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⑧ 雨降の思い出
しおりを挟むその次の日は生憎の雨天であった。
朝から糸雨が絶え間なく降り注いでいる。
まだ昼間だというのに、既に空気は寒々しかった。
土に汚れた運動靴が地面に茶色い足跡を残しては、雨粒が手早くそれを掻き消していく。
僕は雨と鼬ごっこを繰り返しながら、霧雨に見舞われた曇り空の下を歩いていた。
傘を差すことない。
代わりに、黒いポンチョをぽすりと被っている。
であれば、その足は毎度の如く図書館へと向いていたのか。
はたと動きを止める。
その先では、しっとりと色気のある緑たちが僕を待ちわびていた。
僕は何の躊躇もなく、濡れた草木を両腕でかき分けていく。
やがて目的の場所に辿り着く。
太い幹の裏から、彼女が顔を覗かせた。
「おはよう。鈴音」
「おはよー。千風くん」
実際にはもう午後三時を回っていたが、今日、鈴音と会うのはこれが初めだ。
だからこの挨拶には何の問題もないだろう。
定型的な言葉を交わしてから、僕は彼女の待つ大樹へと向かった。
「あっ、千風くん。ちょっと待って」
君との距離あと一メートルというところになって、突如、鈴音は僕を立ち止まらせた。
「どうしたんだ?」と僕は軽く首を傾げる。
「えっとねー」鈴音は微笑みを浮かべながら言葉を濁した。
鈴音が何かを企んでいるのは一目瞭然のことだった。
僅かな間を置いてから、彼女は調子の良い掛け声と共にこちらに躍り出た。
「じゃーん!どうかな~?」
彼女は裾を掴んでそれらしい姿勢を取った。
その様子は、この薄暗い天気に似合わないぐらいにいつもに増して陽気だった。
そんな鈴音を前にして、僕はただ、不思議でならなかった。
だって、彼女はいつもと変わらず下駄みたいなサンダルと白いワンピースを身に着けて、鏡のような黒髪とその魅惑の頬笑で僕を──。
と、そこで気が付く。
星のように僕の両目を惹き付ける微笑みから目を逸らし、まず彼女の足に着目した。
山を駆け巡っているうちに、いつかポッキリ折れてしまうのではないだろうか。
そんな、見ている方がヒヤヒヤするほどに細い線を描いた鈴音の脚が、今日は幾ばくか見え辛くなっている。
思わず、彼女の上体に視線を移す。
いよいよその変化は明らかになった。
いつもは余すことなく外界に晒されていた華奢な腕が、今や、すっかり白い生地に覆われてしまっているではないか。
「長袖にしたのか?」僕は再び彼女の顔を見やった。
「うん、そうだよ!」君は快活な二つ返事で答えた。
やはり鈴音も来たる冬の寒さには耐えられず、半袖は止めにしたということだろうか。
いやしかし、あの生地の薄さではどんぐりの背比べといったところだろう。
となると、何故長袖を着るようになったのだろうか。
などと、僕が数々の疑問を浮かべていた時のことだ。
鈴音は妙な咳払いをして、僕の意識を吸い寄せた。
僕は彼女に目を合わせる。
鈴音は僕に耳打ちするみたいに小さな声を発した。
「それで、千風くん的には、どう?」
「どうって…」
君の曖昧な言葉に対して、僕は幾通りかの答えを用意した。
鈴音は何かを待ち望むように、何度か僕の目を見てはそっぽを向いた。
そのいかにも褒めて欲しそうな君の様子を見て、自ずと頬は緩んでしまう。
微笑みを浮かべた僕は、どうとでもとれるその言葉を彼女に贈った。
「すごく、似合ってると思う。やっぱり鈴音には白が一番なんだろうなって思わされるぐらい」
決してお世辞ではない。
それは、鈴音を良い気分にさせつつも、僕の気持ちのごく一部を入り交えた嘘偽りのない本音だった。
それでも、この胸に抱く感情を悟られたくはない。
それが表に出ないよう、僕は努めて真顔で言ってのけた。
「そっかそっかぁー」
僕からの賛辞を受け取った君は、何気ない素振りで即応した。
程なくして、僕らは隣り合わせに大樹に寄りかかった。
お互いに言葉を発することはない。
僕らはひたすら、霧雨が葉を叩く音に耳を澄ませている。
そこには悪くない沈黙が漂っていた。
だから、時折「えへへ…」と照れ臭そうな笑声が隣から聞こえたのは、
抗えず横目を向ければ、そこに気恥ずかしそうな君が居たのは、
全て、僕の気のせいなのだろう。
♦♦♦
暫時雨止みを待ってはみたが、今日のバケツはまだまだ空っぽにならないらしい。
僕らはその場から一歩も動き出せないまま、静謐に身を任せていた。
どうして僕は、雨の日だというのにここに来たのか。
それは単純なことで、嵐の日に鈴音が僕と同じよう、山を訪れていたから他ならない。
以前の僕はてっきり、鈴音は雨天時には足を運んでいないものだと思い込んでいた。
けれどあの日、実際はそうでないことを把握したのだ。
そういうわけであれ以来、僕は天気に関わらずここを訪れている。
もちろん、雨の日に出来ることは少ない。
こうして大樹の下で雨宿りすることが関の山だろう。
あとはぽつぽつと僕が日常の話題を持ち出しては、彼女が優しく相槌を打ってくれるぐらいだった。
遠い雲から幾つもの雨粒が降り落ちる。
大樹が大きく広げた葉っぱは、それを命一杯受け止めていた。
真上の方では、雨が葉を叩く乾いた音が無数に響き渡っている。
正面の方では、枝先から滴る雫が地面に深い水溜まりを作っていた。
それは鹿威しみたく一定間隔で、耳障りのいい水音を奏でた。
僕はこの時間にある種の心地良さを見出していた。
普段は無邪気に笑い、活動的に動き回っている僕らが、この時ばかりは人が変わったように静かな時間を過ごす。
その緩急が良かったとでも言えばいいのだろうか。
鈴音と共に雨音へ耳を傾け、のんびりと時の流れを感じるこの瞬間は嫌いじゃなかった。
いつしか、僕の心音は雨が降ると妙に荒ぶるようになった。
でも、何故だか君と一緒に居れば、それも唸りを潜めるのだ。
結局、その日は日暮れまでに雨足が弱まることも止まることもなく、僕らは長閑けな一日を終えた。
まだ、鈴音との時間を終わらせたくない。
そう思う反面、また明日には素晴らしい時間が訪れることを訳もなく期待する。
そうやってなんとか名残惜しい気持ちに区切りをつけて、僕はいつもの如く、重い腰を上げるのだ。
「あっ、そうだった」
僕らが別れを交わそうとしたその時、鈴音は言い忘れていたように両手を叩いた。
「明日はさ、千風くんは山に来ちゃ駄目だからね」
彼女は別れ際にその言葉を付け加えた。
「…?鈴音も来ないのか?」
一瞬の間を置いてから、僕はその大きな疑問を訊ね返した。
僕らは明確に遊ぶ時間帯を決めず、野良猫みたいに気ままな調子でここに集まっている。
だからこそ、来るなと言われるのは初めてのことであり、同時にそれは意外な発言でもあったのだ。
「うん、まぁそんな感じ」僕の問い掛けに対して、鈴音はさらっとそう答えた。
厚い雨雲のせいもあって、帰り道はもう薄闇に包まれていた。
「ちゃんと足元に気を付けてね」
僕が慎重に足を進めようとすると、彼女は何処か不安そうに言う。
「ん、じゃあ、またな」と僕が言葉で応じれば、「ん、ばいばい」と君もまた相槌を打った。
別れの言葉を皮切りに、僕は長い下り道を進んでいった。
その間に僕はいつも、一度読んだ本を見返すように一日を振り返っている。
例えばその日は、何気ない情景の一つ一つを描いては、長袖ワンピースを纏った君の姿を噛み締めるように何度も映し出していた。
ふと、帰路を目指す足が止まる。
今日の鈴音を思い返していると、妙な引っ掛かりを感じたのだ。
一秒前に頭をもたげたことを掘り返すように、僕はもう一度じっくりと、今日という日の日記を読み込んだ。
するとやはり、ある描写に違和感が見つかる。
その不可思議を具体的な形にしたくなって、僕は誰に言うでもなく、こう呟いた。
そう言えば、雨具を持っていない鈴音は、どうやってに濡れずにあそこまで来たのだろうか。
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