ただ頷いた。


「いいのですか?」
「ああ。着替えは後で召使いが持ってくる。安心して、くつろいでくれ」


 そして、静かに部屋を後にした。
 わたしは思わず、その背に「ありがとう」と呟いていた。


 温かな湯が、全身を包んだ。
 泥と血にまみれた髪も、身体も、すべてを洗い流しながら、わたしは泣いていた。声にならない感謝の涙が、湯の中に落ちていく。


 やがて、届けられた着替えを見て、再び胸が震えた。
 それは、美しく艶やかな黒のドレス。今まで聖女としてのシスター服しか着たことのなかったわたしには、眩しすぎる贈り物だった。


「こんな……こんな綺麗な服……」


 袖に指を通し、胸元を整えながら、わたしは鏡に映る自分を見た。そこには、もう帝国の聖女ではない、新しいわたしがいた。


 その時、扉がノックされる。


『ネリネ、準備はいいか?』


 ケラウノスの声だ。
 わたしは、はい、と返事をして扉を開ける。

 そして案内されたのは、大理石の床と長いテーブルが並ぶ広大な大食堂だった。


「……これは……」


 テーブルには数々の料理が並べられていた。
 香ばしいパンの香り、煮込み料理、彩り豊かな野菜のサラダ。

 そしてその中心に立っていたのは――ケラウノス。


「驚いたか? ……実は、料理は少し得意なんだ」

 笑いながら、ケラウノスはエプロンを外した。


「まさか、ケラウノス様が……お料理を……?」
「君が入浴してる間に、少しだけ腕を振るってみた」


 そのまま召し上がってくれとケラウノスは促してきた。

 席に座り、フォークを手にする。
 そして一口、わたしは口に運ぶ。
 その瞬間――


「……っ……美味しい……!」


 ぽろぽろと、涙が零れた。
 こんなに、こんなに優しくされたことがあっただろうか。
 こんなに美味しいものを食べたのは、いつぶりだろう。


「どうやら、口にあったようだね」
「ありがとう……ケラウノス様……本当に……ありがとう……」


 涙声でそう言うと、ケラウノス様は椅子から立ち上がり、わたしの手をそっと握った。

「俺は君を見離さない。必要なことは、何でも申し付けてくれ」


 その瞳は真っ直ぐで、真剣で、そして優しかった。

 ああ――


 こんなに誰かを信じたいと思ったのは、初めてかもしれない。


 けれど。

 心の片隅に浮かぶのは、帝国の宰相・ベイスンの悪逆非道な顔。
 わたしを追放し、両親を処刑したあの男の企み。

 ケラウノスは、ふとその空気を読み取ったように口を開いた。


「オルジア帝国では……まだ動きがある。ベイスンの背後には、もっと深い闇があるようだ。……君を巻き込んだのも、その一端にすぎない」


 ――わたしは、この戦いに、何を持って立ち向かえばいいのだろう。
 その答えを、ケラウノスの手の温もりの中に、見つけようとしていた。
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