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5話
《――あのとき、見えてしまったのです。こちらを見ないあなた様の瞳に浮かぶ、僅かな涙を。
ひどく胸が痛みました。言わなければ良かったと、今でも時折後悔します。だけどそれと同時に、言って良かったとも思うのです。あのまま何もせずに別れることになっていたら、自惚れかもしれませんが、きっと、あなた様は私を追いかけて来たでしょうから。そうやって、あなた様に貴族の地位を捨てさせるのだけは、本当に嫌だったのです。
そういえば、噂で聞きました。従姉妹とご婚約なさったそうですね。おめでとうございます。あの子は私と違ってとってもいい子ですから、あなた様に恥をかかせることはないと思います。どうか、末永くお幸せに。
……本音を言うのならば、あなた様の傍にいたかった。隣に立っていたかった。幸せな家庭を築き、愛し愛され、穏やかな日々を過ごして、長い時を一緒に刻んでいきたかった。だけど、それはもう叶わないことです。潔く諦めようと思います。あなた様も、いつまでも元婚約者に想われていたくないでしょうし。
そろそろ紙の終わりが見えてきたので、これで終わらせていただきます。それでは、お幸せに。
愛をこめて
レイチェル》
ふぅ、とため息をついて、レイチェルはペンを置いた。そしてできあがった手紙を眺め、満足そうに頷く。手紙を書くのは久しぶりだったけど、あまり失敗をせずに書けた。これなら大金をはたいて上等な紙を購入したかいがある。
だけど。
レイチェルは顔をうつむけた。この手紙を出すことはできない。そんなことをしてしまっては、折角ユリウスを拒絶したのに、意味がなくなってしまう。
大丈夫、と心の中でつぶやいた。元から、そのつもりだったのだから。この手紙を書いたのは、自分の気持ちを落ち着けるため。それ以上の意味はない。あってはいけない。だから、大丈夫。きっと出さずに済む。
つい、と視線を動かし、窓の外を見た。そこにはレイチェルの好きな子爵邸の庭園ではなく、何もない、だだっ広い庭が広がっていた。
レイチェルは今、子爵領の片隅にある小さな村で暮らしていた。もちろん母も一緒に。
喪が明けた後、子爵位は正式に叔父に譲られるため、レイチェルと母は屋敷を出なければならなかった。しかし、どこに行けば良いのだろう? 叔父の屋敷は変わらず叔父のものだし、叔父は子爵邸には決して残させはしないと言う。途方に暮れていた母娘に手を差し伸べたのは、レイチェルの乳母だった。
彼女の提案は、彼女自身これを機に実家に戻るから、それについて来ては、というもの。最初は渋ったものの、「もちろん養われるだけではございませんよ。ちゃんと仕事もしていただきます」という乳母の言葉に、母娘は彼女の提案に乗ることを決めた。養われて、迷惑をかけることだけが気がかりだったから。その心配がないのなら、安心してついて行ける。
そして父の死から半年後。レイチェルと母はこの街へ越してきた。
最初は慣れないことばかりだった。質素な食卓に肌触りの悪い服。冷たい水で皿洗いなどを手伝っていたら、いつの間にか手のひらが荒れていて、柔らかな肌はどこかへいってしまった。
それでも、悪いことばかりではなくて。例えば、温かい食事とか、他人との距離がとても近くて寂しさを感じることがあまりないとか。特に今まで関わったことのなかった平民の子供たちは、貴族とは違いとても伸び伸びとしていて、彼らの明るさはレイチェルを元気づけてくれた。
けれど、レイチェルの心が完全に満たされることはなかった。どこかぽっかりと穴が空いているかのように、時折虚しさに襲われる。きっと、ユリウスがいないからだろう。
七歳のあの日からつい一年前までずっと一緒にいたユリウス。大好きなユリウス。彼の存在はレイチェルの中でとても大きなものになっていて、彼の代わりになるような人は、きっと世界中探してもどこにもいない。
だから心を整理しようと、彼のことを忘れようと、手紙を書いた。もう、手に入らない彼。手紙に書いた通り、彼も想い続けられるのは、嫌だろうから。
けれど。
(予想外だったわ……。まさかこんなにも、想いが膨らんでしまうだなんて)
レイチェルはつい、と目を伏せ、手に持った便箋を眺めた。小さく笑みを浮かべる。
書いているうちに昔のことをたくさん思い出し、その度に愛しい気持ちが湧き上がった。また、会いたい。会って、抱きしめられたい。そんな想いで、胸が張り裂けそうになった。これじゃあ、手紙を書いた意味がない。
何をやっているのかしら、私。そんなことを思いながら、レイチェルは机の引き出しの鍵を開け、そっと手紙を滑り込ませた。そして引き出しを押し込もうとして、……思いとどまる。
しまわなければ。早く鍵をかけて、そしてもう取り出さないようにしないと。母はレイチェルに新たな幸せを掴むよう望んでいて、レイチェルを好きだと言う人もいて、……ユリウスも、新たな婚約者を見つけたのだから。
だけど、それでも。こんな薄暗いところにしまいたくなんてなかった。
心の奥底に仕舞って、眠らせて、ほこりを被らせて。そんなことしたくないし、多分できやしないのだ。だってその宝石のような思い出は、レイチェルの全てと言っても過言ではないのだから。
レイチェルは引き出しから手紙を取り出すと、胸に抱え込んだ。大切な、大切な宝物。これを入れるのにふさわしいのはこの引き出しじゃなくて……。
引き出しを押し戻すと、机の上に置かれていた小箱を手に取った。別の鍵を使って開け、その中に手紙を入れる。少し大きかったから、折りたたんで。
小さく、簡素な宝箱。ユリウスがくれたもの。きっと、この手紙を仕舞うのにふさわしいのは、ここだ。
レイチェルは微笑みながら、その宝箱に鍵をかけた。もしかしたら、レイチェルのこの行動は正しくないのかもしれない。引き出しにしまった方が良かったのかもしれない。だけど、そうしたくなかった。彼が好き。その気持ちに嘘はつきたくなかった。
(そうよ。蓋をするくらいなら、このまま抱えて生きていきましょう)
それで誰かと一緒に幸せになれなくても、他でもない私が幸せなのだから、それでいい。
明日、謝ろう。母様にも、彼にも。そう思いながら、レイチェルはランプの明かりを消すと、硬いベッドへ潜り込んだ。
満月の夜。庭では静かに、アガパンサスが揺れていた。
ひどく胸が痛みました。言わなければ良かったと、今でも時折後悔します。だけどそれと同時に、言って良かったとも思うのです。あのまま何もせずに別れることになっていたら、自惚れかもしれませんが、きっと、あなた様は私を追いかけて来たでしょうから。そうやって、あなた様に貴族の地位を捨てさせるのだけは、本当に嫌だったのです。
そういえば、噂で聞きました。従姉妹とご婚約なさったそうですね。おめでとうございます。あの子は私と違ってとってもいい子ですから、あなた様に恥をかかせることはないと思います。どうか、末永くお幸せに。
……本音を言うのならば、あなた様の傍にいたかった。隣に立っていたかった。幸せな家庭を築き、愛し愛され、穏やかな日々を過ごして、長い時を一緒に刻んでいきたかった。だけど、それはもう叶わないことです。潔く諦めようと思います。あなた様も、いつまでも元婚約者に想われていたくないでしょうし。
そろそろ紙の終わりが見えてきたので、これで終わらせていただきます。それでは、お幸せに。
愛をこめて
レイチェル》
ふぅ、とため息をついて、レイチェルはペンを置いた。そしてできあがった手紙を眺め、満足そうに頷く。手紙を書くのは久しぶりだったけど、あまり失敗をせずに書けた。これなら大金をはたいて上等な紙を購入したかいがある。
だけど。
レイチェルは顔をうつむけた。この手紙を出すことはできない。そんなことをしてしまっては、折角ユリウスを拒絶したのに、意味がなくなってしまう。
大丈夫、と心の中でつぶやいた。元から、そのつもりだったのだから。この手紙を書いたのは、自分の気持ちを落ち着けるため。それ以上の意味はない。あってはいけない。だから、大丈夫。きっと出さずに済む。
つい、と視線を動かし、窓の外を見た。そこにはレイチェルの好きな子爵邸の庭園ではなく、何もない、だだっ広い庭が広がっていた。
レイチェルは今、子爵領の片隅にある小さな村で暮らしていた。もちろん母も一緒に。
喪が明けた後、子爵位は正式に叔父に譲られるため、レイチェルと母は屋敷を出なければならなかった。しかし、どこに行けば良いのだろう? 叔父の屋敷は変わらず叔父のものだし、叔父は子爵邸には決して残させはしないと言う。途方に暮れていた母娘に手を差し伸べたのは、レイチェルの乳母だった。
彼女の提案は、彼女自身これを機に実家に戻るから、それについて来ては、というもの。最初は渋ったものの、「もちろん養われるだけではございませんよ。ちゃんと仕事もしていただきます」という乳母の言葉に、母娘は彼女の提案に乗ることを決めた。養われて、迷惑をかけることだけが気がかりだったから。その心配がないのなら、安心してついて行ける。
そして父の死から半年後。レイチェルと母はこの街へ越してきた。
最初は慣れないことばかりだった。質素な食卓に肌触りの悪い服。冷たい水で皿洗いなどを手伝っていたら、いつの間にか手のひらが荒れていて、柔らかな肌はどこかへいってしまった。
それでも、悪いことばかりではなくて。例えば、温かい食事とか、他人との距離がとても近くて寂しさを感じることがあまりないとか。特に今まで関わったことのなかった平民の子供たちは、貴族とは違いとても伸び伸びとしていて、彼らの明るさはレイチェルを元気づけてくれた。
けれど、レイチェルの心が完全に満たされることはなかった。どこかぽっかりと穴が空いているかのように、時折虚しさに襲われる。きっと、ユリウスがいないからだろう。
七歳のあの日からつい一年前までずっと一緒にいたユリウス。大好きなユリウス。彼の存在はレイチェルの中でとても大きなものになっていて、彼の代わりになるような人は、きっと世界中探してもどこにもいない。
だから心を整理しようと、彼のことを忘れようと、手紙を書いた。もう、手に入らない彼。手紙に書いた通り、彼も想い続けられるのは、嫌だろうから。
けれど。
(予想外だったわ……。まさかこんなにも、想いが膨らんでしまうだなんて)
レイチェルはつい、と目を伏せ、手に持った便箋を眺めた。小さく笑みを浮かべる。
書いているうちに昔のことをたくさん思い出し、その度に愛しい気持ちが湧き上がった。また、会いたい。会って、抱きしめられたい。そんな想いで、胸が張り裂けそうになった。これじゃあ、手紙を書いた意味がない。
何をやっているのかしら、私。そんなことを思いながら、レイチェルは机の引き出しの鍵を開け、そっと手紙を滑り込ませた。そして引き出しを押し込もうとして、……思いとどまる。
しまわなければ。早く鍵をかけて、そしてもう取り出さないようにしないと。母はレイチェルに新たな幸せを掴むよう望んでいて、レイチェルを好きだと言う人もいて、……ユリウスも、新たな婚約者を見つけたのだから。
だけど、それでも。こんな薄暗いところにしまいたくなんてなかった。
心の奥底に仕舞って、眠らせて、ほこりを被らせて。そんなことしたくないし、多分できやしないのだ。だってその宝石のような思い出は、レイチェルの全てと言っても過言ではないのだから。
レイチェルは引き出しから手紙を取り出すと、胸に抱え込んだ。大切な、大切な宝物。これを入れるのにふさわしいのはこの引き出しじゃなくて……。
引き出しを押し戻すと、机の上に置かれていた小箱を手に取った。別の鍵を使って開け、その中に手紙を入れる。少し大きかったから、折りたたんで。
小さく、簡素な宝箱。ユリウスがくれたもの。きっと、この手紙を仕舞うのにふさわしいのは、ここだ。
レイチェルは微笑みながら、その宝箱に鍵をかけた。もしかしたら、レイチェルのこの行動は正しくないのかもしれない。引き出しにしまった方が良かったのかもしれない。だけど、そうしたくなかった。彼が好き。その気持ちに嘘はつきたくなかった。
(そうよ。蓋をするくらいなら、このまま抱えて生きていきましょう)
それで誰かと一緒に幸せになれなくても、他でもない私が幸せなのだから、それでいい。
明日、謝ろう。母様にも、彼にも。そう思いながら、レイチェルはランプの明かりを消すと、硬いベッドへ潜り込んだ。
満月の夜。庭では静かに、アガパンサスが揺れていた。
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