酔っ払いの戯言

松藤 四十弐

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捨てた額縁

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 薫は鮭の切り身を焼き、佐々木に提供した。佐々木は嬉しそうにそれを食べ、大盛りのご飯と豆腐とわかめの味噌汁も平らげた。大根の葉の漬け物もきちんと食べて、最後に熱いお茶を頼んだ。
 この男の食べっぷりは、いつ見てもいい。
 ただ、それは罪を憎んで人を憎まずの対義語のような気がした。食いっぷりは憎まず、佐々木を憎む。薫はそう思いながら、お茶を淹れた。
 ここからの佐々木は長い。時計の針は深夜〇時二〇分を指している。シャワーを浴びるのは、二時くらいになるだろうか。薫は疲れた顔を少しも隠さず、湯呑みを佐々木の目の前に置いた。
「もうすぐお店閉めますんで」
「ええ、お構いなく」
「いや、帰ってくださいね」
 佐々木は頷きもせず、湯呑みを指で触っていた。猫舌ではないと思うが、なぜか彼はお茶がぬるくなるまで飲まない。ぬるめのお湯で淹れたり、氷を入れたりするが、待つ時間はほとんど変わらなかった。
 薫は下ろし忘れていた店先の暖簾を片付け、食器類を洗っていった。客が佐々木だけになった〇時前から店じまいをしていたから、そんなに時間はかからない。
 全てが終わるとカウンターにじっと座っている佐々木の隣に座った。氷を入れたグラスに、ウイスキーを注いだ。
「珍しいですね。ウイスキーだなんて」
「たまにはね」
 薫は佐々木に対して、恐怖心を一切持っていなかった。強盗目的だとか、乱暴されそうだとか、ストーカーになりそうといった心配は芽生えなかった。それは佐々木の雰囲気がそうさせているのかもしれないし、初めて佐々木が店に来たとき、薫の亡くなった祖母のことを話したからかもしれない。以前、店先でおばあさんに落とし物を見つけてもらって、と佐々木は言っていた。
「薫さんは芸術に興味あります?」
 だから、閉店後も居座り、機密情報やよくわからない話をしなければ、友人くらいにはなれたかもしれないと薫は思った。
「薫さん聞いてます?」
「え?」
「薫さんは芸術に興味あります?」
「あ、ない」
「絵画とか」
「全然興味ない」
「こういった仕事をしていると、現場に変なものが残ってたりするんですよ」
「事件の話? 耳栓した方がいい?」
「いいえ、聞いてください」佐々木は咳払いをした。「これは知人から聞いた話です」
「えー、いいのに」
 薫は苦い顔で言い、それでも強く拒否はできずに、ウイスキーを舐めた。




 合田は思わず、叫んだ。深夜二時だった。課題制作のために特別に開かれたデザイン制作の教室でひとり、頭を抱えた。折角、作ったポスターのデータが、ソフトのフリーズのせいかほとんど消失していた。設定していたはずの自動保存もなぜか効いてきなかった。悩み、手を動かした五時間が無駄になった。
 調子に乗っているときは、いつも上書き保存を忘れている。気をつけているのに、いつもその行動が頭からなくなっていた。そのことを約一年前の入学当初より悩んでいる。
 脳の病気かもしれないと思ったこともある。だが、物忘れが激しいわけではない。データの保存だけ、すっかり忘れてしまう。
 そのせいで先生からの評価は芳しくない。中途半端に課題を提出することになったり、もはや提出できなかったり。それでもクラスメイトに、保存しなよ、と注意してもらったり、自動保存を設定することにより、なんとか課題をこなしていた。
 だが、今回はその全てがスルーされた。
 彼はデスクに額を三度、叩きつけた。その振動で横一列に並んだディスプレイが揺れた。
 もう一度、頑張る気に、今はなれない。
 一人しかいない夜の教室で、スポンジにずぶすぶと液体が染み込むように、泣きたい気持ちに浸るしかなかった。
 こんなときにいつも考えるのは高校時代のことだった。高校生の頃は、できる子として認知されていたし、自信もあった。しかし、今はどうだ。底辺だ。そう思いながら、実は昔も大したことがなかったのかもしれないと落ち込む。
 こんなふうになったきっかけは、いつだろうか。地引網を引くように過去から網を引き上げると、現れるのは秋堂のことだった。
「あの女のせいだ」
 そうつぶやいて、彼は目尻を垂れてきた涙を拭いた。
 秋堂を最後に見たのは卒業式の日だった。身長はクラスの女子の中で一番高く、眼鏡をかけていた。髪は腰まであり、少しベトついていて、友だちはおらず、一番遅く教室に入り、一番早く教室を出る。そんな女子だった。三年間同じクラスで、話したのは二日だけ。絵を描きたいとお願いされた日と、絵を描かれた日。
 あんな絵を描かせなければよかった。
 彼は、小さな画用紙に鉛筆で描かれた自身の肖像画を思い出した。制服姿で立っていた。笑顔でもなく、真顔でもない。高揚感も、悲壮感もない。ぽっかりと穴の空いたような自分の顔がそこにあった。反比例するように、絵を描き終えた彼女の、満足そうな笑みも思い出した。恍惚とさえしていた、あの顔。地味で醜い顔。
 彼はため息を吐き、もう一度、ディスプレイと向き合った。今度はもう少し上手くやれるはずだと言い聞かせた。そして、なんとかやり終えた。
 後日の講評ははまずまずだった。だが、疲労感の割には合わなかった。

 一週間後に秋堂を見つけたのは偶然だった。散歩コースである河川沿いを歩いていると、カフェのオープンテラスに彼女はがひとり、座っているのを発見した。黒いキャリーケースを横に、コーヒーを飲んでいた。他人の空似かもしれないと何度も顔を見て、姿を確認した。
 髪は長く、少しべとついて見えた。ただ化粧を覚えたせいか地味な顔はほんの少しだけ華やかになっていた。醜さも薄らいだ気がした。高校時代の秋堂ではなかったが、やはり秋堂に違いなかった。
 彼の中の嫌悪感が疼いた。もし過去に戻れたとしたら、絵なんて描かせなかった。お願いも、外面を気にせず断っただろうし、存在さえ意図的に無視しただろう。自分の中に一人、透明人間を作ってやればよかった。
 自身の物忘れの原因が絵にある証拠なんてないが、彼の直感は、そうに違いないと言っていた。
 今、やれることは何だろうか。
 彼は漠然と思いながら、カフェに一歩近づき、二歩近づき、三歩近づいた。ぼんやりとした計画が、強烈に彼を動かしていた。
「秋堂だよね」
 そう言うと、女が彼を見上げた。彼の顔を見て、何か思い出しているようだった。しかし、そう見えたのは束の間で、彼女は笑みを浮かべた。
「合田くんだ。久しぶり」
 不安と後悔が彼の頭をよぎった。彼女がなぜ笑っているのか、わからなかった。
「久しぶり」
「どうしたの? 奇遇だね」
 普通なら世間話をするべきだと思った。でも、普通なら、だ。彼女との関係は、いつの間にか普通ではなくなっていた。少なくともただの同級生ではない。
「単刀直入になるけど、絵を返してほしい」
「絵?」
「高校を卒業する間近に、描かせただろ? 俺の」
「ポートレート?」
「たぶん、それ」
「肖像画ね」
「そう、それ」
 秋堂は微笑んで、少し首をひねった。
「うーん、でも。……まあ、いいか」
 彼女の返事の意味が、わからなかった。
「合田くん、とりあえず座りなよ。少し話そ」
 気乗りしなかったが、座らなければ話が進まない気がした。秋堂の気分を害してしまっては元も子もない。合田は向かいのイスを引き、座った。
「合田くんは元気だった?」
「そこそこ」
「高校卒業して、まだ少しだけど、いろいろあったんじゃない?」
「うん」
 合田はそう答えながら、嫌な感情が生まれるのを感じた。怒りになる前の種のようなものだった。しかし、それは悲しみになる可能性もあった。
「私もいろいろあったんだよ」
「そう」
 秋堂はこんなに喋るやつだっただろうか。そう思いながらも、疑問を解決することはしなかった。ある程度話したら、また絵のことを持ち出して、返してもらう段取りをとるだけ。それでいい。お互いを知る必要はない。
「私、結婚したの」
「結婚?」
 合田は秋堂の顔を見た後、さっと彼女の左手を見た。そして、また顔を見た。秋堂と目が合った。
 秋堂はその目線の移動を見逃さず、言った。
「指輪は今、してないの」
「そうなんだ」
「なんでだと思う?」
 なんで? そんなの知ったことではない。
 合田はそう思いながらも考えた。咄嗟に出てきた回答は、お金がないから、というものだった。だが、口に出すことはできない。
「さあ、わからないな」
「何でもいいから、答えてよ」
「何でもいいからって……。学生結婚だからとか?」
 合田のオブラートに包んだ回答は、秋堂の首ふりにより、不正解とわかった。
「わからない?」
「わからない。なんで指輪してないの?」
「実はね」と秋堂は少しイスを引き、お腹をさすった。「赤ちゃんがいるの」
「えっ?」
 その声に秋堂は笑った。
「そうだよね。驚きよね。コーヒー飲んでるし、でも、これノンカフェインなんだよ」
 合田にはカフェインと赤ちゃんの繋がりがわからなかった。そんなことより、ぺちゃんこに見えるお腹の中に赤ちゃんがいることが気になり、信じられなかった。
「指輪もね、外した方がいいって。浮腫んで外れなくなる可能性もあるし、帝王切開になった場合は電気メス使うから付けたままだと感電するからって」
「そうなんだ」と合田は言って、居心地の悪さを感じた。そして、自分が足踏みをしている間に、秋堂が着実に幸せを掴んでいる気がいしてムカムカしてきた。
「おめでとうすごくいいことだね」
 合田の早口に秋堂は頷いて、微笑んだ。
「合田くんは彼女いないの?」
「いないよ。そんなことより」と合田はデザインの課題のことを脳裏に浮かべた。そして、そこにはなぜか、あの絵があった。「今はそんなことより、絵を返してほしい」
「いいよ。でも、最初は言わなかったけど、あれは合田くんの物じゃないから、返してって言うのはおかしいよ」
「……そうだな。秋堂の物だな。ごめん」
「それも違う」
「違う?」
「でも、大丈夫。もう合田くんにあげるよ。家にあるから取りに来てくれる?」
「ああ、うん」
「今からでもいい?」
「もちろん」
 そこから二人で地下鉄に乗り、私鉄に乗り換え、バスに一〇分揺られたあと、住宅街の奥の奥へと歩いた。その間、合田は秋堂のキャリーケースを代わりに転がした。身重の秋堂への気遣いでもあり、彼女が心変わりしないようにするためのサービスでもあった。
 秋堂の住むのは二階建ての一軒家で、彼女が言うには借家だった。迷路の行き止まりのようなところにあり、屋根には青い瓦が乗っていて、全体的に薄暗かった。外壁はお世辞にもきれいとは言えず、シミがいくつもあった。玄関の横の狭い道は、小さな庭に繋がっているようだったが、そこは雑草が生い茂り、死体が転がっていても誰も気付かないだろうなと、合田はなぜか思った。居心地は悪く、心霊スポットの雰囲気に似た何かがあった。その何かは言葉にできない。何かは何かだった。
「入って」秋堂が玄関ドアを開け、中に入るように促した。「散らかっているけど、ごめんね」
 合田は腕時計を見た。時刻はいつの間にか、十六時になっていた。
 家の中は特段、散らかっているわけでもなく、汚いわけでもなかった。物が廊下に転がっているわけでもなく、壁に掛けている絵に埃が積もっているわけでもない。家の外とは違い、明るかった。
「こっち」
 秋堂は靴を脱いでいる合田に声を掛けて、先に進んだ。
 廊下を通り、リビングに入り、また別の廊下に出る。そして、左にあったドアを開ける。部屋の一方の壁には本棚があり、それ以外は何もなかった。
「絵は?」合田は部屋を見回した。「どこ?」
「こっち」
 秋堂は本棚の一つを押した。押された本棚は回転し、その奥に別の部屋があるのがわかった。
「アトリエは、こっち」
 秋堂がそのアトリエに入るのを見て、合田も続いた。床にはキャンパスや絵の具、筆などが落ちていた。汚いとは思ったが、嫌な感じはしなかった。
「散らかってるでしょ」
 秋堂は笑った。部屋に反して、変に爽やかだった。
「そうだね」
「こっちの方が都合がいいんだよ」
「都合?」
「合田くんは、警戒しないんだね」
「警戒?」
「何でもない」
 秋堂は部屋の隅に移動し、がさごそと物を漁り始めた。
「合田くんの絵を描いたのって、第四教室だったっけ?」
「たぶん。いつも鍵がかかってなかったところ」
「懐かしいなあ。合田くんモテたから、そこでも告白されたことあるんじゃない?」
 心臓がわずかに跳ねた。そのせいで返事が遅れる。
「あ、いや、べつに」
「ああ、やっぱりあるんだ」
「ないよ」
「嘘つかないでよ。絵、返さないよ」
 物を動かす音だけが部屋に残った。
「……嘘だよ。返すよ。心配しないで」秋堂はまた笑って、合田の方に戻ってきた。右手には手のひらサイズの小さな額縁を持っている。そして、左手にはA4サイズ程の額縁を持っている。
 合田は左手の額縁の方に手を伸ばした。
「違うよ」と秋堂は右手を差し出す。「合田くんのはこっち」
「こっち? 描かせたものと大きさが違う」
 合田は疑問に思いながら受け取り、額縁に入ったものを見た。
 千切られた小さな四角い黒い紙だった。
「なにこれ?」
「合田くんの頭の部分をカットしたやつ」
「頭? カット?」
「そう。返すよ」
「他のところは? 他のところ、というより、描かせた全体の絵は?」
 秋堂はまた笑った。歪んだ顔ではない。醜いながらどこかに美しさがある、真っさらな笑顔だった。
「大丈夫。大丈夫。わかってるから」
「なにを?」
「それ、食べるんだよ」
「食べる?」
 秋堂は合田の手から額縁を奪った。そして、額縁から紙を取り出した。
「さあ、食べたらいいよ。それで、戻したことになる。合田くんだってわかっているよね? ただ単に絵が欲しいんじゃないんでしょ? ねえ?」
 合田は秋堂と目線を外せないままでいた。すると秋堂は合田の口元に紙を持っていった。
「口に入れる。咀嚼する。飲み込む」
 呪文のような命令に、合田は無意識に従った。口を動かしているのはわかるが、頭には何も浮かばない。いつの間にか、噛み砕かれた頭の一部が、唾液と共に下っていく感覚が訪れる。
「よし。それでいいよ。明日には戻っているからね」
 ごほごほと合田は咳き込む。散らかった部屋の全体像が不意に見えてくる。窓が一つもない部屋。薄暗く、カビ臭い。埃もクズもゴミも、全ての嫌な物が集まっている。今まで感じていなかった嫌悪感が吐き気のように込み上げてきた。
「ありがとう。もう帰るよ」
 合田は口を手の甲で拭って、少し後ずさった。
「うん、いいよ。でも、お願いがあるの」
「お願い?」
「この額縁を捨ててほしいの」
 秋堂は左手に持っていた額縁を差し出した。
「これを?」
「そう。絵は裏表逆にしているから、見えないと思うけど、額縁を外して見ようとしないで。絶対に見ないで」
「わかった。でも、どうして?」
「たぶん後悔するから」
「後悔?」
「合田くんって、どんなに悪態をついても優しいから。私のこと嫌いでも、スーツケース持ってくれるくらいね」
「スーツケースくらい運ぶよ」
「優しくない人は、それが自分のためになるとしてもやらないよ。約束も平気で破る人もいるしね。だから、優しい人には後悔してほしくないの。私だって、合田くんが憎くて絵を描いたわけじゃないんだよ。あの頃はちょっとしたお金が欲しかっただけ」
「お金? お金のために絵を描いたの? 頼まれたの?」
「うん。でも無駄だった」秋堂はため息をついた。「喋り過ぎちゃったな。もう聞かないで。私に会いたくもないでしょ?」
 秋堂はにんまりと口角を上げた。
「これを、捨てればいいんだな?」
 合田は額縁を見た。
「そう。川に投げ捨ててもいいし、ゴミ袋に入れて捨ててもいい。とにかく捨てるの。わかった?」
「わかったよ」

 合田はその後、家に帰った。ただ頭は高熱が出たときのようにぼんやりとしていて、どうやって帰ったのかよく覚えていない。覚えているのは額縁をゴミ袋に入れて、その夜のうちに捨てたということだけだった。
 そして、数日後、高校の頃のクラスメイトが火事で死んだのを知った。
「ミユが死んだ?」
 高校時代の友人が、興奮した様子で電話を寄越してきた。
「ミユって、あのミユだよな?」
 ミユ。高校三年生のときに、第四教室で告白してきた同じクラスの女子。そして、ごめんなさいとフッた女子。明るく、かわいい顔をしていたが、全く恋心を抱かなかった女子。
 友人がいうには、住んでいた家が全焼し、ミユは帰らぬ人となったという話だった。合田もネットでニュースを調べて、亡くなった人物の名前を確かめた。間違いがなかった。同姓同名の可能性もあるが、クラスメイトから連絡が来たということは、そういうことなんだろうと思った。
 知っている人物、そして、告白してきた人物が亡くなるというのは、気持ちのいいものではなかった。しかし、自分にはどうしようもないことであり、悩んでも仕方がないことだと頭ではわかった。でも、引っかかることもあった。
 携帯電話の画面を見つめたまま、合田は何かを考えようとしていた。
 そのとき、携帯電話が鳴った。知らぬ番号だったが、合田は出るべきだとなぜか思った。
「あ、合田くん?」
 その声に聞き覚えがあった。
「秋堂?」
「あ、そうだよ。よくわかったね」
「なんで、俺の番号知ってるの?」
「昔、教えてもらったんだ」
「俺は教えてない」
「うん。教えてもらったの」
「誰に?」
「圧死したミユ」
「ミユ? 圧死?」
「うん。圧死したミユ」
「……ミユは火事で亡くなった」
「違うよ? 額縁は燃えるゴミに出したんでしょ?」
「ああ……」
「じゃあ、圧死じゃないかな。たぶん。あ、そうだ、そうだ。もう頭は治った?」
「頭?」
「そう。まあ、いいや。たぶん治ってるよ。でも、ほんとキャリーケースありがとうね。身重だと大変だったから。あとさ、額縁の中、見てないよね?」
「……見てないよ」
「よかった。でも、ごめんね。合田くんには悪いことしちゃった。恨み辛みも無いのに」
「どういうこと? 何を言っているのか、俺には少しもわからない」
「少しはわかるでしょ? わかるから、絵を返してくれなんて言ったんでしょ?」
 合田は唾を飲んだ。
「俺は何を捨てたんだ?」
 合田の問いは無視され、電話は切れた。




 佐々木はお茶をぐびっと飲んだ。
「火事の現場からは、焼け残ったものもありました。その中には、額縁と画用紙の欠片が」
 薫はグラスの中の氷を指で回した。
「嫌な話」
「画用紙には、女性が描かれていたようでした。しかし、ほとんど焦げてしまっているので確認は取れません。あと、亡くなった女性は圧死でした。火事が起こる前に、死んでいて、原因は不明です。何かに潰されたのだと思いますが、家具や木材が倒れてきた形跡はなく、むしろ何にも潰されていないようでした」
 薫は深くため息をついた。
「佐々木さんって、何でそんな気味の悪い話を私にするんですか? 事件の話もさ、私、聞いちゃいけないんじゃないの?」
「すみません。こういう話しかなくて」
「いや、そうじゃなくて」
「今日は、そろそろ帰ります。大丈夫みたいです」
「なにが?」
「いえ、こっちの話です」
 薫は、その話の方が聞きたいわ、と思いながらも、佐々木が意外にも早く帰ってくれるので文句は言わなかった。
 ただ、気になっていることがある。それだけ聞いて、佐々木を帰すことにした。
「それで、あの女はなんなの? あと、なんで合田くんの絵を描いたの?」
「あの女?」
「絵を描いた女」
「あ、その女のことですか」
「そう」
「それは機密事項です」
「はあ? じゃあ、絵を描いた理由は?」
「それも機密事項です」
「はあ?」
「お会計、お願いします」
「はあ?」
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