74 / 363
第2部 母と娘の関係
5-1レース直前なのにいまだに仕上がっていない件
しおりを挟む
私はパンの入った紙袋を大事に抱え、ノーラさんの部屋の扉の前に立っていた。何か、妙に緊張する。ノーラさんって怖いから、会う時はちょっと緊張してたけど、あれとは違う感覚だ。
以前は、ただの大家さんだと思ってから、気楽だった。でも『元シルフィード・クイーン』と知ってから、急に存在感が大きくなり、凄く身構えてしまう。
元々シルフィード業界は縦社会で、特に『上位階級』の人たちは別格だ。『元シルフィード・クイーン』は、この業界の大御所であり、雲の上の存在だった。本来なら、見習いが話し掛けられるような相手ではない。
それはさておき、今回は『ウォーター・ドルフィン』を貸してもらった、お礼をしに来た。リリーシャさんの言った通り、ノーラさんに相談したら、あっさり貸してくれたのだった。
〈サファイア・ビーチ〉の施設に預けてあった機体を借りて、毎日、仕事が終わったあとに練習していた。
ただ、暗くなると危険なため、仕事終わりに、三十分ほどしか練習できない。もう、レースまで一週間を切っているので、かなりギリギリだ。でも、練習量が少なすぎるので、仕上がっているとは、とても言えない状態だった。
私が扉をノックすると、中から返事が聞こえ、扉が静かに開く。
「ノ……ノーラさん。いつも、お世話になっております。これは、大変つまらない物ですが」
私は頭を深々と下げながら、紙袋を前に差し出した。
「って、何だい改まって?」
「い、いえ。いつも、お世話になっておりますし。今回は、レースの練習のご協力、大変ありがとうございました」
私は使い慣れない言葉を並べ、何とか誠意を伝えようとする。
「別に、私は何もしちゃいないよ。てか、気持ち悪いから、その話し方やめな。何か悪いものでも、拾い食いしたのかい?」
「いくらお腹空いてても、そこまでしませんって! いや、じゃなくて『元シルフィード・クイーン』の大先輩に、失礼がないようにと思っただけですから」
その直後『バチーン!』と音が響き、頭に衝撃が走る。私は、慌てて額を両手で押えた。
「あだっ!! 急に何するんですかっ?」
いきなりデコピンされ、さすがに私もイラッとして反論する。
「それで、いいんだよ。今は正真正銘の、ただのアパートの大家さ。つまんないこと、気にしてんじゃないよ」
「はぁ――」
そうは言われても、超大先輩だと、身構えちゃうんだよね。体育会系思考なので、どうしても、先輩には畏敬の念を抱いてしまう。
「とりあえず、入りな」
いつも通り、ノーラさんは、さばさばと言い放った。私は彼女のあとについて、ゆっくり部屋に入って行く。
ノーラさんは、先ほど私が渡したパンの袋をテーブルに置くと、キッチンに入って行った。どうやら、お茶の用意をしているようだ。
私はテーブルの前で、じっと立っていた。変に手伝おうとすると『余計なことするな』と怒られそうなので、大人しく待っていたのだ。
やがて、ティーカップの載ったトレーを持ち、ノーラさんが戻ってくる。
「何ボサッと突っ立ってるんだ。サッサと座ったらどうだい?」
「はいっ、失礼します」
やっぱ、緊張する……。いつも通りと言われても、やはり『元シルフィード・クイーン』なのを、意識してしまう。
ノーラさんが私の前に差し出したのは、コーヒーの入ったカップだった。カップも受け皿も、こった花柄が入ったアンティークだ。
結構、食器とか、こだわってるんだよね。それに、凄くいい香りがする。コーヒー豆も、いいものを使っているに違いない。
「自分で入れな」
ノーラさんは、ミルク差しと砂糖の入れ物を差し出してきた。
ぶっきらぼうだけど、相変わらず細やかな気遣いだ。流石は、元シルフィード・クイーン。って、それは関係ないのかな。ノーラさん、大雑把そうに見えて、几帳面だからね。
私がミルクと砂糖をたっぷり入れていると、ノーラさんがパンの袋の中を覗き込んだ。
「これは、リリー嬢ちゃんの入れ知恵かい?」
ノーラさんは、怪訝な表情をしながら尋ねてくる。
「いえ、以前、リリーシャさんから『ノーラさんは、ぶどうパンが好き』って、聴いたことがあったので。いろんなお店を回って、実際に食べ比べてみて、一番おいしかったのを買って来ました」
今日、持って来たのは〈風車亭〉のぶどうパンだ。中にたっぷりクリームチーズが入っており、濃厚な風味が、干しぶどうと合っていて、とても味わい深い美味しさだった。
スピの情報を元に、色んなパン屋を食べ歩いて、ようやく見つけ出した。今まで食べたパンの中でも、五本の指に入る逸品だ。でも、私の好みが、ノーラさんの口に合うかどうか――。
「自分でこの店を見つけるとは、少しはこの町が、分かって来たじゃないか」
「有名なお店なんですか?」
ここのお店は、スピで調べたのではなく、偶然、見つけたんだよね。基本、下調べしてから行くタイプじゃないので。練習中に偶然、見つける場合が多い。
「そんなに有名じゃないけど、この町が出来たばかりのころからある老舗で、パン通の人間が買いに行く店さ。昔ながらのパンばかりで、最近の若者向きではないかもしれないね」
「確かに、レトロなお店ですよね。パンも、変わった物や、派手な感じのはないですけど。どれも美味しいし、特にパンの生地が絶品なんです。噛むほどに美味しくなるんで」
パンの食感とか、ほんのりした甘さとかが、絶妙なんだよね。ただ、見た目のデザインは地味で、古風な感じがする。あと、変わり種のパンも置いてなく、スタンダードな品揃えだ。
「ほう、知識や常識はからっきしの癖に、舌は意外とまともじゃないか」
「こっちに来てから、一日三食パンですから。生地や焼き具合の違いとか、微妙なところまで分かるし、パンの知識ばっかり付いちゃって。確かに、基本的な知識は、まだまだ知らない事だらけですけど……」
そういえば、パンのこと、ずいぶん詳しくなったよね。昔は、コンビニの菓子パンぐらいしか食べなかったから、よく分からなかったけど。今は、味・香・食感の違いまで、よく分かる。
「まぁ、いいんじゃないかい。その土地を知るには、まずは、食べ物からって言うからね。パン目当てで来る観光客も、結構いるんだから。パンの知識を極めれば、いずれ役に立つだろうさ」
「だと、いいんですけど」
ナギサちゃんには『余計な知識はいいから、ちゃんと勉強しなさい』って、いつも怒られてるからね。はたして、パンの知識が、役立つ日が来るのだろうか?
「で、レースの準備のほうは、どうなんだい?」
「練習は、毎日、仕事上がりに通ってます。とはいえ、一回三十分ぐらいなんで、練習時間が、心もとないんですけど」
ちょうど調子が出て来た辺りで、時間が終了になってしまう。最初のころなんか転んでばかりで、まともに走る間もなく、終わってしまっていた。
「走れるようには、なったのかい?」
「乗るだけなら、初日に出来るようになりました。ただ、一番の問題は、ターンですね。ゆっくりとなら曲がれるんですけど。スピードを命一杯に出していると、上手く曲がれなくて。大きく流れたり、転倒したりして、かなり苦戦してます……」
楽しく走る分には、もう充分に乗れるようになった。でも、レースだから、速くないと意味ないんだよね。
「初日で乗れるようになっただけでも、十分さ。普通に乗れるまで、一週間以上かかる人もいるからな」
「毎日、エア・ドルフィンを乗り回してるので、そのお蔭だと思います」
ちなみに、ウォーター・ドルフィンには『オート』と『マニュアル』の二種類がある。オートは『マナ・クリスタル』の力で動くタイプ。マニュアルは、エア・ドルフィンと同じで『搭乗者の魔力』で動くタイプだ。
レジャー用は、オートタイプが多い。しかし、レース用の機体は、細かな魔力制御が必要なため、全てマニュアルになっている。
マニュアル機は、魔力制御ができないと動かせない。なので、マニュアルの、エア・ドルフィンに乗ったことのない人は、初めはかなり苦戦するらしい。最近は、エア・ドルフィンも、オートタイプが増えて来たようなので。
「でも、エア・ドルフィンとは、かなり違いますよね。加速のしかたも違うし、波の動きや水の抵抗もあるので、まっすぐ走るだけでも大変で。そもそも、今までは、全速力で走ることを、意識したことが無いので――」
空を飛ぶのも、空気抵抗はあるけど、水の抵抗とは全く比べ物にならない。あと、波って、風と違ってかなり不規則だから、読み辛いんだよね。
「ただ目的地に移動するのと、速く走るのは、全く別次元さ。常に高出力の魔力供給が必要だし、魔力制御の精度も、普通に走るのとは段違いだからな」
「ですよねぇ。たった三十分の練習でも、すっごく疲れるんですよ。やっぱり、全力で走ると、魔力の消耗が激しいんですかね?」
体力には自信があるのに、練習後は物凄く疲れる。どうやら、体力と魔力は別物らしい。
「それもあるが、高い集中力に加え、常に恐怖との戦いだからさ。空を飛んでる時は、転倒を恐れたことなんて無いだろ?」
「確かに、そうですね。空だと衝突でもしない限り、転倒はあり得ないし。でも、海面だと、ちょっと気を緩めると、すぐに転倒するんですよね」
もう、嫌というほど、転倒しまくった。エア・ドルフィンには、転倒という概念がないから、初めての経験だ。
「特に、スピードが出てる時のコーナーは、恐怖しかないですよ。いまだに上手く曲がれないし、無理するとすぐ転ぶし」
怖いもの知らずの私でも、全力でコーナーに突っ込むのは、相当な勇気が必要だ。全力ターンのたびに、冷や汗が出る。あと、スピードが出てる時に転ぶと、物凄く痛い。
「ちゃんと曲がる時に、魔力制御しているのか? アクセルだけで調整しても、高速では曲がれないぞ」
「あーっ、なるほど。ずっと全力供給でした……」
速く走ることに、全ての意識が行ってしまっている。それに、アクセル操作だけで、一杯一杯だ。
「普段、エア・ドルフィンで飛ぶ程度なら、一定の魔力で十分だからな。だが、レースの場合は、コーナーだけじゃなく直線でも、細やかな魔力制御が必要だ」
「うーん、アクセルと魔力制御を別々に行うって、結構、難しいですよね? もう、レースまで一週間もないのに、間に合うかなぁ――?」
ただでさえ、練習時間が少ないので、上手く出来るようになるか、かなり微妙だった。そもそも、私は複数のことを同時に行うのって、物凄く苦手なんだよね。
「ローカル・レースは、素人しか出てこないから、そこそこ走れれば、いい勝負ができるだろうよ。あとは、運と参加メンバーしだいだな」
「でも、やるからには、絶対に優勝したいです!」
「ま、せいぜい頑張んな」
ノーラさんは、口元を軽く吊り上げ、フッと鼻で笑った。
「あーっ! 私には無理だと思ってますね?」
「そりゃ無理だろ。エア・ドルフィンだって、つい最近、乗り始めたばかりの、ひよっこだってのに」
確かに、そりゃそうだ。数ヵ月前は、エア・ドルフィンを、十センチほど浮かせるだけでも、一苦労だった。こっちの世界の人のように、子供のころから魔力制御をしていた訳じゃないから。
「勝負は、やって見なきゃ、分からないですもん」
「デカい口は、実際に勝ってから叩きな。私は口だけの人間は、大嫌いなんだよ」
ノーラさんは、キッと鋭い視線を向けて来る。やっぱ、眼力が半端ない。
かつて『最速のシルフィード』と言われ、プロ並みの操縦技術のある人から見たら、私なんて、ただのひよっこに過ぎないだろう。
でも、私はなんといっても、超負けず嫌いだ。例え経験が少なかろうと、条件が悪かろうと、やるからには、絶対に負けたくない。
よーし、シルフィードの実績のためにも、ノーラさんをギャフンと言わせるためにも、何としても優勝を狙いに行くぞー。
サファイア・カップの優勝を目指して、全力で頑張りまっしょい!
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
次回――
『日の出を見るとグワーッてやる気が出るよね』
太陽と月と地球がある限り、どこでだって幸せになるチャンスはあるわ
以前は、ただの大家さんだと思ってから、気楽だった。でも『元シルフィード・クイーン』と知ってから、急に存在感が大きくなり、凄く身構えてしまう。
元々シルフィード業界は縦社会で、特に『上位階級』の人たちは別格だ。『元シルフィード・クイーン』は、この業界の大御所であり、雲の上の存在だった。本来なら、見習いが話し掛けられるような相手ではない。
それはさておき、今回は『ウォーター・ドルフィン』を貸してもらった、お礼をしに来た。リリーシャさんの言った通り、ノーラさんに相談したら、あっさり貸してくれたのだった。
〈サファイア・ビーチ〉の施設に預けてあった機体を借りて、毎日、仕事が終わったあとに練習していた。
ただ、暗くなると危険なため、仕事終わりに、三十分ほどしか練習できない。もう、レースまで一週間を切っているので、かなりギリギリだ。でも、練習量が少なすぎるので、仕上がっているとは、とても言えない状態だった。
私が扉をノックすると、中から返事が聞こえ、扉が静かに開く。
「ノ……ノーラさん。いつも、お世話になっております。これは、大変つまらない物ですが」
私は頭を深々と下げながら、紙袋を前に差し出した。
「って、何だい改まって?」
「い、いえ。いつも、お世話になっておりますし。今回は、レースの練習のご協力、大変ありがとうございました」
私は使い慣れない言葉を並べ、何とか誠意を伝えようとする。
「別に、私は何もしちゃいないよ。てか、気持ち悪いから、その話し方やめな。何か悪いものでも、拾い食いしたのかい?」
「いくらお腹空いてても、そこまでしませんって! いや、じゃなくて『元シルフィード・クイーン』の大先輩に、失礼がないようにと思っただけですから」
その直後『バチーン!』と音が響き、頭に衝撃が走る。私は、慌てて額を両手で押えた。
「あだっ!! 急に何するんですかっ?」
いきなりデコピンされ、さすがに私もイラッとして反論する。
「それで、いいんだよ。今は正真正銘の、ただのアパートの大家さ。つまんないこと、気にしてんじゃないよ」
「はぁ――」
そうは言われても、超大先輩だと、身構えちゃうんだよね。体育会系思考なので、どうしても、先輩には畏敬の念を抱いてしまう。
「とりあえず、入りな」
いつも通り、ノーラさんは、さばさばと言い放った。私は彼女のあとについて、ゆっくり部屋に入って行く。
ノーラさんは、先ほど私が渡したパンの袋をテーブルに置くと、キッチンに入って行った。どうやら、お茶の用意をしているようだ。
私はテーブルの前で、じっと立っていた。変に手伝おうとすると『余計なことするな』と怒られそうなので、大人しく待っていたのだ。
やがて、ティーカップの載ったトレーを持ち、ノーラさんが戻ってくる。
「何ボサッと突っ立ってるんだ。サッサと座ったらどうだい?」
「はいっ、失礼します」
やっぱ、緊張する……。いつも通りと言われても、やはり『元シルフィード・クイーン』なのを、意識してしまう。
ノーラさんが私の前に差し出したのは、コーヒーの入ったカップだった。カップも受け皿も、こった花柄が入ったアンティークだ。
結構、食器とか、こだわってるんだよね。それに、凄くいい香りがする。コーヒー豆も、いいものを使っているに違いない。
「自分で入れな」
ノーラさんは、ミルク差しと砂糖の入れ物を差し出してきた。
ぶっきらぼうだけど、相変わらず細やかな気遣いだ。流石は、元シルフィード・クイーン。って、それは関係ないのかな。ノーラさん、大雑把そうに見えて、几帳面だからね。
私がミルクと砂糖をたっぷり入れていると、ノーラさんがパンの袋の中を覗き込んだ。
「これは、リリー嬢ちゃんの入れ知恵かい?」
ノーラさんは、怪訝な表情をしながら尋ねてくる。
「いえ、以前、リリーシャさんから『ノーラさんは、ぶどうパンが好き』って、聴いたことがあったので。いろんなお店を回って、実際に食べ比べてみて、一番おいしかったのを買って来ました」
今日、持って来たのは〈風車亭〉のぶどうパンだ。中にたっぷりクリームチーズが入っており、濃厚な風味が、干しぶどうと合っていて、とても味わい深い美味しさだった。
スピの情報を元に、色んなパン屋を食べ歩いて、ようやく見つけ出した。今まで食べたパンの中でも、五本の指に入る逸品だ。でも、私の好みが、ノーラさんの口に合うかどうか――。
「自分でこの店を見つけるとは、少しはこの町が、分かって来たじゃないか」
「有名なお店なんですか?」
ここのお店は、スピで調べたのではなく、偶然、見つけたんだよね。基本、下調べしてから行くタイプじゃないので。練習中に偶然、見つける場合が多い。
「そんなに有名じゃないけど、この町が出来たばかりのころからある老舗で、パン通の人間が買いに行く店さ。昔ながらのパンばかりで、最近の若者向きではないかもしれないね」
「確かに、レトロなお店ですよね。パンも、変わった物や、派手な感じのはないですけど。どれも美味しいし、特にパンの生地が絶品なんです。噛むほどに美味しくなるんで」
パンの食感とか、ほんのりした甘さとかが、絶妙なんだよね。ただ、見た目のデザインは地味で、古風な感じがする。あと、変わり種のパンも置いてなく、スタンダードな品揃えだ。
「ほう、知識や常識はからっきしの癖に、舌は意外とまともじゃないか」
「こっちに来てから、一日三食パンですから。生地や焼き具合の違いとか、微妙なところまで分かるし、パンの知識ばっかり付いちゃって。確かに、基本的な知識は、まだまだ知らない事だらけですけど……」
そういえば、パンのこと、ずいぶん詳しくなったよね。昔は、コンビニの菓子パンぐらいしか食べなかったから、よく分からなかったけど。今は、味・香・食感の違いまで、よく分かる。
「まぁ、いいんじゃないかい。その土地を知るには、まずは、食べ物からって言うからね。パン目当てで来る観光客も、結構いるんだから。パンの知識を極めれば、いずれ役に立つだろうさ」
「だと、いいんですけど」
ナギサちゃんには『余計な知識はいいから、ちゃんと勉強しなさい』って、いつも怒られてるからね。はたして、パンの知識が、役立つ日が来るのだろうか?
「で、レースの準備のほうは、どうなんだい?」
「練習は、毎日、仕事上がりに通ってます。とはいえ、一回三十分ぐらいなんで、練習時間が、心もとないんですけど」
ちょうど調子が出て来た辺りで、時間が終了になってしまう。最初のころなんか転んでばかりで、まともに走る間もなく、終わってしまっていた。
「走れるようには、なったのかい?」
「乗るだけなら、初日に出来るようになりました。ただ、一番の問題は、ターンですね。ゆっくりとなら曲がれるんですけど。スピードを命一杯に出していると、上手く曲がれなくて。大きく流れたり、転倒したりして、かなり苦戦してます……」
楽しく走る分には、もう充分に乗れるようになった。でも、レースだから、速くないと意味ないんだよね。
「初日で乗れるようになっただけでも、十分さ。普通に乗れるまで、一週間以上かかる人もいるからな」
「毎日、エア・ドルフィンを乗り回してるので、そのお蔭だと思います」
ちなみに、ウォーター・ドルフィンには『オート』と『マニュアル』の二種類がある。オートは『マナ・クリスタル』の力で動くタイプ。マニュアルは、エア・ドルフィンと同じで『搭乗者の魔力』で動くタイプだ。
レジャー用は、オートタイプが多い。しかし、レース用の機体は、細かな魔力制御が必要なため、全てマニュアルになっている。
マニュアル機は、魔力制御ができないと動かせない。なので、マニュアルの、エア・ドルフィンに乗ったことのない人は、初めはかなり苦戦するらしい。最近は、エア・ドルフィンも、オートタイプが増えて来たようなので。
「でも、エア・ドルフィンとは、かなり違いますよね。加速のしかたも違うし、波の動きや水の抵抗もあるので、まっすぐ走るだけでも大変で。そもそも、今までは、全速力で走ることを、意識したことが無いので――」
空を飛ぶのも、空気抵抗はあるけど、水の抵抗とは全く比べ物にならない。あと、波って、風と違ってかなり不規則だから、読み辛いんだよね。
「ただ目的地に移動するのと、速く走るのは、全く別次元さ。常に高出力の魔力供給が必要だし、魔力制御の精度も、普通に走るのとは段違いだからな」
「ですよねぇ。たった三十分の練習でも、すっごく疲れるんですよ。やっぱり、全力で走ると、魔力の消耗が激しいんですかね?」
体力には自信があるのに、練習後は物凄く疲れる。どうやら、体力と魔力は別物らしい。
「それもあるが、高い集中力に加え、常に恐怖との戦いだからさ。空を飛んでる時は、転倒を恐れたことなんて無いだろ?」
「確かに、そうですね。空だと衝突でもしない限り、転倒はあり得ないし。でも、海面だと、ちょっと気を緩めると、すぐに転倒するんですよね」
もう、嫌というほど、転倒しまくった。エア・ドルフィンには、転倒という概念がないから、初めての経験だ。
「特に、スピードが出てる時のコーナーは、恐怖しかないですよ。いまだに上手く曲がれないし、無理するとすぐ転ぶし」
怖いもの知らずの私でも、全力でコーナーに突っ込むのは、相当な勇気が必要だ。全力ターンのたびに、冷や汗が出る。あと、スピードが出てる時に転ぶと、物凄く痛い。
「ちゃんと曲がる時に、魔力制御しているのか? アクセルだけで調整しても、高速では曲がれないぞ」
「あーっ、なるほど。ずっと全力供給でした……」
速く走ることに、全ての意識が行ってしまっている。それに、アクセル操作だけで、一杯一杯だ。
「普段、エア・ドルフィンで飛ぶ程度なら、一定の魔力で十分だからな。だが、レースの場合は、コーナーだけじゃなく直線でも、細やかな魔力制御が必要だ」
「うーん、アクセルと魔力制御を別々に行うって、結構、難しいですよね? もう、レースまで一週間もないのに、間に合うかなぁ――?」
ただでさえ、練習時間が少ないので、上手く出来るようになるか、かなり微妙だった。そもそも、私は複数のことを同時に行うのって、物凄く苦手なんだよね。
「ローカル・レースは、素人しか出てこないから、そこそこ走れれば、いい勝負ができるだろうよ。あとは、運と参加メンバーしだいだな」
「でも、やるからには、絶対に優勝したいです!」
「ま、せいぜい頑張んな」
ノーラさんは、口元を軽く吊り上げ、フッと鼻で笑った。
「あーっ! 私には無理だと思ってますね?」
「そりゃ無理だろ。エア・ドルフィンだって、つい最近、乗り始めたばかりの、ひよっこだってのに」
確かに、そりゃそうだ。数ヵ月前は、エア・ドルフィンを、十センチほど浮かせるだけでも、一苦労だった。こっちの世界の人のように、子供のころから魔力制御をしていた訳じゃないから。
「勝負は、やって見なきゃ、分からないですもん」
「デカい口は、実際に勝ってから叩きな。私は口だけの人間は、大嫌いなんだよ」
ノーラさんは、キッと鋭い視線を向けて来る。やっぱ、眼力が半端ない。
かつて『最速のシルフィード』と言われ、プロ並みの操縦技術のある人から見たら、私なんて、ただのひよっこに過ぎないだろう。
でも、私はなんといっても、超負けず嫌いだ。例え経験が少なかろうと、条件が悪かろうと、やるからには、絶対に負けたくない。
よーし、シルフィードの実績のためにも、ノーラさんをギャフンと言わせるためにも、何としても優勝を狙いに行くぞー。
サファイア・カップの優勝を目指して、全力で頑張りまっしょい!
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
次回――
『日の出を見るとグワーッてやる気が出るよね』
太陽と月と地球がある限り、どこでだって幸せになるチャンスはあるわ
0
あなたにおすすめの小説
『異世界庭付き一戸建て』を相続した仲良し兄妹は今までの不幸にサヨナラしてスローライフを満喫できる、はず?
釈 余白(しやく)
ファンタジー
毒親の父が不慮の事故で死亡したことで最後の肉親を失い、残された高校生の小村雷人(こむら らいと)と小学生の真琴(まこと)の兄妹が聞かされたのは、父が家を担保に金を借りていたという絶望の事実だった。慣れ親しんだ自宅から早々の退去が必要となった二人は家の中で金目の物を探す。
その結果見つかったのは、僅かな現金に空の預金通帳といくつかの宝飾品、そして家の権利書と見知らぬ文字で書かれた書類くらいだった。謎の書類には祖父のサインが記されていたが内容は読めず、頼みの綱は挟まれていた弁護士の名刺だけだ。
最後の希望とも言える名刺の電話番号へ連絡した二人は、やってきた弁護士から契約書の内容を聞かされ唖然とする。それは祖父が遺産として残した『異世界トラス』にある土地と建物を孫へ渡すというものだった。もちろん現地へ行かなければ遺産は受け取れないが。兄妹には他に頼れるものがなく、思い切って異世界へと赴き新生活をスタートさせるのだった。
連載時、HOT 1位ありがとうございました!
その他、多数投稿しています。
こちらもよろしくお願いします!
https://www.alphapolis.co.jp/author/detail/398438394
スーパーの店長・結城偉介 〜異世界でスーパーの売れ残りを在庫処分〜
かの
ファンタジー
世界一周旅行を夢見てコツコツ貯金してきたスーパーの店長、結城偉介32歳。
スーパーのバックヤードで、うたた寝をしていた偉介は、何故か異世界に転移してしまう。
偉介が転移したのは、スーパーでバイトするハル君こと、青柳ハル26歳が書いたファンタジー小説の世界の中。
スーパーの過剰商品(売れ残り)を捌きながら、微妙にズレた世界線で、偉介の異世界一周旅行が始まる!
冒険者じゃない! 勇者じゃない! 俺は商人だーーー! だからハル君、お願い! 俺を戦わせないでください!
『辺境伯一家の領地繁栄記』序章:【動物スキル?】を持った辺境伯長男の場合
鈴白理人
ファンタジー
北の辺境で雨漏りと格闘中のアーサーは、貧乏領主の長男にして未来の次期辺境伯。
国民には【スキルツリー】という加護があるけれど、鑑定料は銀貨五枚。そんな贅沢、うちには無理。
でも最近──猫が雨漏りポイントを教えてくれたり、鳥やミミズとも会話が成立してる気がする。
これってもしかして【動物スキル?】
笑って働く貧乏大家族と一緒に、雨漏り屋敷から始まる、のんびりほのぼの領地改革物語!
「キヅイセ。」 ~気づいたら異世界にいた。おまけに目の前にはATMがあった。異世界転移、通算一万人目の冒険者~
あめの みかな
ファンタジー
秋月レンジ。高校2年生。
彼は気づいたら異世界にいた。
その世界は、彼が元いた世界とのゲート開通から100周年を迎え、彼は通算一万人目の冒険者だった。
科学ではなく魔法が発達した、もうひとつの地球を舞台に、秋月レンジとふたりの巫女ステラ・リヴァイアサンとピノア・カーバンクルの冒険が今始まる。
『異世界ごはん、はじめました!』 ~料理研究家は転生先でも胃袋から世界を救う~
チャチャ
ファンタジー
味のない異世界に転生したのは、料理研究家の 私!?
魔法効果つきの“ごはん”で人を癒やし、王子を 虜に、ついには王宮キッチンまで!
心と身体を温める“スキル付き料理が、世界を 変えていく--
美味しい笑顔があふれる、異世界グルメファン タジー!
酒好きおじさんの異世界酒造スローライフ
天野 恵
ファンタジー
酒井健一(51歳)は大の酒好きで、酒類マスターの称号を持ち世界各国を飛び回っていたほどの実力だった。
ある日、深酒して帰宅途中に事故に遭い、気がついたら異世界に転生していた。転移した際に一つの“スキル”を授かった。
そのスキルというのは【酒聖(しゅせい)】という名のスキル。
よくわからないスキルのせいで見捨てられてしまう。
そんな時、修道院シスターのアリアと出会う。
こうして、2人は異世界で仲間と出会い、お酒作りや飲み歩きスローライフが始まる。
家ごと異世界転移〜異世界来ちゃったけど快適に暮らします〜
奥野細道
ファンタジー
都内の2LDKマンションで暮らす30代独身の会社員、田中健太はある夜突然家ごと広大な森と異世界の空が広がるファンタジー世界へと転移してしまう。
パニックに陥りながらも、彼は自身の平凡なマンションが異世界においてとんでもないチート能力を発揮することを発見する。冷蔵庫は地球上のあらゆる食材を無限に生成し、最高の鮮度を保つ「無限の食料庫」となり、リビングのテレビは異世界の情報をリアルタイムで受信・翻訳する「異世界情報端末」として機能。さらに、お風呂の湯はどんな傷も癒す「万能治癒の湯」となり、ベランダは瞬時に植物を成長させる「魔力活性化菜園」に。
健太はこれらの能力を駆使して、食料や情報を確保し、異世界の人たちを助けながら安全な拠点を築いていく。
おっさん武闘家、幼女の教え子達と十年後に再会、実はそれぞれ炎・氷・雷の精霊の王女だった彼女達に言い寄られつつ世界を救い英雄になってしまう
お餅ミトコンドリア
ファンタジー
パーチ、三十五歳。五歳の時から三十年間修行してきた武闘家。
だが、全くの無名。
彼は、とある村で武闘家の道場を経営しており、〝拳を使った戦い方〟を弟子たちに教えている。
若い時には「冒険者になって、有名になるんだ!」などと大きな夢を持っていたものだが、自分の道場に来る若者たちが全員〝天才〟で、自分との才能の差を感じて、もう諦めてしまった。
弟子たちとの、のんびりとした穏やかな日々。
独身の彼は、そんな彼ら彼女らのことを〝家族〟のように感じており、「こんな毎日も悪くない」と思っていた。
が、ある日。
「お久しぶりです、師匠!」
絶世の美少女が家を訪れた。
彼女は、十年前に、他の二人の幼い少女と一緒に山の中で獣(とパーチは思い込んでいるが、実はモンスター)に襲われていたところをパーチが助けて、その場で数時間ほど稽古をつけて、自分たちだけで戦える力をつけさせた、という女の子だった。
「私は今、アイスブラット王国の〝守護精霊〟をやっていまして」
精霊を自称する彼女は、「ちょ、ちょっと待ってくれ」と混乱するパーチに構わず、ニッコリ笑いながら畳み掛ける。
「そこで師匠には、私たちと一緒に〝魔王〟を倒して欲しいんです!」
これは、〝弟子たちがあっと言う間に強くなるのは、師匠である自分の特殊な力ゆえ〟であることに気付かず、〝実は最強の実力を持っている〟ことにも全く気付いていない男が、〝実は精霊だった美少女たち〟と再会し、言い寄られ、弟子たちに愛され、弟子以外の者たちからも尊敬され、世界を救って英雄になってしまう物語。
(※第18回ファンタジー小説大賞に参加しています。
もし宜しければ【お気に入り登録】で応援して頂けましたら嬉しいです!
何卒宜しくお願いいたします!)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる