拡張現実におおわれた世界で

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第34話 落とし所

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「……ダサいとこ見せちまったな」


 カフェの話し合いのあと、車に入った瞬間、八木さんはポツリと言って目元を腕で覆い、椅子の背を倒した。


「言葉って不思議だな……。頭の中であんだけ自信あった言葉がな……喉元まで来ると全部頼りなくなるんだ……」


 八木さんはため息をつき、


「結局、逃げちまった。最後の方なんか自分のことを救う言葉ばかり考えて……。人って簡単に変わらないもんだな……」


 それは感情を込めた声ではなく、ただ事実を淡々と述べたような声だった。恐らくこうでもしないとこの自責の言葉を口にできなかったのだろう。


 だからこそ、強く胸を締め付けられた。


「八木さん……」


 その僕の声に反応して八木さんは力なく笑った。


「ずっと人付き合いでな一線を引いてきたんだよ。目を背けて避けてきた。俺なんかに人と通じ合えることなんてできないし、分かり合えるわけもないって……。変に気を遣うくらいなら人と最低限で関わろうってな……。上手くいなして避ける技術だけ身に着けて……。その避ける癖が染みついてな、普段の生活でも目を背けてやり過ごすのが上手くなった。まぁ、人間関係なんて至る所にあるから避けてたらその癖が染みつくわな……」


「……」


 僕はどう返していいか分からなくて……。ただ一言一句漏らさないようにするのが自分に出来ることだと思って、耳を傾けた。


 八木さんは俯いて、


「でも、このままだとお前に向き合っても何も言ってやれないと思った。それに、お前を見ている内に思ったんだよ。もちろん、現実でもお互い分かり合えないんだよ。所詮拡張現実は現実を拡張させたものだ。でも、そうは言っても幾分かは分かり合えるはずだ。その一歩目として聞こうと思ったんだよ。いつから俺が一人で歩き出したのかってな。どうしてあんだけ一緒にいて分からなかったんだ。今まではずっと目を背けようとしてたけど、それが修一と会ってから気になりだして頭の片隅にずっとあって……。今頃、それを知って何を言えるんだって話だけどな……。でも、それが原点で……知っていけないと思ったんだ。それを知れば何か得るものがある気がして……。だから、今日はあいつらと話そうと思ったんだ……」


 その言葉はずっしりと重く心にのしかかってくる。


「別にそこまで真剣に……」


「……しないといけないよ……。しなくちゃいけなかったんだ…………。俺のためにも修一のためにも……」


 八木さんは僕の言葉を遮って強い口調で言った。だが、すぐに声が弱弱しくなった。


「でも、どんな風に話を振ればいいか分からなかった。また避けて後回しにしちまった……せっかくチャンスくれたのにな……」


 遠くを見るような表情をする八木さん


「……はぁ……俺ってだせぇだろ」


 軽々しくは返せない言葉だった。しばらく熟考し、何とか「それは僕には決めかねます」と答えた。


「変な優しさはいらねぇんだよ。自分で一番分かってる……」


 腕で両目を覆うその姿は哀愁が全身からたゆまなくあふれ出ていた。


 しばらく車の中は重苦しい空気が流れていた。


「今、修一はさ、日常の至る所に逃げたいって思うところあるだろ。でも、何もできずに日々嫌なこと上手くか知らねぇけど誤魔化して日々をやり過ごしている」


 不意に八木さんが口を開いた。僕が何かを言う前に八木さんはすぐに口を開いた。


「安心してくれ。ずっと後悔した感じで聞こえたかもしれないけどな。俺はこの人生に後悔してるわけじゃないんだ。目を背けて誤魔化してても幸せにはなれるよ」


 じっと八木さんは僕を真っすぐに見据える。


「でも、その内俺の人生はこれでいいのか分からなくなる」


「……分からなくなる?」


「あぁ……。それは人生に対して後悔っていう言葉を使うほどたいそうなもんじゃないんだ。不意に思うんだよ。俺にはこれって指さして堂々と明確にやり遂げたって言えることがないんだ。ただ、嫌なことから目を背けてやり過ごしてきただけだ。何にも選択してこなかった。逃げることもな……。常識とか同調意識に纏わりつかれて逃げようとしなかった。戦う度胸もなくて……。ただ避けて誤魔化してたんだ。それにさっき言っただろ。三十になってやけに周りの目が気になって俺は妥協したって……。妥協自体は間違えているわけじゃない。妥協なしで生きていけるほど世界は甘くない。でもな、俺は他人の表面を見て妥協した。他人がこう動くから俺もこう動くって……。俺の内にあるもの全部、度外視して決めたんだよ。勿論、他人と同じように動いているから安心できるし、ある程度は幸せだと思う。でも、進んでいる道に確信は持てない時が来るんだよ。俺や修一みたいな周りと違って穿った考えを持ってる奴はな余計に強く思うのかもな……」


 それはもう八木さんが独り言を言っているかのように平坦な声で……。もはや自問自答してると言っても過言ではない。八木さんは憂いた顔で宙を見上げた。


「正直に言うとな俺は期待してるのかもな……。俺に似てる考えのお前がどう進んでいくかを見て、自分が合ってたかどうか、間違えてたかどうかを結論付けれるかもしれないって」


「…………頼られても困りますよ。どうすればいいかなんて……」


「そうだよな……すまん。何にもお前に出来てないのにな……」


「……い、いえ………………」


 どう返していいか分からなくて、でも答えなきゃいけない気がして。少しでも言葉に意味を帯びさせないように出来るだけ淡白な声で返す。


 また異様な静けさが場を支配する。そのままのっぺりと静寂が続いて五分ほどか八木さんが口を開いた。


「話があっちこっち言ったけどな、俺が今日修一をここに呼んだ一番の理由は言いたいことがあったからなんだ」


「……なんですか?」


「別に無理して拡張現実に慣れるふりで生きていくのもいいが、逃げるっていう選択肢を頭の片隅に置くのはどうだって話だ。


 今までの感じ修一は俺よりこの世界が嫌ってるみたいだ。修一はこの街には似合わないのかもしれないしな……」


「逃げるっていう選択肢を頭の片隅に置く……ですか?」


「この仕事のお陰で色んな人種を見ることが出来たよ。その時気付いたんだが、案外人の生き方って色んなものがあって、案外しぶとく生きれるんだなって分かったんだよ。それで思うようになったんだよ逃げるという選択肢を選べる奴って凄いんだって。耐えることが美徳とされてるけどな、だからこそそれを選べるって誇れることだって言いたかった。何もしないで拡張現実をただ目を背けて誤魔化して生きていくくらいだったら、逃げる選択肢もあるんだぞって言いたかったんだよ」


 八木さんは「まぁ、さっきの今で俺が何言ってるんだっていう話だけどな」と自虐的に笑い。


「まぁ、いろいろ話したけどな、何度も言うけどな。目を背けて誤魔化しながらを生きることは否定してない。それが正しいんだよ。この世界を生きるには、逆にいろんなことから目を背けて誤魔化し生きたほうが頭がいい。俺はそう思う。でもな、それで無理だったら、逃げることを選択肢に入れるべきだ。逃げることはすごいことだと思う。その時に、少しでも頭に残っていることがあるなら、それが大事なことで。今まで見えなかった自分が見えるかもしれない。俺が今伝えられることはこんだけだ」


 八木さんのその意味を考えたとき、頭に沙織の言葉が蘇ってきた。『大人になろうよ』と言う言葉が……。


「覚えてますか? 大人になれって沙織に言われたこと」


「ああ」


「辛いことでもそれに慣れるのが大人になるって言うことで、そうじゃないと幸せになれないって……。八木さんの言ってることと余りにもかけ離れていて……」


 八木さんの言葉は耳障りが良くて、逃げてみたいという気持ちが芽生えてきていた。でも、まだ怖いものがあって……。沙織に言われた大人になれがまだ強く頭に残っていた。


「……お前、沙織と言いあいになったことあったろ。実はお前が飛び出していった後、俺言われたんだよ。修一を拡張現実で生きさせるために慣れさせないとって……」


 そんなこと言ってたのか……。あれだけひどい態度をとっても尚も自分のことを考えてくれていたことへの喜びと、申し訳なさ……同時にやはりどこか虚しさを覚えて……。


 八木さんが少し間を開けて口を開いた。


「その時思ったんだ。あんなに頭いいけど沙織だって子供なんだなって……」


「……子供ですか?」


「大人っていうものに期待しすぎだ。大人だって慣れていくわけじゃないんだよ。大人になっても嫌い物は嫌いで、更にもっと嫌いなものが増えていく。お前らが思ってるほど大人って凄いもんじゃないよ。ほとんどお前たちと変わらない。ただ大人っていうのはさ、降りかかってくる嫌なことからどれだけ上手く目を背ける技術と本当の気持ち押し込めて無理に説得させる技術が子供の時よりは随分と上手くなってるだけだ」


 八木さんは遠くの方を見つめながら言った。


「…………なんか大人って世知辛いですね……」


「言葉だけで見ればそうかもしれねぇけど、案外やってみるとそこまで悲観になることでもないんだよ……。まぁそれは俺の場合だけどな……」


「……そうですか」


 一気に知った情報だらけで、同時にこれまで未来を強く意識したのはあまりなく、それも相まって余計に分からなくなって……。


 これからの人生が途方にもなく長く思えて……。


 なにか答えが欲しかったが、色んな得た知識がその答えを決めるのに待ったをかける。


 そんな状況ですぐに胸が一杯になって……。僕はたまらず口を開いた。


「僕はどうしたいんでしょうね?」


 気付くとその言葉が出ていて、すると八木さんは少しほっとしたような顔をして、


「それでいいんだよ」


 そう言って微笑んで、


「良かったよ。少し偏った話し方になってた気がしてたから、修一が俺の意見に流されてなくて」


 そう言うとすぐに真面目な顔をして、


「すまん余計な話しちまったな。まぁ、俺が思うにすぐに決めなくてもいいんだ。吟味して決めればいい。もっと判断材料を増やしてたりな。もし、こういう風に逃げるならこう逃げて、こう生きていこうってあらかじめ調べてみるとかさ……」


 八木さんのその答えを聞いて一旦はすんなりと落としどころを見つけることが出来た。


「まぁ、ずっとここにいるのも何だし、もう出るか?」 


 八木さんは僕を家に送り返そうと車を走りださせた。


 その道中の間、僕はぼんやりと逃げた後どんなことになっているのだろうなど考えていて、ずっとその間頭に引っかかっているものがあった。


「……沙織……」


 僕はポツリと呟いた


「心残りか……?」


 僕は頷いた。逃げる選択肢を選ぶにはどうしても……。でも一体沙織に何をすればこの脳の裏にいつでもずっとこびりついている、もやもや感を払拭できるのか分からなかった。


「どうすればいいんでしょ……」


 八木さんみたいにどこでお互いすれ違い始めたか知ればいいのか……。いや、多分初めからすれ違っていたんだろう……。


「…………すまねぇな……。大人としてビシッと言ってやりたいところだが、俺も分からないよ。目を背けていただけで……。逃げてしまった身だからな……。時間をくれればもう少し何か渡すものが出来るかもな……」


「……そうですか」


 思わず深いため息が出て、ぼんやりと窓の外に目を移す。その様子をミラー越しに見た八木さんは、


「……分かったことならあることはあるんだ……それでよければ伝えられるが……」


 そう自信なさげに言う。


「…………それでもいいです」


 少しでも何か掴めるものがあるなら欲しかった。


「あぁ……人間関係で何かあった時、答えって基本、自分の内側には見つからねぇってことだ」


 八木さんははにかむ様に笑い、


「当たり前だよな。答えは他人が持ってるんだから。自分の中見てもあるわけがない」


 その言葉は当たり前の事実で、でも僕では思いつきすらしないであろう事実だった。ぐっと心を鷲掴みされるような心地を覚えた……が、


「でも、どうその答えを引き出すのか。僕は分からないですよ……」


 やはり留めるものがある。また自分がどうしたいのかが分からなくなり始めた。動きたいのか、このままでいたいのか……。


「そんなもん俺も知りたいよ」


 少し考えた後、僕は息をまたはぁっと吐いて……。


「人間関係って面倒くさいんですね……」


 八木さんは少し黙っていった。


「そんなもの殆どの人が思ってるよ」


 そこからはお互い黙ったまま車は走り、僕の家についた。


「送っていただきありがとうございます」


 そう言って車を降りようとした時だった。


「そう言えば修一、上からもう社会復帰システムを外してみたらどうだっていう話があるんだが……どうする?」


 僕は少し考えて、


「……分かりました」


 それははきはきとした声じゃなく、まだ奥歯にものが挟まっているような声で……。


 不思議な気分だった。覚悟を決めたわけじゃない。まだ社会復帰システムに頼りたい自分もいて……。


 でも、仕方ないし……外すかという消極的な気持ちで……。あれだけ八木さんと話して断るのも気まずいし。


 少なくともずっと戦い続けるから戦い続けるよりも、逃げれるために戦う方がまだずっと勇気が出せそうな気がしただけ……。そんなもろもろの気持ちがありありと声に乗っていたと思う。


 それを聞いて八木さんは嬉しそうに笑った。なんだか丸め込まれたような気もしたが悪い気はしなかった。
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