水彩画の名前にちなんで

松藤 四十二

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 異世界に飛ばされてから、二時間が経った。時計の短針は3から5に移動していたが、彼は動けずに、森に少し入ったところで、草原の様子を見ていた。
 草原には見たことのない生物がいた。ゴリラのような体に、馬のような顔が乗っていた。目を覚ましたとき、それは数メール先にいて、彼に気付いてはいなかった。馬ゴリラははじめは草を貪っているだけだったが、白い鳥が飛んでくると、片手で捕まえ、そのまま口に入れた。バリ、ゴリと、口の中で骨が砕ける音がして、ピという断末魔が聞こえた。ヤギのようなアゴ髭には、赤い血が付いていた。
 彼は音をできるだけたてないように後退り、後ろを振り返り、また正面を向いた。振り返ったとき、彼の視界に森が見えた。
 馬ゴリラは食事に夢中になっているのか、彼の衣擦れや足音に気付かなかった。幸いにも100メートルくらい離れることができ、そこからは馬ゴリラに背を向けて逃げた。
 森に入ると、小高い丘を見つけ、登り、近くの木の幹に隠れた。そして、草原を見ながらじっとしていた。馬ゴリラも動かない。しかし、森の方へ顔を向けていた。
 さらに一時間が経つと、少しずつ日が落ちているのに彼は気が付いた。馬ゴリラはまだ草を食べていて、ミステリーサークルのように、そこだけ地面が見えていた。
 ピーと笛のような高い音が、彼の耳に聞こえた。なんだと周りを右、左と見ても、何もない。しかし、馬ゴリラは反応し、草原の奥の方へと走り出した。
 そのとき、馬ゴリラの背に一本の矢が刺さり、尻にもう一本刺さり、首に刺さり、胴に刺さり、頭に刺さった。馬ゴリラは何も言わず、倒れた。
 今度は笛の音が二度鳴った。彼は気配に気付き、後ろを振り返った。人間が弓を持って走ってきていた。
「大丈夫か。もう安心だ」
 幾何学模様のようなバンダナをして、同じ模様のタトゥーを首に彫っている男が言った。
「村に行こう。仲間がたくさんいる」
「村? 仲間?」と彼は戸惑いの表情で言った。
「そうだ、お前たちのような仲間が暮らしている。のどかな場所で、水もきれいで、山があり、川があって、安心して暮らせる」
 そんな村が、あるのか。
 彼はほっとしたのか、肩が下がった。
「さっそく行こう。村まで少し歩くが、いけるな?」
「わかった」
 彼は力の抜けた体に、もう一度力を入れた。そして、立ち上がった。
「うらっ!」
 腹に衝撃を覚えた。
「おらっ!」
 次に頭を殴られた。
 夕闇の中に、男の顔がいくつかあるのがわかった。
「気絶すんなよ」
「タケやん、そんくらいにしときなよ」
 彼は膝をついている現実を認識し、確かな痛みに悶絶した。
「タケやん、もう行こうぜ」
「こいつどうする?」
「置いてこ」
 彼は鼻から滴り落ちる血を指で拭き、その濃さを確かめた。あの鳥の血と一緒だった。赤く、濃かった。
 彼を蹴り、殴った男たちは、待避所にとめていた車に乗って、消えた。曲がりくねるアスファルトの山道に、彼は捨てられた。もう今日は殴られることはない。それだけが救いだった。
 彼は道の端まで四つん這いで進み、ガードレールを支えに立ち上がった。
 さっきまでの景色が嘘のようだった。あれは夢なのか、現実なのか。
 異世界に本当に行けたのかどうかは、彼にとってどうでもよかった。しかし、彼を助けてくれた男たちのいう村が、存在しているのかどうかが気になった。そこに行けなくてもいいから、存在だけはしていてほしいと彼は思った。そこで、仲間が安心して暮らしていればと願った。
 見たこともない仲間だが、きっと、いい奴らだ。きっと。一緒に暮らしたくなるくらい。できないけど、その村に行きたくなるくらい、いい奴らだと思う。その村も、きっといい村だと思う。ガードレールもアスファルトも、きっとない、いい村だと思う。
 そんなふうに現実逃避をしながら、鼻を殴られたときに自然と出た涙を拭いた。
 鼻血が止まらないことに不安を覚えつつ、彼はどうやって山を降りようか考えていた。
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