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⑪ 細雪の思い出
しおりを挟むゆるりと流麗な細流に手を浸す。
あまりの冷たさに身の毛がよだつ。
つい、引っ込めたくなる腕を抑え込んで、僕は指先から感覚が失われるのを待った。
血管に冷水が染み込んでいく。
それが逆流して僕の心臓を止めてしまいそうな勢いで、冬の凍てつく流水は遠慮なく僕から熱を奪い去っていく。
暫く時間が経過すると、水温に変化を感じられなくなった。
僕は素早く川から手を取り出した。
その過程を経たうえで、僕らは欠かさず日ごとに、新たに組み込まれたルーティンを行った。
僕の方が君の手の甲に重ねることもあれば、鈴音の方から僕の手の甲に触れることもあった。
どちらがどうするかはその日次第だ。
けれど、鈴音は毎度の如く、何かを確かめるような微笑みを僕に向けていた。
対して僕はその度に、息を止めて仏頂面を作った。
極度の緊張感を手放さないようしっかりと握っていなければ、いつの間にか頬の筋肉がだらしなく緩んでしまいそうで、僕は気が気でなかったのだ。
そうして僕達は、両手両足の指を使っても数え切れなくなるほどに、その心地よい日課を繰り返した。
そして今日も今日とて、僕は右手の温度感覚の麻痺させてから、鈴音へと手を伸ばしていた。
彼女もあえかに腕を伸ばす。
僕の指先と、細く小さな手が僅かに触れ合う。
やがて、一方の手がそっと添えられた。
鈴音の手の甲を握る数秒の間、僕は極力余計なことを考えないで済むよう、頭の中で山のように免罪符を刷っている。
例えば、これはあくまでも彼女に熱を伝えるためだけの行為なのだとか。
より温度感が伝わりやすいように、こうして手に触れているだけなのだとか。
毎回手から血の気を引かせているのには理由がある。
そうでもしないと、必要以上に僕の熱が彼女に伝わってしまうからだ。
だから、鈴音の体温がうっすらと伝播し始めると、僕はすぐに手を引っ込めるようにしていた。
今日もそろそろ夢の時間が終わる。
西日の眩しい遊園地を後にするみたいに、僕は渋々手を離した。
伝わってはいけないところまで伝えてしまっていないだろうか。
何度やっても慣れない一連の流れの末に、僕はまた鼓動を速めていた。
解かれた右手をしみじみと眺める彼女は、まるで全てを見透かしたような笑みを向けていた。
やや時間を置いてから、僕らは散策に繰り出した。
ここらに頻繁に足を運ぶようになって、早半年が経過した。
それ故に、何処に何があるか、僕は粗方把握しているつもりではある。
が、山という存在は、季節によってその有様を大きく変える。
例えば今の時期なんかは、世界は実に殺風景に映っていた。
地上は根を張る生き物にとっての準備期間になっているせいで、物寂しい空虚さが際立っているばかりだ。
華やかさを追い求めて天上を見やれども、そこは白っぽい灰色で覆われていた。
目をよく凝らしてみても、曇り空の下では白い鳥が悠々と旋回しているのみである。
もし、君がここに居てくれなくては、眠る山にはこれっぽっちの見所も残されていなかったことだろう。
「冬の山ってさ、他の季節に比べると魅力に欠けるよな」
手持ち無沙汰に足を動かす僕は何気なく言った。
木々の合間を縫うように通り抜けていた鈴音は、振り返って形の良い眉を八の字に持ち上げた。
「そんなことないのに。もっと周りに目を凝らさなきゃ」
彼女は両手を大きく広げて、僕に周囲へと意識を向けさせようとする。
僕はそれに従って辺りをぐるりと見回した。
丁度、彼女の身体で隠れていた部分にそれを発見した。
と同時に「例えばさ、ほら」と鈴音はその場を指差した。
つる植物のような背の低い木が、その先に小さな赤い実をつけている。
加えて、深緑色の丸い葉は鋸みたいにギザギザとしていた。
この見た目で、この頃に実がなる植物と言えば、もうあれしかないだろう。
今回の問題は比較的簡単であったからこそ、僕はすぐにその名前を思い出せた。
「お、フユイチゴか」
「そうだよー」
僕の解答に対して、鈴音はそう答えながら実を幾つか採集し始めた。
「この時期にでも採れるんだな」僕は彼女の屈んだ後姿を眺めながら言う。
「結構限り限りだけどね。だからよく熟れてるんじゃないかな」
片手に収まる量を手に入れた君は言った。
こちらに向き直った鈴音は、果実を僕に分け与える素振りを見せた。
それを受け取るべく、僕は両手で皿を作って彼女へと差し出した。
鈴音は一粒抓み上げると、それを僕の手に乗せようとして、しかし、その手を引っ込めて自分の口に放り込んでしまった。
僕は唖然とした。
その間に彼女は口元を緩めながら冬苺を食べ終えてしまった。
そして意地悪な表情で「あげない~」などと言うのだ。
別に、冬苺なんて然程甘くもないし、そこまでして食べたいという訳でもなかったはずだった。
けれど、そんなに美味そうに食べられては興味が湧いてしまうというものだ。
僕は素直に白旗を掲げた。
「前言撤回するよ。山はどんな時でも素晴らしい場所だ」
そうやって山が季節問わずに魅力的であることを認めれば、僕も鈴音から残りの冬苺を分けてもらえると思ったのだ。
がしかし、それでも鈴音は僕に冬苺を分け与えることはなかった。
代わりに一粒指で抓み取り「口開けて?」と悪ふざけの延長線みたいな調子で言った。
言われた通りに口を開ける。
鈴音はおはじきみたいに冬苺を弾いた。
それが上手いこと口内に飛び込んできて、僕は歯を重ねて果実を噛み潰した。
溢れ出た果汁は随分と水っぽいものだった。
が、不思議と引き締まるような甘酸っぱさが口の中に広がる。
彼女の満足そうな笑顔を見ていると、それは一層強い味覚となって舌に残った。
一粒で充分満足できたことを知らせると、彼女は残りの冬苺を口に運びながら、元来た道を引き返し始めた。
僕もそれに倣って半回転する。
二人してゆったりと歩を進める。
そうして、シンボルツリーまでの道のりも残り僅かとなった、その時のことだった。
ふわりと、眼前に白い浮遊物が舞い落ちた。
それは僕の鼻の上に収まり、仄かな冷たさと共に消え失せていく。
そのうち二、三と、白い星屑が宙を踊り始めた。
「雪だな、珍しい」
僕はぽつりと呟いた。
鈴音も軽く頷く。
彼女は薄明るい曇り空を眺めながら、細雪を空いた手のひらで受け止めようとしていた。
僕らは早足に大樹まで戻った。
そして予めそうすると決めていたように、その下を避難先にした。
休憩がてらその場に座り込んだ鈴音は、僕に小さく言った。
「流石に寒いね、雪が降ると」
「鈴音が寒い?それ本当なのか?」
この時期でもその服の薄さで平気らしい彼女が、なんと寒さを感じると言うのだ。
意外過ぎるその一言に、僕は思わず率直に聞き返した。
「当たり前じゃん。私だって寒いものは寒いよ」
彼女は心外そうに口をすぼめた。
鈴音は自分で自分を抱き締めるよう、縮こまって暖を取ろうとする。
途端、布切れ一枚しか纏っていないと言っても過言ではない君が、極寒の地に降り立ったかのような光景が脳裏に浮かんだ。
僕はすぐさま厚い外套を脱ぎ去る。
それを鈴音に差し出した。
「これ使えよ」僕は何気ない素振りで言う。
「でも、それじゃあ千風くんが凍えちゃうんじゃないの?」鈴音は的確な返事をした。
「まぁ確かに」と僕はやせ我慢することなく、彼女の言葉に同調する。
すると君は、間を置くこともなく、
「だからくっつこう」
と肩を密着させる勢いで僕に近づき、数ミリを残して身体を揺らした。
僕の身体はびくっと跳ね上がった。
服越しにでも分かる鈴音の柔らかな肌が、寄せては返す波のように触れ合うこと数十秒。
僕はとうとう、平常運転で居られなくなった。
このままでは、降り落ちる粉雪を溶かし尽くす勢いで、真っ赤な感情が理性を残さず焼き尽くしてしまうかに思えた。
足先に打ち寄せる波から逃げるようにして、僕はほんの少しだけ、鈴音から距離を取ろうとする。
けれどもその時、君は深く息を吐き出してから、丁寧な声色で不思議なことを言い始めた。
「…私ね。時々、千風くんが聡明なんじゃないかな、って思っちゃうの」
言われた僕はまず、彼女の言葉の繋げ方につっかえを感じた。
しかし次にその言葉の意味を解釈し、僕は少々眉をひそめた。
「…それどういう意味だよ。馬鹿って言いたいのか?」
もちろん、本気で気分を害したわけじゃない。
僕はそれを単なる気安い会話の一種として捉えていた。
問い掛けられた鈴音は、暫し、驚いたように瞬きを繰り返していた。
その後になって、なんだか愉快そうな笑い声をあげる。
僕を宥めるみたいに優しい調子で、彼女はこう言った。
「ううん、そんなことないよ。君は賢い子だと思う」
久しぶりに「君」呼ばわりされて、僕はなんだかむず痒い気持ちを味わわされた。
僕を「君」と呼ぶ鈴音は、いつもと違って一回り落ち着いた雰囲気を醸し出しているように見えた。
彼女の言葉はそこで止まらない。
「でも」と接続詞を挟み、君は心底穏やかに頬を綻ばせた。
「やっぱり、聡明じゃないんだろうね」
賢いけれど、聡明とは言えない。
彼女に禅問答のようなことを言われて、なんのこっちゃ分からなかった僕は何も言葉を返せなかった。
彼女の難解な言葉を前に、今度は僕が目を丸める番だった。
そしてその瞬間、起き上がり小法師が重心を崩したみたいに、鈴音はこてんと、こちらに身体を傾けた。
最後の数ミリが詰め切られる。
触れては離れてを繰り返していた半身が、完全に隙間を失った。
自分以外の息遣いを直に感じる。
僕は必死に、心のうちで暴れ出そうとする自分を抑え込もうとした。
けれど、君は僕にそんな余裕なんて与えてくれなかった。
鈴音は僕の知識では表現し難い微笑みを浮かべ、囁くようにゆっくりと口を動かした。
「だから凄く安心するし…私は、嬉しいかな?」
細雪が舞い散り、一層気温の下がった世界の中、僕らは半身を密着させて寒さを耐えしのごうとした。
程なく、雲の中央に亀裂が入り、辺りには光芒が差し込み始めた。
次第に剝離していく雲の間隙からは、やがて太陽がその姿を現した。
しかしそれでも、僕らは長らく寄り添い合ったままでいた。
外に晒された半身は凍え、くっついた半身は火照るほどに熱かった。
身は悴めど心は茹だりそうな、冬のある日のことだった。
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