酔っ払いの戯言

松藤 四十弐

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紅い死

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 二十一時にエンジンをかけ、行くあてもないドライブを開始した。助手席には元妻がいて、トランクには死体があった。彼が誰なのか、まだ聞いていない。元妻が煙草に火をつけ燻らせる。香水と煙と彼女の蒸せるような美貌が車内に充満していった。私は紅い唇を妄想した。
「元気だったあ?」
 その唇から能天気な声が聞こえてきた。さっきの電話口とはえらい違いで、死体を運ぶドライバーにかける言葉とは思えなかった。
 だいたい彼女は無神経なところが多々あった。
 久しぶりにかけてきた電話もそうだ。コンビニから出ると携帯電話が鳴って、ディスプレイを見てると知らない番号だった。仕事関係かもしれないと電話に出ると、元妻だった。
「もしもし、わたし、静希」
 私はビールとスモークタンの入ったビニール袋を片手でよいしょと持ち上げ、腕時計を見た。二十時だった。
「もしもし? サネだよね?」
 懐かしい呼び名だった。
「そうだけど」
「よかった。ちょっと頼み事聞いてほしい」
 彼女らしくない、ちょっと緊張した物言いだった。
「頼み事?」
「そう。今からそっち行くから。……変わらずにあのマンションに住んでるよね?」
「……そうだけど、頼み事って?」
「あとで話す。とにかく、お願い」
 私が何と答えようか逡巡しているうちに、電話は切れた。ディスプレイを見て、何だよ、と呟くが、気持ちの半分はドキドキしていた。
 久しぶりに彼女が見れる。そう思った。
 自宅でビールにも手をつけず待っていた。念の為、部屋を片付け、ベッドのシーツも新しくした。なんとなく。
 チャイムが鳴ったのは二〇時五〇分だった。インターホンの画面には元妻がいた。雰囲気でわかる。彼女に違いない。ゴージャスで取っ付きにくい感じがするが、実際は気楽に話せて、ふところに入るのがうまい。美人なのに、笑顔がかわいい。何でも聞いてきて、何でも話す。そんな感じだ。いい意味でフレンドリー。悪く言うのであらば、無神経だ。
「はい」
「ああ、サネ。ごめんね。外に出る準備して、下に降りてきてくれる?」
「外に出る準備?」
「財布とか、免許証とか、そんなところ。じゃあ、車の中で待ってるから。黒い車」
「どういうこと?」
「助けてよ。お願い」
 そう言って彼女は画面の外に消えた。
 私は画面を消し、すぐに財布をメッセンジャーバッグに入れた。何かを羽織っていこうと考え、一番近くにあったウインドブレーカーを手に持った。ジャケットと悩んだが、かしこまった場所には行かないだろうと判断した。
 部屋の電気を消す前に、ビールとスモークタンをビニール袋ごと冷蔵庫に入れた。それから電気を消して、部屋を出た。鍵をかけ、きちんと閉まっているか、玄関ドアを引いて、押した。
 マンションを出ると、目の前の道路に黒い車が一台とまっていた。車に近づき、中をちらりと覗くと、助手席に彼女が座っている。
 こんこんとドアを指で叩くと、ドアウィンドウが少し下がった。
「ありがと。トランク見て。声出さないでね」
 彼女がそう言うと、すぐに車の後ろからロックの外れる音がした。
 私は不思議に思いながらも、後ろに移動する。トランクを恐る恐る開けると、男が一人、横になっていた。
 うわ、と内心叫びながら、トランクを閉めた。声は出さなかった。出なかったという方が正しいかもしれない。
 すぐに彼女のもとへ戻る。まだドアウィンドウは開いていた。
「なんだあれ」
「死体。さ、車を運転して」
「運転? どこに」
「いいから、お願い」
 私は軽いパニック状態になったのか、何も考えられなくなり、彼女の言うままに運転席側にまわって、そのまま車に乗り込んだ。
 そして、ブレーキを踏み、エンジンをかけた。
 アクセルを踏み、数十メートル移動すると、彼女は煙草をふかした。横目で見ると、もうリラックスの表情になっていた。
「元気だったあ?」
「まあ、ね」と、私は彼女の発言に驚きながらも答えた。
「よかった」
 それから彼女が煙草を吸い終わるまで何も話さなかった。車は一〇分ほど、どこかへ向かっていた。自分で運転しているのに、自動運転みたいだった。
「ねえ、どこか、捨てるところないの?」
「どこか? なにを?」
 彼女は吸い殻を窓から捨てた。
「死体よ」
「……あれ」と私はトランクの男を思い出した?「なんだよ。誰?」
「元夫」
「夫?」
「サネの次に付き合った男。と言っても、籍はいれてないけどね」
「殺したのか?」
「殴ってきたから、避けて、押したら倒れて、石か何かに頭ぶつけて」
「警察は……」
「何のためにサネに電話したと思ってるの?」彼女はそう言って、私の太もものに手を乗せて揺らした。「お願い」
「でも、これって……」
「彼、悪いことたくさんしてるから大丈夫よ。復讐されたか、連れ去られたって思われる」
「どういうこと?」
「ヤクザとか、裏組織とか、そういう人に。だから、いなくなって当然の人だし、誰も不審がらない。たぶん警察だって、動かない」
「だからって、捨てるのは……」
「捕まりたくないのよ」
「正当防衛だろ?」
「だからあ、捕まりたくないの」
 繰り返されたその言葉に、私はピンときた。
「また薬物に手を出しているのか?」
 彼女はまた煙草に火を点けた。
「実刑になる可能性高いもんな」
 彼女が煙草を吸い終わるまで、また沈黙が訪れた。車は下道を進み、なんとなく分岐点に差し掛かった。
「海か、山か」
 私がそう呟くと、彼女は窓から煙草を捨てた。
「山。山がいいわ」
「なんで?」
「海はきれいだから」
 海はきれいだから。その後の言葉は聞かなかった。海はきれいだから汚したくない。海はきれいだから男には不釣り合い。そんな続きを想像したが、正解はわからない。
 結局、彼女の判断で、私はハンドルを右に切った。車を運転している、死体を運んでいると、ようやく実感した。
 私は、信号に捕まる度に、彼女を見た。横顔も美しかった。目も、鼻も、唇も、真夜中のネオンに負けず劣らずに輝いていた。昔の情事を思い出し、むずむずした。
「どこか捨てれるところあるかしら」
「……山の脇道に逸れて、そこから捨てるしかないかもな。そんな場所があればいいけど」
「探してね」
「自分の仕事だろ? 少しは手伝えよ」
「私の仕事じゃないわ。だって、頼んだんだから」
「相変わらずだな」
「相変わらずよ」彼女は私の太ももの、もっと内側に手を入れてきた。「報酬くらい用意するわよ」
 山道に入り、暗い中をくねくねと曲がった。とはいえ、整備された山道で脇道などなかった。いつの間にか彼女は目を閉じていて、私は一人で運転するはめになった。今が何時なのか、デジタル時計を見たが、数字の羅列が時刻として頭に入ってこなかった。
 山なのか、峠なのか、それらをいくつか越えると、ようやく真っ暗闇な場所に出た。外灯はなく、人よりも動物のほうが多いだろう集落で、真夜中のせいか家の光もなかった。すれ違う車もない。
 神社が見え、それからしばらくすると脇道が現れた。スピードを落とし、ゆっくりと脇道を見ると、路肩に駐車できるスペースが見えた。
 ここだろうか。いや、もう少し奥がいいかもしれない。
 私は脇道に入りつつ、もっと山の奥へと進んだ。道は次第に狭くなり、行き止まりかと思って心配したが、そこを抜けるとまた開けた場所に出た。金網と柵があり、それ以上は山に入れなくなっていた。
「どうだろう」
 私は一人言って、車の外に出た。携帯電話のライトを点けて、周りを確認していった。しかし、死体を捨てる場所などなかった。茂みに捨てたとしても、いつか必ず見つかるような場所だと思った。
 念の為に金網と柵を調べると、鍵がかかっていないことがわかった。私は恐る恐るその柵の扉を開き、中に入った。暗い山がそこにあった。
 後ろを振り返る。そして、また山を見る。やはり、山の方が幾分か暗い。
 そのまま山に入り、私は捨てられる場所を探した。少し歩くと、谷間のような場所があり、水が微かに流れていた。もうここで、いいだろう。私は運転の疲れなのか、そう思って車に戻ることにした。
 車ではまだ、呑気に元妻が寝ていた。紅い唇が艶かしく僅かに開いているのを見て、思わず触れた。それでも彼女は起きなかった。
 興奮はしていた。ただ、疲れもあった。私も少し寝ようと目を閉じた。
 それがいけなかった。

 私は少しの眩しさと鳥の声で目を覚ました。はっと起き上がると、周りが微かに明るくなっているのに気づいた。
 やってしまった。私はそう思い、急いで死体を捨てなければと思った。そして、手伝ってもらわなければいけないと、彼女の方を見た。
 そこには、私が想像していたよりも、何倍も見窄らしい女がいた。肉付き悪く痩せていて、白い顔はシミが隠されていて、紅い唇もただの腫れぼったい皮膚だった。捨てられた娼婦のような女が、隣にいた。
 ふと下半身の異変に気付いた。湿っていて、気持ちの悪さが染み付いていた。ベルトを外し、ズボンの中の、さらに中を確かめると、むわっとした嫌な、しかし、嗅いだことのある生臭さがのぼってきた。
 咳き込みながら、私はもう一度、女を見た。
 女は誰にも愛されていないように見えた。
 


「おかしいところ、なかったですか?」
 佐々木が尋ねると、薫はきょとんとした顔を見せた。
「え?」
「この男の話です」
「いや、わからない」
 聞いていなかったとは言えなかった。
「この男は、この後、元妻を絞殺し、死体を遺棄しました。遺棄の現場には、その妻の死体ともう一人、男の死体がありました」
「ねえ、これも聞いたらいけない話じゃないの?」
「大丈夫です」と佐々木はぬるくなったお茶を飲んで言った。「この後、男は携帯電話で110番通報をして、自首しています。最初は隠蔽しようとしたらしいですが、自責の念に駆られて自主したと言っています。それからお話ししたように、その夜のことを語っています」
 薫は話を真剣には聞いていなかった。代わりに毎週来て、閉店後も居座ること男のことを考えていた。出禁にしてもいい。しかし、そうするには惜しかった。席が空き始めた一〇時半頃に来て、閉店の〇時半を過ぎても居座るが、毎回二万円以上飲み食いしてくれる客でもある。
「薫さん、この男が話す内容おかしかったですよね? この男、元妻が車の助手席に座っていたと言っていましたが、そのあとすぐに車の後ろ、つまりトランクのロックが外れる音がしたと言いましたよね」
「ああ、うん」
「車の中には元妻が一人。しかも助手席に。では、どうやってトランクのロックをすぐに外したんでしょうか」
「わからない」
「薫さんは運転免許持ってます?」
 薫は首を振った。
「ロックを外すところが、運転席の方にあるんです。実際に運転席側にありました」
「ふーん」
「あと、女性一人で死体をトランクに入れるというのも難儀でしょう。不可能ではないけれども」
「へえ」
「……あ、この話、あまり興味ないですか?」
 薫は笑顔で頷いた。
「そうですか」と佐々木は頭を掻いた。「じゃあ、やめにしますか」
「お会計?」
「はい」
「いつも、ありがとうございます」
 薫は席を立って、レジへと向かった。佐々木は鞄から財布を取り出した。しかし、話し足りないのか口は動かした。
「ちなみにトランクに入っていたという人物ですが、死亡推定時刻は午前六時でした」
「え?」
「男の言うことが正しければ、死体の人物は前日の二〇時前には殺されているはずです。でも、そうじゃなかった。もちろんトランクの中で生きていて、六時頃に息絶えたという考えもできます」
「そうなんだ。あ、お会計二万円ちょうどです」
 佐々木はレジに向かい、財布から一万円札を二枚出した。
「ありがとうございます」
 薫はその二枚を受け取ろうと手を伸ばすが、佐々木は引っ込める。
「その後の捜査で、男の悪事がばれます。簡潔に言うと、男は二人を殺していました。元妻と、トランクの人物です。男は元妻とその人物に脅されていました。会社員の傍ら、薬物の売買をしていたからです。その情報を手に入れた元妻らに脅されて、その夜は連れ去られました。行くあてもなく彷徨い、行き着いたのが、あの場所です。そして、男は逆上し、脅してきた人物を撲殺し、妻を絞殺し、死体を捨てた」
「お会計、二万円です」
 佐々木は一万円札を一枚渡した。
「そして、男は考えた。せめて一人だけ殺したことにならないかって。でも、そうは問屋が下さなかった。トランクのロックの話もそうだし、そのトランクに血痕が残っていなかったこと、そして撲殺に使われただろう石が奇跡的に現場で見つかったこと」
「佐々木さん、一万円足りません」
 佐々木はそこでようやく、もう一枚を渡した。
「ありがとうございます。それでは、帰ってください」
 佐々木は頷き、少し寂しそうに笑った。そして、店の扉に手をかけた。しかし、そこで振り返った。
「薫さんは、もし死体を捨てるならどこにしますか?」
「さあ。考えたことありませんし、考えたくもありません」
 薫は外向きの笑顔で答えた。
「薫さんは笑顔がステキです」
「ありがとうございます」
「ちなみに僕が捨てるなら」
「聞いてませんよ」
「……胃袋ですね。じゃあ、おやすみなさい」
 佐々木はそう言って、そそくさと店から出て行った。
「……最悪」
 薫はそう言うしかなかった。
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