名もなき春に解ける雪

天継 理恵

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白雪汀の手記 夏

 夏が訪れた。

 桜井さんと付き合いだしてから、学校での生活は大きく変わった。多くの時間を彼女と過ごすようになり、一人の時間が減った。
 週二回の昼休み、放課後、下校。まさか自分が家族以外の人間と、こんなにも時間を共有する日が来るとは思わなかった。
 過去の私が今の私を見たら、青天の霹靂だと指を差すことだろう。それぐらい、今こうして人と親密な関係を構築していることが、奇妙で不思議に思える。

 彼女は、ひたすら真っ直ぐな人だった。
 思いやりに溢れ、人の立場に立ち、寄り添うように物事を考えられる人だった。
 告白をされる前から感じていた、彼女の素直な気質に偽りはなく、多くに愛され健全に育ってきたのだということが、会話の端々から感じられた。
 
 社会に揉まれつつも、擦れて偏屈することなく、その純粋性を保っていること。それはこの過剰で過密なコミュニティを形成するようになった現代社会において、奇跡的なことだと思う。
 多くの場合、知らずに他者の価値観や常識に影響を受け、変容させられるのが常だ。だというのに、この歳に至るまで、彼女は桜井羽澄という人間性を誠実に保っている。
 一見すると、他者に迎合し、埋没することを良しとするタイプに見えていたが……芯が強いのだろう。その健気さが、彼女の大きな魅力のひとつだと感じた。
 
 だがしかし、私に対しては、未だ距離感を測りかねているようだ。
 告白を受け、私が「君と同じ好きを持ち合わせていない」と答えたことを、ずっと気にしているのだろう。押し通すような形で付き合うことになったのを、明らかに彼女は気にしている。
 
 私との境界線に。
 友人と、恋人の境界線に。
 彼女は常に悩みながらも、慎重に見極めようとしている。

 彼女は、私への配慮をいつだって忘れない。
 近付こうとしつつも、線を踏み越えないようにと気を配る姿は、この上なくいじらしいと思う。

 ——だから私は、そんな彼女の純粋な好意に、もっと応えたいと思うようになっていった。

 休みの日に約束をし、一緒に動物園へ行った。
 あの日、初めて一日を共にすることに、一切の不安がなかったわけではない。けれど蓋を開けてみれば、そんな心配は杞憂でしかなく、むしろ私の話を本気で楽しむ彼女に、想定以上の喜ばしさを抱かされた。
 
 ——彼女と過ごす時間が、楽しい。

 日毎に強まる実感は、私の茶を用いた比喩に、彼女が自ら思考し答えてくれた時、頂点に達した。


 それなら、『好き』も一緒ですよね、と。


 その答えは、『嫌い』を例えに用いた私とは真逆で、彼女のポジティブな思考が表れていた。その返答が対比となり、私は自覚するよりも、ネガティブな思考特性なのかもしれないと気が付かされた。
 他者と向き合い、鏡とした時、自分という輪郭を知る。
 人との交流が、これほど自己の探究になるとは、新たな発見だった。


 彼女は、私という並外れた人間を、ありのままに受け止めてくれている。
 

 その言い知れぬ心地良さが、私を動かした。
 

 ——彼女の望みに応えたい。

 
 恋人という、好意を交わし合う関係性を求め憧れる彼女に、可能な限り応えたい。そう思った私は、カフェで側に座っていた若い恋人に注目し、参考にした。


 そして、恋人らしさへの第一歩として、呼び名を変えることにした。


 「桜井さん」から、「羽澄くん」へ。
 苗字という集合名詞ではなく、個人を指す名詞を呼ばれることで、人はより密接な繋がりを知覚する。

 彼女は私が自ら行動を示したことに驚いていたが、恥ずかしがりながらも、その顔はとても嬉しそうだった。
 照れたようなその笑顔を見て、私は正しく彼女に寄り添えたのだと思った。期待に応えられたのだと思った。


 しかし、私からのこの一歩は、過ちだったのかもしれない。


 私は、彼女が懸命に探り守ってきた境界線を、たった一歩で踏み越えてしまった。

 「片側のみの好意から成る付き合い」。

 その曖昧な関係性が引く線は、恋愛的好意を持たざる私の行動によりさらに不明確になり、彼女はどこが境界かがわからなくなった。

 結果、彼女はそれまで自重していた、私からの好意を求める素振りを見せるようになった。

 それまでただ笑顔だった彼女に、陰りが見え始めた。
 何かを耐え忍ぶように、何かを隠すように、彼女は無理をして笑うようになった。
 
 花火大会に誘われた時、彼女は、恋人という関係性をもっと実感し、進展させたいのだろうと察した。
 片思いからの脱却と、好意の結実。望みが日々強まり、それが彼女を苦しめているのだと察した。

 ……この結果を招いたのは、他でもない私だ。
 全ては、私の浅慮と、軽率な行動が原因だ。
 

 そうわかっていたのに、私は、彼女の苦しみを放って置けないと思った。
 曇る笑顔を、晴らしたいと思った。


 ——そうして私は、彼女にキスをするという選択をした。
 
 彼女への気持ちを、『恋』と形容できないまま。

 彼女の望みの、上辺だけを掬い取るように。


 ——私にとって初めてのキスは、おそらく、彼女にとっての初めてでもあっただろう。

 そのキスひとつが、彼女にとって、どれだけの意味を持つのか。

 私はきっと、わかっていなかった。


 私のことが好きだと。
 大好きだと。

 新たにそう告白をした彼女の涙は、喜びよりも、苦しみが勝っているようだった。
 彼女に応えたいという私の行動が、彼女を追い詰めているように思えた。

 
 私はきっと、誤った選択をし続けている。


 距離を見直した方がいいのでは。
 離れた方がいいのでは。

 そう思い巡らせながらも、もう——彼女のいない生活を想像することは、困難になっていた。

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