海に溺れる

沙羅

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それは月の綺麗な夜のことだった。

今は部活帰りのため闇の中を歩いている。早く帰ってご飯を食べようと、ただ淡々と足を動かしていた。
もうあと5分もすれば家に着くという頃、唯一辺りを照らしていた街灯の光が一瞬だけ消えた気がした。後ろで聞こえる足音。もう何度も体験している嫌な予感。

「やっと見つけたぞ、雨月……!」
その声には心当たりがあった。いや、正確にはこんなことを言う種族を知っていたというほうが合っているかもしれない。まとわりつくような視線、荒い息。彼は、彼らはまるで獣のようで、気持ちが悪い。

「はははっ、こいつを殺せば俺が王だ!!」
そう言って、男は僕に向かって走ってくる。
僕は袖からナイフを出して、彼の腕に深く突き刺した。

「うわぁぁぁぁっ!」
罪悪感はない。だって彼らは人ではないのだから。

「くそっ! 混血のくせに対吸血鬼用の武器を使えるなんて聞いてないぞ!!」
「それはお前のサーチ不足だろう。僕が何の対策もしずに生き延びてきたと思うか?」
「ちっ」
大きく舌打ちをしたかと思えばそいつは消えていった。大方、自分の世界に帰ったのだろう。

「逃がしたか……」
少し悔しい気もしたが、危険がなくなったのなら文句をいう意味はない。ひとまず帰ろうと、僕はナイフをしまって歩きだそうとした。したはずなのに、なぜか足が動かなかった。

「なんだ、これ」
ある事情により人外と関わることは少なくない。だが、体が動かなくなるほどの強大な気配を感じたのは初めてだった。

「意外に活発な姫さんなんだな」
バカにするような軽い声。確実に近くにいるはずなのに、姿が見えない。

「誰だ!!」
「カイト、永瀬海斗だ」
僕と電灯との間に急にその人が現れる。僕より頭一つ分高い背。鋭い眼光。キラキラと光るような金色の髪。怖いほどに美しい男だった。僕はこの男に直接会ったことはない。だが、心当たりはあった。

「まさか……」
「あぁ。俺は海の王だ」
そう言って彼は手首の青いブレスを見せる。それは色違いだが、僕が左手首につけているブレスと同じものだった。

「僕を殺しにでも来たのか?」
右手で左手首を抑えながら問う。いつの間にか身体は動かせるようになっていたが、逃げるという選択肢が浮かばないほどのパニックに陥っていた。今までの出会ってきた吸血鬼と彼とでは、強さの格が違う。本気で来られれば半分人間の自分では勝ち目がなかった。

「殺しはしねぇよ。殺してもそのブレスレットは手に入らないからな」

――吸血鬼の世界こと『月界』には3人の王がいた。彼らはそれぞれ天・地・海の称号をもらい、月界を三等分して統治した。彼らは王の証として『自分の意志以外では絶対に外れないブレスレット』を色違いで作ることにした。だが、2代前、天の王が月界を裏切った。あろうことか人間の女と結婚し、子供まで作ったのであった――

「じゃあ、何しに来たんだ」
「これからオトす姫さんに一目会いに」
「オトす?」
「あぁ、自らブレスレットを渡したくなるようにな」
「はっ、わざわざ王自ら出向くほどに土地の拡大が大事なのかよ」
「国を捨てた天の者がそれを後生大事に持ってる方が俺には疑問だが」
「そんなの、僕たちのお前らへの最後の嫌がらせだ。そもそも勝手におじさんを裏切者扱いして月界から追い出したのはお前らの方だろうが」

僕がそういうとカイトは満足げに笑った。
「嫌がらせ、ね。間違っちゃいねぇ。確かに今の天は王の不在で無法地帯と化してる。姫さんがそういう性格で安心したよ。俺も手段を選ばなくてすむ」

カイトが一歩僕に近付く。僕は一歩後退する。カイトが薄く笑ったかと思うと、僕はまた動けなくなった。
「今日はやめておくつもりだったんだけどなぁ。姫さんがあまりにも生意気で可愛いのが悪い」
「何言って……っ!?」

反論しようとしたその時、首筋に鋭い痛みが走った。プツリと皮膚に何かが刺さった感触がする。

「流石は王家の血。他の人間とは比べものにならないくらいに美味いな」

痛みと同時に起こる、血の抜き取られていくフワフワとした感覚。体からだんだんと力が抜けていく。子供の頃から何度も吸血鬼には狙われていたが、血を吸われるのは初めてだった。いくら混血とはいえ王の血は濃すぎて毒にもなり、命の惜しい奴は飲んだりしない。

「さて。こんなに美味いもん飲ませてもらったんだから、お返ししねぇと」
この時、すぐその言葉の意味に気付けなかったことに僕は後悔することになる。

カイトが血の滴る牙に、僕を抑えていた手の片方を近づける。それでも力の入らない体では逃れられそうにない。僕はカイトの動作をぼーっと見ていた。街灯に照らされ光る牙があろうことか彼自身の手へと突き刺さり、僕の血とカイトの血が混ざり合う。彼はその口で僕にキスをした。

やばい。

「っ!!!?」

僕はここで初めて事の重大さに気が付いた。甘くて濃い血が口の中いっぱいに広がる。

――『初飲』。吸血鬼は最初に飲んだ血の味に、しばらくの間極度に依存する。だから本当は親族の中で済ますのだが、一度血の味を覚えてしまえば自分も吸血鬼になるのではと怖がり、初飲をすませていなかった――

必死にカイトの腕の中から出ようともがく。だが、口づけは深まるばかりで息が苦しい。
ついに僕は、その血を飲んでしまった。


身体がざわめく。ドロっとした液体が徐々に自分の身体全体へと行き渡る。その液体は頭がクラクラするほどに甘かった。

「俺の味、ちゃんと覚えろよ?」

口が離れる。足りない、足りない。その血が、美味しい血がもっとほしいのに。

僕はカイトの首に顔を近付ける。意識的に忘れた、否、忘れていたはずの牙の使い方。自分の知らない自分が、貪欲に血を求める。理性がなくなっていく怖さを感じながら、カイトの首筋に喰らいついた。

「痛っ……ははっ、やっぱり当たりだったか」
王の血は低級の吸血鬼が取り込めば死んでしまうほどに濃い。そんな血を初飲すればいくら王家の人間であれど数ヶ月は強い依存症状が出るだろう。

「美味しいか?」

痛みにわずかに頭を歪めつつも、カイトは優しい声で聞いてくる。その上、僕の頭に手を乗せゆっくりと動かし始めた。その子供扱いをされているような行動に羞恥と悔しさを覚え、なんとか理性を取り戻す。

「美味しいわけ……ない」
「強情だな」
僕が睨んでいるのなんか全く気にもならないかのように彼は笑った。

「だが血からは逃げられない。俺の血からも、姫さんの中に流れる吸血鬼の血からも」

そう言ってカイトは闇に紛れた。敗北感がこみ上げてくる。

「最、悪」

口まわりを手で拭い、ぐっと唇を噛み締めた。
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