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罪の空白(上)
しおりを挟む――闇。
目を開けても閉じても変わらない、無音の闇が果てなく広がっていた。
体の輪郭が消えたように、手も足も感覚がない。
立っているのか、寝転んでいるのか、呼吸しているのか、それすら分からなかった。
ただ――“存在している”という確かな自覚だけが、辛うじてここに俺を繋ぎとめている。
やがて、暗闇にふっと光の粒が灯った。
視覚がおかしくなったわけではない。
確かにそこだけが白く輝いている。
浮かび上がったのは、白い羽根を背にした女の姿だった。
整いすぎた顔立ち。
彫刻のように均整の取れた肢体。
白のローブが闇の中で淡く揺らめき、まるで舞台の照明に照らされた像のように浮き上がる。
そして、特徴的なのは頭の上に付いた謎の輪。
まさに“天使”と言われてイメージする姿そのもの。
「おはようございます」
透き通る声が、真っ暗な空間に澄んだ鈴の音のように響いた。
「……あ」
思わず漏れたのは声とも吐息ともつかぬ、情けない音。
けれど、それをきっかけに喉がほどけ、俺は言葉を取り戻した。
「あんたは……?」
震える声で問いかける。
「見てのとおりです」
天使は薄い微笑みを張り付けたまま、両手をゆるやかに広げた。
説明する気はない。
そんな態度だった。
「じゃあ……ここは?」
「ここは地獄です」
間髪入れず告げられた答えに、思わず鼻で笑った。
「地獄? 冗談だろ。ここは夢だ。悪い夢を見てるだけだ」
「夢ではありません。あなたはすでに死にました。そしてここは、罪人の来る場所――地獄です」
冷えた声が頭蓋の奥まで響き、ぞくりと背筋を走った。
「罪人……? 俺が……?」
喉が渇く。
だが心当たりはひとつも浮かばない。
天使は揺らぎのない声音で告げた。
「殺人罪です。それから傷害罪も」
水面に石を投げ込まれたように、胸の奥で言葉が反響する。
俺は目を瞬かせることもできず、ただ天使を凝視した。
「……は?」
「覚えていませんか?」
「するわけねぇだろ。俺が人を殺した? 馬鹿言うな。俺はただの……ただの……」
否定しようとした声が途切れ、心臓が跳ねた。
――記憶が、ない。
自分がどんな人生を歩み、どんなふうに死んだのか。
思い出そうとするたびに霧が立ち込め、頭の奥がずきりと痛む。
「……俺は……」
こめかみを押さえ、うずくまる。
いつの間にか手足の感覚が戻っている。
だが、何か大事なものを忘れている。
思い出せそうで思い出せない、そのもどかしさが胸をかき乱す。
「覚えていないのですか。ならば仕方がありません」
天使は感情を動かすことなく、掌を差し出した。
そこに浮かんでいたのは楕円形の鏡。
人の顔ほどの大きさで、銀の枠には見知らぬ文字が刻まれている。
鏡面は濁った水面のように揺らめき、深い闇を閉じ込めていた。
「望むならば、お見せしましょう。あなたの罪を」
ごくり、と喉が鳴った。
それを知れば戻れない。
そんな予感が全身を駆け巡る。
だが――知らずにはいられなかった。
俺は黙って頷く。
天使が指先を払うと、黒い鏡面に波紋が広がり、やがて靄が晴れた。
「さあ、どうぞ」
促されるまま、鏡に顔を近づける。
言葉では指示されていないのに、“そうしなければならない”と直感していた。
息を止め、一瞬だけ逡巡し――
俺は揺れる鏡面に顔を沈めた。
※ ※ ※
気づくと、俺は天井から見下ろすように一つの部屋を眺めていた。
六畳一間の狭苦しい部屋。
カーテンは外の光を完全に遮り、空気は淀み、湿った匂いが漂っている。
机の上には開きかけのカップ麺や丸めた紙屑、酒瓶が乱雑に転がり、床には畳まれていない布団がしわだらけで放置されていた。
壁紙は所々黄ばみ、時間の止まったような空間だった。
そこに、一人の男がいた。
ぼさぼさの黒髪。
薄く伸びた無精髭。
着古して型崩れしたスーツを身にまとい、肩は落ち、瞳は焦点を失っている。
まるで生気が抜け落ちた抜け殻のようだった。
一目で理解した。――あれは俺だ。
「……」
胸の奥がずしりと重くなる。
思わず呼吸を忘れる。
鏡を通して見ているはずなのに、胸を圧迫する感覚がじかにのしかかってきた。
その俺に、一人の女が声をかけていた。
長い茶髪を肩で揺らし、清楚な白いセーターを着ている。
化粧っ気はなく、飾り気もないが、そこに漂う雰囲気は清潔で温かかった。
彼女を見た瞬間、胸が締めつけられる。
懐かしいような、痛みのような感覚が一気に押し寄せる。
俺と深い関わりがあった人物だろうか。
だが、鏡の中の俺は女の手を乱暴に振り払い、顔を歪めて何かを叫んでいた。
凄まじい剣幕で捲し立てている。
女は一瞬怯んだが、負けじと何かを言い返している。
言葉は聞こえない。
だが、その表情は必死だった。
俺に何かを伝えようとしているのが分かる。
それでも、鏡の中の俺は無慈悲に言葉を吐き捨てた。
その一言が突き刺さった瞬間、彼女の瞳に涙が盛り上がり、溢れ出す。
頬を濡らす雫は彼女の決意を崩し、やがてその肩を震わせた。
その様子を眺めながら、胸が締め付けられる。
「やめろ……」
俺は無意識に呟いていた。
だが、その言葉が映像の二人に届くはずもない。
女は背を向け、乱暴にドアを開け放つと、床に置かれたビニール袋にぶつかりながら部屋を飛び出していった。
去り際、光を反射して涙がきらりと零れる。
転がった袋から、白い紙箱と封筒が顔を覗かせた。
俺は呆然と立ち尽くしていたが、やがてその封筒を拾い上げる。
差出人不明の白い封筒。
開けることなく、握りつぶすようにしてポケットへ突っ込んだ。
その手は震えていた。
だが次の瞬間、何かに突き動かされるように台所の戸棚へ向かう。
取り出したのは一本の包丁。
研がれていない鈍い刃が鈍色に光り、そこに俺の顔が歪んで映った。
血の気が一気に引いていくのを感じた。
「……待て」
声が勝手に漏れた。
過去の映像に触れられないことは分かっている。
それでも、この行為を止めなければならないと本能が叫ぶ。
「待て、やめろ……!」
だが、鏡の中の俺は包丁を握り締め、決意を固めた目で視線を落とした。
「やめろっ!!」
絶叫と同時に、俺は鏡から顔を離し、尻もちをついていた。
肺の奥から息が荒くこぼれ出る。
冷たい汗が首筋を伝い、背中をじっとりと濡らしていく。
指先は痺れ、胸は早鐘のように脈打っていた。
目の前では、天使の女が変わらぬ笑みを浮かべ、鏡を胸に抱いている。
まるで何事もなかったかのように、その姿は静かだった。
「思い出しましたか?」
小首を傾げる仕草は、無邪気さすら感じさせる。
けれど、その声音には冷たい光が潜んでいた。
「……あの女は誰だ?」
現実から目を逸らすように、俺は質問をすり替えた。
胸の奥で、答えを知っている気配が蠢いているのに、口からは別の言葉しか出てこなかった。
「それはあなたが知っていることです」
天使は一切揺るがない。
俺の弱々しい抵抗を、すべて見透かしているようだった。
「じゃあ……俺はあの女を殺したのか?」
観念したように問う。声が震えているのが自分でもわかる。
「いいえ」
「は……?」
予想外の答えに、頭の中が真っ白になる。
耳鳴りが激しく、空間が揺らいで見えた。
「俺は殺人の罪で地獄に落とされたんだろ!?あの女を殺したんじゃ――」
「彼女は今も生きています」
天使の言葉が、すべてを否定する。
足元が崩れ落ちるような感覚に、呼吸が乱れた。
混乱。怒り。恐怖。
押し寄せる感情が一気に胸をかき乱す。
握り拳は震えていた。
「じゃあ俺は誰を殺したっていうんだよ!」
叫ぶ声は掠れ、必死に縋るようだった。
天使は微笑を崩さず、穏やかな調子で答える。
「もっと深く、記憶を遡る必要がありそうですね」
そう言って、天使が鏡に再び触れた。
鏡面に波紋が広がり、黒い靄が揺れる。
「さあ、思い出してください。あなたは事実を知っているはずなのですから」
抗えない。
心は必死に嫌がっているのに、身体は自然と鏡へ歩み寄る。
足が勝手に進む。
この鏡を前にすると、なぜか好奇心に抗えない。
――見てはいけない。
けれど見たい――見なければならない。
女の微笑を横目に、俺は大きく息を吸い込み、震える手で鏡に触れた。
再びその奥を覗き込む。
その奥にある事実が――記憶が――罪が、俺を待っているような気がした。
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