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チェレシオの眺め

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 気持ち悪い。
 そう言われたら、そうかもしれないと僕は頷く。しかし、やめられるかと言えば、やめられない。
 昼休みの喧騒が後ろにあるのも気にせずに、僕は下に広がる世界に没頭している。窓から見下ろすその世界には僕だけか、もしかしたら、もう一人しかいなかった。そのもう一人である彼女がそこを通る。毎日そこを通り、毎日、僕と目を合わせる。晴れの日も雨の日も、アスファルトの上を歩く彼女と、それを窓から眺める僕がいる。
 おそらく彼女は二十代か、三十代前半で、遠目でも美人とわかる。買い物袋を持って、校舎横の道路を通り過ぎていく。一つ先の丁字路を右に曲がる。
 僕は彼女を最初から、後ろ姿が消えるまで見ていた。恋心といえば、そうだろう。しかし、声をかけようとは思わない。ただ彼女が、僕を求めていればいいのになと思う。
 そう思っていたら、願いは叶うもので、今日、彼女が僕に手を振ってくれた。買い物袋を持っていない右手を軽く上げて、小さくその手を振った。僕も振った。小さく、しかし、しっかりと振った。すると、彼女は立ち止まり、何か口をパクパクと動かした。僕はそれを見る。見逃さないように、読唇する。

 
『アシタチェレシオコ』


 彼女は確かにそう言った。そして、一度立ち止まり、こちらを確かに見てから、右に曲がった。だから、僕は行かなければならない。明日、チェレシオコに。



 彼が俺のノートに残していった言葉には、そう書かれてあった。今思えば、当日の彼は変だったように思うが、彼はいつも変だったから異変に気付くのは難しかった。それにしてもいつ書いたのか。そして、なぜ俺は気付かなかったのか。
 十年前にこのノートに気付いていれば、失踪の理由と行方がわかったかもしれないと思う。しかし、どうしようもない。
 俺はそのノートだけを残し、他の雑多なものはダンボールに入れた。そして、油性ペンで『捨てるもの』と書いた。俺はそれを四箱にも満たないダンボール箱群とは離して置いた。
 子供部屋おじさんになる前に、俺は実家から出ることにした。実家で暮らすことは快適だったから、惜しいといえば惜しい。生活費は納めていたが、家賃は払わずに済んでいたからだ。おかげで同年代よりも貯えはある。遊ぶ金もある。しかし、実家暮らしの弊害もあった。簡単に言えば、馬鹿にされるのだ。男にはもちろん、女にも。独立心がないとか、ダサいとか、理由なんていくらでも付けられる。
 一人暮らしの部屋は母校の近くだった。駅と駅の間にあり、2LDKで家賃は10万円程度だった。一人暮らしなのに贅沢だな、と友人は言っていたが、女を連れ込むのなら二部屋あった方がいいだろう。ああ、そうだ。実家暮らしの弊害がもう一つあった。家に女を連れ込めないことだ。
 新居に引っ越してから、しばらくは仕事に忙しかった。合コンに参加なんかできなかったし、女と話すこともほとんどなかった。年増の事務員さんと、掃除のおばちゃんと話しただけだろうか。荷解きもほとんどやれてない。ダンボール箱から衣類や時計やら必要な分を取っただけで、他は手付かずだった。もちろん、ノートのことなんて忘れていた。
 でも、ふと思い出すことになる。その日、現場での仕事が早く終った。会社に帰った頃には定時になるため、直帰することにした。いつもと違う帰り道は、あの母校の隣道だった。失踪した彼がよく見下ろしていた道路だ。
 俺は懐かしい母校を見上げながら、彼が顔を覗かせていただろう窓を見た。もちろん誰もおらず、夕焼け空が反射しているだけだった。
 顔を戻すと道路の先が見えた。そこに女がいた。歳は二十代後半から三十代だろうか。手には買い物袋を持って、こちらに歩いてくる。
 まるで、あいつが見下ろしていた景色だな。そう俺は思い、また窓を見上げた。誰もいない。
 また道路を見ると、女がさらに近付いてきていた。そりゃそうだ。歩いてきているのだから。
 俺はなんとなく立ち止まり、女が通り過ぎるのを待った。
 顔がしっかり見えるようになると、女の艶美な雰囲気がこちらの世界にもやってきた。口元にぽつんと、小さな黒子があった。
 そして、その口が開いた。

『アシタチェレシオコ』

 声は聞こえなかった。だが確実に、そう言った。俺は女の後ろ姿を見ながらなぜか立ち尽くし、女が丁字路を曲がるのを見届けた。女は美しかった。妖艶だった。ついていけばよかった。
 だから俺は行かなくてはいけない。チェレシオコに。明日。


 このノートが私に送られてきたのは、大型案件が終わる頃だった。毎日くたくたに疲れて、電車で三十分もかからない実家に三ヶ月も帰っていなかった。ひどい時期だった。そろそろ帰って、美味しいものでも食べさせてもらおう。そう思ったときに母から電話がかかってきた。ミサト。何か届いているよ。サトウって男の人から。そう言った電話口の母は元気そうで、私は安心した。でも、何が届いたんだろう。サトウって誰だ。私は首を傾げるしかなかった。
 下の名前も聞いたが、母の言う名前に聞き覚えはなく、私はピンとこなかった。
 実家に帰ることを伝え、私はその日のうちに私鉄の特急電車に乗った。自分自身と、大型案件を同時に動かしていた私にとって、決められた線路の上を走り、何かに運ばれるというのは心地良かった。
 実家に着くと、早速私は届いたという何かに手をつけた。大きめの封筒に入っていて、カミソリの刃とか、よくわからない薬剤とか、何か危険なものが入っていないか心配しつつ、カッターで慎重に開けていった。
 中身はノートだった。使用済みで、表紙に地理と書かれている。ノートには名前も書かれていた。
 私はこのサトウという名前を知らない気がした。それでも勘というやつなのか、直感的に高校の卒業アルバムを手にしていた。
 化粧も何も施していない一面の素っぴんと垢抜けない芋畑を流し見つつ、サトウを探した。そして、見つけた。にきび面の流行りを追ったような髪型をしている彼がいた。
 思えば、彼とは高校三年間、同じクラスだった。と言ってもあまり話をした記憶はない。ただ、一年の頃、何を血迷ったかクラスの数人で年賀状を出し合った気がする。その中に彼がいたはずだ。
 だから住所を知っているのか。でも、なぜ地理のノートを私に?
 私はもう一度ノートに戻り、ペラペラとめくった。学んだか学んでいないのかわからない情報が羅列してあった。そして、途中から、それは日記のような、手紙のようなものに変わっていた。
 失踪したクラスメイト。よくわからない女の存在。残された文章。彼の行方。明日。チェレシオコ。
 私は母に出されたコーヒーとクッキーを食べつつ、何度もノートを読み返した。ミステリードラマの小道具を手にしたみたいに、私の心は跳ねていた。
 残念なのは、私に推理者の能力がないことだった。それに加えて、調べる能力も大したことなかった。チェレシオコとネットで検索しても、何も出てこなかった。ホテルの名前かなと思った直感は無様に散った。
 一日で推理に飽きた私は、高校の頃の友人である秋穂に連絡をとった。特段お喋りでもないし、みんなを笑わせるといった性格でもないのに、カウンターパンチの如く、最後に言葉を吐いて話題を掻っ攫っていく彼女なら、何か道筋を立てられるのではないかと思った。
 タイミングよく、翌週にランチをすることになった。駅近くにできたオシャレなイタリア風のカフェで、パスタとティラミスを食べて、なんやかんやお互いの仕事と近況を話し終えてから、ノートのことを話すことにした。こう言うと、計画立てていたみたいに聞こえるかもしれないが、実は私も秋穂も顔を合わせた瞬間にノートのことなんて忘れてしまっていた。
 そして、話題に尽きそうになったときにノートのことを思い出した。ノートを出すと、秋穂は眉間に皺を寄せた。その表情を隠そうともしなかった。
 このノートは気味が悪い。霊感があるわけじゃないし、ノートに悪意とか負のオーラを感じるわけでもないけど、変な感じ。異質。このカフェには似合わないし、私の物でも誰の物であっても、おかしい。
 そう言って、ハンカチを口に当てた。
 私はノートをカバンにしまって、それから中身について話した。秋穂はうんうんと頷きつつも、あまり深くは言及してこなかった。
 そもそも何か仕組まれている可能性もある、と秋穂は言った。例えばノートのことをSNSに投稿したら、身元がバレるとか云々。ただ、そう言った秋穂も納得しての発言じゃないことはわかった。できるだけ話題の根本から逃げたいようだった。ぼやかし、紛らしている。そんな話し方だった。だから私も諦めて、もう解散することにした。
 それでも帰る間際、秋穂は彼女らしく言った。
 女はいると思う。ただ最初からいたのかは、わからない。信仰が神をつくるみたいに、女も彼らがつくったのかもしれない。
 私はその言葉を何度も頭で繰り返しながら、帰路についていた。彼ら。信仰。神。女。そして、考えがどこにも行きつかないのを感じて、意識を外に向けると、歩いている道が高校の隣道ということに気付いた。
 私は思わず校舎を見上げた。教室の窓からは誰も見下ろしてはいなかった。失踪したクラスメイトも、ノートを送ってきた彼もいない。
 視線を道に戻すと、女が一人歩いてきていた。明るい茶色の長い髪で、黄色いワンピースを着ていて、買い物袋を持って、歩いてきていた。
 あしがすくむとは、このことかと思った。背を向けて逃げることは怖くてできない。そのまま歩いて近づくこともできない。じゃあ、何ができる。女を視界にいれたまま、私はなんとか反対の道端に移動することに成功した。
 女はノートに書かれていたように美しかった。美貌という漢字のような顔だった。
 女と目が合った。女は微笑み、唇を開いた。

『アシタチェレシオコ』

 このノートは秋穂に渡すことも考えた。でも、それはいけない気がした。第六感がそう言っていた。そして、明日チェレシオコに行かなくてはならない。その方がいい気がした。


 ノートが私の手元にやってきたのは、偶然か必然か、わからない。でも、こうやって言葉を綴っているし、書かなければいけないと思う。これが万が一、本当に、誰かの手に渡ったときに、混乱してはいけないから。
 確かに私は、あの高校の前の道を通っていた。二十年前で、私は二十代前半だった。一人暮らしの家から、スーパーに行き、買い物袋を持って帰る時は、あの道を通った。
 でも、ノートに書いてあることは、それ以外、事実ではない。校舎の窓なんて見てないし、何かを口ずさんだこともない。自分の見た目も、書いてあるように美しいとは思わない。口元に黒子もない。丁字路を曲がってもいない。そもそも丁字路なんてない。
 私もいろいろ調べてみた。まずはアシタチェレシオコについて。アシタについてはよくわからなかった。明日なのか芦田なのか。
 でもチェレシオコについては、わかったと思う。スイスにチェレシオという場所があって、そこに湖がある。つまり、チェレシオ湖のことだと思う。
 そうだとしたら、私はスイスについて口に出したことになり、彼らはスイスに行ったのだろう。
 でも違う。このノートは嘘で塗られている。少なくとも私はスイスに行っていない。
 でも、なぜそんな嘘が書かれているのか、私にはわからない。誰かが私を見て、ストーカーじみたことをしているのか、嫌がらせか。
 いずれにしても、気味が悪い。
 アシタチェレシオコ。



 このノートをアパートの前で拾った。中身は薄気味悪い話が続いて、読まなかったらよかったと思ったし、そもそも拾わなかったらよかったと思っている。ただ、スイスとチェレシオ湖については興味があった。なんとなく、素晴らしい景色が広がっている気がした。
 このノートが何なのか、僕には全くわからない。ただ一つだけ言えるのは、女と出会った彼らと違って、自分の意思でチェレシオ湖に行きたくなっているということだ。
 明日、行くことはできないけれど、いつか行けると思う。このノートはそこに持っていき、チェレシオ湖の眺めを見せてやりたいと思う。

 

 ノートにはチェレシオ湖と思われる写真が貼ってある。
 それだけを私は書くことにする。
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