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第一夜 朋香先生
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こんな夢を見た。
私は、夢の中で自分ではない幼稚園児になっていた。
彼の名前は、確か「正太郎」だったように記憶している。
正太郎は、朋香先生が大好きだった。
もちろん彼はママのことだって好きだし、幼稚園バスでいつもとなりに座る、まなみちゃんのことだって好きだったけれど、朋香先生はまた別格であった。
「朋香先生のどういうところが好きなの?」
こう聞かれた彼は小さい額に生意気にシワを寄せて、ふわふわのパーマがかかった栗色の髪、包み込まれるような優しい匂いと笑顔、それとやわらかいおっぱいだと答えていた。
そんな彼には、とても気にかかる存在がいた。それは朋香先生の「彼氏」のことだ。
正太郎は知っている。
女のヒトは、「彼氏」ができるとみんな変わってしまう。いつもと変わらずそこにいても何処か遠くにいるようになってしまう。大好きだったはずの匂いがしなくなってしまうのだ。
近所に住む恵梨香おねえさんがそうだった。
母親がパートタイムで働く彼の家では、しばし正太郎がひとりで留守番をしなければならないことがあった。
そんなとき一緒に留守番をしてくれるのが恵梨香おねえさんだった。
ママが「恵梨香ちゃん、いつもごめんね。」と謝ると、恵梨香おねえさんは決まって「いいんですよ。私、午前中は暇してますし、正太郎くんと遊ぶの好きですから。」と微笑んでくれた。
恵梨香おねえさんは、美しく流れるような黒髪をもっていて、正太郎は言うまでもなくこの女性が好きだった。
正太郎が彼女の変化に気づいたのは、何がきっかけだっただろうか。
あるとき突然、彼女に対して得体の知れない不安と焦燥感を抱き、大好きだったはずの匂いが薄まりはじめた。
彼女が「ちょっとだけ待っててね。」と留守番の最中に外出をするようになったのは、このすぐ後ではなかったか。
その日もそうだった。彼女が家を出たあと、正太郎は、いてもたってもいられなくなり彼女を追いかけた。
彼女は、家から数メートル離れただけの公園ですぐ見つかった。しかし彼女はひとりではなく、そばには見たことのない背の高い男の人が立っていた。
親密そうに話す二人に近づこうとしたそのとき、男が彼女をそっと抱きよせ、美しい黒髪が男の腕の中で靡いた。
正太郎は一瞬、金縛りにあったように固まり、そして全力で家まで走った。
その後のことはあまり記憶にない。恵梨香おねえさんが帰ってきても一切口をきかず、泣きながら玩具を投げつけたのではなかったか。
彼女も何かを察したのであろう。その日以来、彼女が家に来ることはなかった。
もしも女性に「初恋はいつ、どなたにですか?」と尋ねて、「幼稚園の頃、同じマンションに住んでいた、男の子に…」なんて答えを認めるとするならば、これも立派に失恋と呼んでいいだろう。実際、彼の受けた衝撃は計りしれなかった。
そして現在、正太郎は朋香先生に対して同じ不安を抱えている。あのときの感覚だ。大好きな匂いが薄まり、暖かい笑顔に影が差す。
前に一度、「朋香先生は彼氏いるの?」って聞いてみたことがある。そのときは、「えーいないよ。大きくなったら正太郎くんが彼氏になってくれる?」って笑っていたけれど…。
不安を拭えないままのある日、正太郎は幼稚園バスに乗り込むところで園の前に男が立っているのを見つけた。
正太郎は、彼を見て鳥肌が立った。そう、彼は恵梨香おねえさんといた男によく似ていた。頭の中で黒髪が靡いた気がした。
「お兄さん、朋香先生の彼氏?」
気がつくと正太郎は男に話しかけていた。
男は少し驚いた顔をしたが、すぐにニコリと白い歯を見せ「そうだよ」と答えた。
やっぱりそうなんだ。朋香先生は、僕に嘘をついたんだ。このままだと朋香先生もいなくなってしまう。この男の腕の中にいってしまう。
正太郎は半べそをかきながら言った。
「お願いだから、朋香先生をとらないで!僕、朋香先生が大好きなんだ。だから…」
「そんなに朋香先生が好きかい?ぼうや」男はゆっくり腰を下ろした。
「そんなに先生を守りたいなら、俺を倒してみなよ」男は拳を握ると、ピタッと正太郎の頬につけた。そして二コッと笑うと園の中へと消えていった。
正太郎は男の笑みを見て、なぜかまた鳥肌が立った。
帰宅した正太郎は、誕生日にママに買ってもらった特撮ヒーローの武器を取り出した。もちろんそれは玩具であったけれど、正太郎はこれならあの男に勝てそうな気がしていた。
ふわふわで栗色の髪、やわらかいおっぱい、優しい笑顔、大好きな匂い、絶対、絶対にわたさない!正太郎は幼稚園に向かって全力で走った。
正太郎が幼稚園に着いた頃、辺りはすでに薄暗く、静まりかえっていたけれど、幼稚園の中は明るく騒がしかった。
何台もの車、忙しなく回り続ける赤いランプ、救急隊員の怒号、園の先生たちの嗚咽、そして警察官に両の腕を掴まれている男の頬には、ランプよりも赤い液体がベットリ付着していた。
男は笑っていた。さっきと同じように。
あの男は朋香先生の…朋香先生の…。
数日後、幼稚園で朋香先生のお葬式が行われた。
まなみちゃんも、ほかの園児も、先生たちだって泣いていたけれど、正太郎はただ写真の中で微笑む朋香先生を見ていた。
葬列の中から話し声が聞こえる。
「前々から変質者につけ狙われてたらしいわよ。ストーカーってやつ?」
「恐いわね、若いオンナの独り暮らしは。」
「守ってくれるいい人でもいればねぇ。」
朋香先生は嘘なんかついていなかった。朋香先生に彼氏はいなかった。それならあの不安は?焦燥感は?正太郎は心底恐怖した。
噎せかえるほどの菊の匂いを嗅いで、頭の中で美しい黒髪がくしゃっと乱れた。
恵梨香おねえさんがあの数日後、交通事故で死んでしまったことを、正太郎は今更ながら思い出していた。
私は、夢の中で自分ではない幼稚園児になっていた。
彼の名前は、確か「正太郎」だったように記憶している。
正太郎は、朋香先生が大好きだった。
もちろん彼はママのことだって好きだし、幼稚園バスでいつもとなりに座る、まなみちゃんのことだって好きだったけれど、朋香先生はまた別格であった。
「朋香先生のどういうところが好きなの?」
こう聞かれた彼は小さい額に生意気にシワを寄せて、ふわふわのパーマがかかった栗色の髪、包み込まれるような優しい匂いと笑顔、それとやわらかいおっぱいだと答えていた。
そんな彼には、とても気にかかる存在がいた。それは朋香先生の「彼氏」のことだ。
正太郎は知っている。
女のヒトは、「彼氏」ができるとみんな変わってしまう。いつもと変わらずそこにいても何処か遠くにいるようになってしまう。大好きだったはずの匂いがしなくなってしまうのだ。
近所に住む恵梨香おねえさんがそうだった。
母親がパートタイムで働く彼の家では、しばし正太郎がひとりで留守番をしなければならないことがあった。
そんなとき一緒に留守番をしてくれるのが恵梨香おねえさんだった。
ママが「恵梨香ちゃん、いつもごめんね。」と謝ると、恵梨香おねえさんは決まって「いいんですよ。私、午前中は暇してますし、正太郎くんと遊ぶの好きですから。」と微笑んでくれた。
恵梨香おねえさんは、美しく流れるような黒髪をもっていて、正太郎は言うまでもなくこの女性が好きだった。
正太郎が彼女の変化に気づいたのは、何がきっかけだっただろうか。
あるとき突然、彼女に対して得体の知れない不安と焦燥感を抱き、大好きだったはずの匂いが薄まりはじめた。
彼女が「ちょっとだけ待っててね。」と留守番の最中に外出をするようになったのは、このすぐ後ではなかったか。
その日もそうだった。彼女が家を出たあと、正太郎は、いてもたってもいられなくなり彼女を追いかけた。
彼女は、家から数メートル離れただけの公園ですぐ見つかった。しかし彼女はひとりではなく、そばには見たことのない背の高い男の人が立っていた。
親密そうに話す二人に近づこうとしたそのとき、男が彼女をそっと抱きよせ、美しい黒髪が男の腕の中で靡いた。
正太郎は一瞬、金縛りにあったように固まり、そして全力で家まで走った。
その後のことはあまり記憶にない。恵梨香おねえさんが帰ってきても一切口をきかず、泣きながら玩具を投げつけたのではなかったか。
彼女も何かを察したのであろう。その日以来、彼女が家に来ることはなかった。
もしも女性に「初恋はいつ、どなたにですか?」と尋ねて、「幼稚園の頃、同じマンションに住んでいた、男の子に…」なんて答えを認めるとするならば、これも立派に失恋と呼んでいいだろう。実際、彼の受けた衝撃は計りしれなかった。
そして現在、正太郎は朋香先生に対して同じ不安を抱えている。あのときの感覚だ。大好きな匂いが薄まり、暖かい笑顔に影が差す。
前に一度、「朋香先生は彼氏いるの?」って聞いてみたことがある。そのときは、「えーいないよ。大きくなったら正太郎くんが彼氏になってくれる?」って笑っていたけれど…。
不安を拭えないままのある日、正太郎は幼稚園バスに乗り込むところで園の前に男が立っているのを見つけた。
正太郎は、彼を見て鳥肌が立った。そう、彼は恵梨香おねえさんといた男によく似ていた。頭の中で黒髪が靡いた気がした。
「お兄さん、朋香先生の彼氏?」
気がつくと正太郎は男に話しかけていた。
男は少し驚いた顔をしたが、すぐにニコリと白い歯を見せ「そうだよ」と答えた。
やっぱりそうなんだ。朋香先生は、僕に嘘をついたんだ。このままだと朋香先生もいなくなってしまう。この男の腕の中にいってしまう。
正太郎は半べそをかきながら言った。
「お願いだから、朋香先生をとらないで!僕、朋香先生が大好きなんだ。だから…」
「そんなに朋香先生が好きかい?ぼうや」男はゆっくり腰を下ろした。
「そんなに先生を守りたいなら、俺を倒してみなよ」男は拳を握ると、ピタッと正太郎の頬につけた。そして二コッと笑うと園の中へと消えていった。
正太郎は男の笑みを見て、なぜかまた鳥肌が立った。
帰宅した正太郎は、誕生日にママに買ってもらった特撮ヒーローの武器を取り出した。もちろんそれは玩具であったけれど、正太郎はこれならあの男に勝てそうな気がしていた。
ふわふわで栗色の髪、やわらかいおっぱい、優しい笑顔、大好きな匂い、絶対、絶対にわたさない!正太郎は幼稚園に向かって全力で走った。
正太郎が幼稚園に着いた頃、辺りはすでに薄暗く、静まりかえっていたけれど、幼稚園の中は明るく騒がしかった。
何台もの車、忙しなく回り続ける赤いランプ、救急隊員の怒号、園の先生たちの嗚咽、そして警察官に両の腕を掴まれている男の頬には、ランプよりも赤い液体がベットリ付着していた。
男は笑っていた。さっきと同じように。
あの男は朋香先生の…朋香先生の…。
数日後、幼稚園で朋香先生のお葬式が行われた。
まなみちゃんも、ほかの園児も、先生たちだって泣いていたけれど、正太郎はただ写真の中で微笑む朋香先生を見ていた。
葬列の中から話し声が聞こえる。
「前々から変質者につけ狙われてたらしいわよ。ストーカーってやつ?」
「恐いわね、若いオンナの独り暮らしは。」
「守ってくれるいい人でもいればねぇ。」
朋香先生は嘘なんかついていなかった。朋香先生に彼氏はいなかった。それならあの不安は?焦燥感は?正太郎は心底恐怖した。
噎せかえるほどの菊の匂いを嗅いで、頭の中で美しい黒髪がくしゃっと乱れた。
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