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第二十九話

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「あの時ほど導師シャルレーを恐ろしいと思ったことはなかったな」
「うん、俺からすると導師シャルレーは最初から底の見えない井戸のように感じられたけど・・・あの時は特に怖かった。勢いもあったけど、クロリスと対決した時の方がまだましに感じたほどだ」
「うむ、やはり・・・あの人だけは敵に回すわけにはいかんな」
 ヒロキはイサリアとかつてシャルレーを怒らせた話題を小声で語りながら、広間の片隅でミゴール昇格パーティーが始まるのを待っている。
 クロリスら旧ルキノス派の陰謀に利用されたミゴール昇格試験だったが、学院側の詳細な調査の結果、イサリア、ヒロキ、エリザ以外の受験者には直接的な妨害がなく、試験に参加したミーレ達の中にもクロリスの共犯者が存在しないことが確定し最終的な合格者が発表された。
 合格基準は以前にイサリアがヒロキに伝えたほぼ同じ内容で定められ、結果的に試験に挑んだ全ての受験者がミゴールへの昇格を認められることになった。約三割が脱落する通例からするとやや甘い裁定にも思えるが、学院側としては反乱分子への対策もあり再試験を行う余裕がないのだろう。
 黒幕らしきクロリスを連れ去った者の正体は未だ解明されていなかったが、主だった学院関係者のアリバイが立証されたことで当初の危機感は収まりつつあった。もっとも極めて重大な問題なので、更なる綿密な調査が続けられている。
 そのためか本来、学院を上げて行われる昇格祝いパーティーは昇格した本人達と導師、来年の受験を予定しているミーレ、有志のミゴール達といった比較的小規模で行われることとなった。今日は新月の夜でヒロキが日本に送還される日でもあるのだが、彼もイサリアに誘われるまま最後の思い出の場として参加していた。

「おっと、そろそろ導師の方々もこの会場に現れる頃だな・・・この話題はここまでとしよう」
「そのようだね・・・」
 警告を発したイサリアにヒロキは頷く。彼も広間に入ってくるアルビセスの姿を捉えたからだ。生真面目なこの導師が会場にやって来たということは、これから他の導師達も現れるサインであったからだ。
 それと同時にヒロキは平静を装いながら改めてイサリアの姿を見つめる。普段は癖のない長い金髪を背中に流している彼女だが、今日は何本の三つ編みにして更にそれを纏めて後頭部で結っている。
 また、着ている服も制服ではなく、赤味の強い桃色のドレスだ。派手な色使いだが、イサリアのやや濃い肌の色と髪色には良く似合って映えている。綺麗に結われた髪とドレスで優雅さ、剥き出しになったうなじの色気で、彼女はいつもよりも増して魅力的な美少女となっていた。
 見惚れる内にヒロキの視線は自然にイサリアの唇を辿ってしまう。小振りながらも桜色の膨らみは瑞々しい光沢を放っている。この真珠のような唇に重ねる機会があったことはヒロキにとって夢のような出来事だった。
 地下から生還し、今晩の新月を待つ間に再びそのような機会が来ることを密かに望んでいたが、平穏を取り戻しつつある学院生活でドラマチックな状況に再び巡り合わせることはなかった。
 それは彼にとって残念なことでもあったが、幸いでもあった。なぜなら、彼に残されたこの世界での生活はあと僅かだからだ。このパーティーを終えた後には元の世界に送還してもらう約束を交わしており、既に手筈は整えている。
 もし、ヒロキが望めばもっとこの世界に留まることも可能と思われるが、それは元の世界との決別になる予感があった。これ以上イサリアと一緒の時間を過ごしてしまえば、自分は以前の生活に戻ろうとは思わなくなってしまうだろう。彼女との別れは辛いが今ならまだ、片思いの思い出に出来る。その考えもあってヒロキは友人しての距離を保とうとしていたのだが、イサリアの美しいドレス姿を見たことでその考えが揺らぎ始めていた。

「ヒロキさん、そのお召し物とても似合っておりますわよ」
 後ろから掛けられた声にヒロキは我に返りながら振り向く。そこには白と青色を基調としたドレスを纏ったエリザが立っていた。
 銀色の髪は後ろに纏められ、胸のカットは深く豊かな胸が強調されている。ドレスの色が清純さを連想させるのでそこまで目立ってはいないが、十代の少女が着るにはなかなか扇情的なデザインと言えるだろう。
「あ、ありがとう。エリザさんも凄く綺麗ですよ」
 一瞬前まではイサリアに心をときめかされていたヒロキだが、エリザの褒め言葉に笑顔を浮かべて答える。彼が今着ているのはイサリアに用意してもらった礼服だ。と言ってもデザイン的には普段の学院の制服と大差ない。
 多少は飾りが追加されているが、イサリア達女性に比べれば地味で新鮮味はなかった。こちらの世界でも男のファッションの幅はそう広くないのだ。
 おそらくこちらの伊達男達はちょっとしたアクセサリー等で他人と差を付けるのであろうが、借り物ということもありヒロキはそこまで凝る情熱はなかった。
「まあ、光栄ですわ!」
 エリザはヒロキから返礼を微笑みながら優雅に受け取る。それは賞賛を受けることに慣れきった仕草だったが、今では嫌味だとは思わなかった。
 最初はどこか陰険に見えたエリザだが、大貴族に生まれた彼女にとってはそれが当然の反応なのだ。ヒロキはこの世界のしきたりや見えない習慣といった空気を肌で感じ理解出来るようになっていた。
「なんだ、こっちに邪魔をしに来たのか」
 エリザの出現にイサリアはそっけなく答える。彼女の傲慢な態度は相変わらずだが、それは今でも新鮮に感じられる。
 この世界のことを知るにつれてイサリアが皇帝の孫であることが判明し、彼女の強気な態度は実家であるリゼート家の影響からだと思ったこともあったが、イサリアの性格的表現の九割は彼女自身の個性だと断ずることが出来た。
「邪魔ではありません。お世話になったヒロキさんに挨拶を告げただけですわ!」
「それを邪魔というのだ。あれからも七日も経っているのだぞ、ヒロキは恩に着せるような男ではないから、もう気にしていない。必要以上に構うな!」
「まあ!バルゲン家は礼儀知らずのリゼートとは違いますので、見掛けて挨拶もしないなんてことは出来ませんの!」
「本当に二人は姉妹みたいだな・・・」
 言い争いを始める二人にヒロキはしみじみと苦笑を漏らす。思いがけないエリザの登場でイサリアへの想いを薄めることが出来たが、この二人のやり取りをもう見られなくなると思うと、別の寂しさを感じ始める。特にエリザに対しては正体を隠したままこの世界を去るので罪悪感を覚えた。
「な!これのどこが、姉妹なのだ!」
「そうですわ、これは私が魔法しか取得のないイサリアに年長者として礼儀を諭しているだけです!」
「まあ、二人がそう言うならそういうことにしておこう。・・・でも、二人の仲を面倒にしようとしていたクロリスはもういないし、リゼート家とバルゲン家出身の二人が協力する姿はこれからの帝国にとっては必要なんじゃないかな。十五年前の内乱ではこの二つの家はそれまでの確執を投げ打って、独裁を始めた当時の皇帝に戦いを挑んだだろう?!」
「「・・・」」
 ヒロキの言葉に二人の少女はこれまでのしかめっ面を引っ込めて彼の顔を見つめる。ヒロキの正体を知るイサリアにとっては、この世界と帝国の情勢に疎いはずの彼がこれほどまでに的確な助言をしたことに対する驚きと感慨、エリザは自分でも心の奥にぼんやりと思っていた考えを指摘されたからだった。
「・・・そうですわね。ヒロキさんの言う通り、ルキノス派が陰謀を巡らして再び帝国への復帰を画策しているこの時期に、バルゲン家とリゼート家がつまらないことでいがみ合っていては、周りの者達に不安を与えるかもしれませんね・・・」
「・・・うむ、確かにその通りだな・・・。少なくとも人前で言い合うのはこれから控えた方が良いかもしれない・・・」
 先に口に開いたのはエリザだったが、イサリアも同調する。
「いっそ二人が握手を交わして、さりげなくここにいる人達にイサリアとエリザさんがお互いを認めていることを印象付けてやろう!」
「「・・・」」
 ヒロキの提案に二人は一瞬だけ驚いたような顔を浮かべるが、お互いの顔を見つめ合った後にどちらともなく手を差し出して握手を交わす。
 それは借りて来た猫のようなぎこちなさが伴っていたが、ライバル関係にある大貴族出身で、パーティー会場でもっとも美しい少女達が並び立つ姿は周囲にざわめきを齎すのに充分だった。
「こ、これでいいだろう?」
「これで良いですわね?」
「ああ、最初はこんなもんだね」
 ヒロキに許可を求めるように二人は握った手を離す。彼女達が握手していた時間は数秒に過ぎなかったが、この出来事は二人の関係が改善した噂として学院内で広まるだろう。ヒロキはイサリア達にちょっとした贈り物を残せたこという思いで満たされた気持ちとなる。
 これは彼が出来る精一杯の感謝と別れへの餞別だった。
「む、なんだかヒロキのくせに偉そうではないか!私はヒロキの頼みを・・・」
 笑みを浮かべるヒロキにイサリアが抗議の声を上げようとしたところで、学院長が会場の前方に姿を現した。まもなく、パーティー開始の合図と試験に合格したミーレたちへの謝辞が行なわれるに違いない。イサリアを含めた会場にいる者達は一斉に畏まった。
「・・・今回の試験は嘆かわしくも、内乱の残党勢力よる妨害によって・・・。前途豊かな可能性を持った新たなミゴール達が・・・」
 学院長ナバートのスピーチをヒロキはイサリアとエリザの間に立つ位置で清聴する。帝国の危機を訴えながらもこの時期にミゴールに昇格した今回の合格生達を鼓舞し褒める内容自体は、帝国と学院のゲストであるヒロキにそこまでの感動を与えなかったが、この世界に来た当初に学院長の尽力を得られた事実にヒロキは改めて感謝の気持ちを抱いていた。
 結果論ではあるが、もし彼がイサリアとヒロキの存在を尊重せずに、学院で暮らす段取りを整えてくれなければ、クロリスらルキノス派がどのような行動を取っていたかは想像に難くない。
 おそらくは、昇格試験を来年に延ばしたイサリアに別の巧妙な罠を巡らしたことだろう。今こうしてイサリアが無事でいられるのは彼の理解と英断とも言える協力のおかげでもあったのだ。
 そんなヒロキの考えが伝わったのだろうか、学院長と目を合わせた瞬間に彼はヒロキに笑みを送る。それは師匠が成長した弟子に向ける笑顔のようだった。
 やがて学院長の謝辞が終わるとパーティーは自由な懇談と希望者によるダンスが開催される。食事も立食ではあるが様々な料理が用意されており本格的なお楽しみの時間となった。

「どれ、私達も一曲踊ってみようじゃないか?」
「え、ちょっと!俺はダンスなんて出来ないぞ!」
 オードブルの生ハムを乗せた小さなパイを片付けたイサリアはヒロキにダンスの誘いを掛ける。周囲にはウッドゴーレム達による弦楽器を主としたワルツのような軽快な曲が流れている。食欲を満たしたことで今度は昂揚感を身体で発散したいと思ったのだろう。
 もっとも、ダンスなどやったことのないヒロキは慌てて断ろうとするが、そうさせまいとイサリアはヒロキの腕をとって強引にパーティー会場の中央へと連れ出した。
「大丈夫だ。私がエスコートしてやる!私の動きを良く見て同じ様に動けばよい!」
「そんな無茶な!」
 無理やり連れられたヒロキだったが、イサリアの誘いを拒絶することは出来ずに、既に踊っている学生達のダンスの流れに加わる。ここまで来ると下手に逃げる方が却って目立つので、ヒロキは必死にイサリアの動きを真似てそれらしい動きに見せるしかなかった。
「そうだ。なんだ、意外と上手いじゃないか!」
 踊りながらもイサリアは鼓舞するがヒロキは置いて行かれないようにするのがやっとだ。一曲終わる頃には、かなりの距離を走ったほどの疲労感を味わった。
「うむ、なんとか踊りきったな。私と踊れるなんてヒロキは幸せ者だぞ!」
「はあ・・・た、大変だったけど、・・・確かに楽しかったよ!」
 次に踊るペアの邪魔にならないように中央から外れながら、ヒロキはイサリアに自身の達成感を伝える。緊張の連続ではあったが、音楽に合わせてイサリアと踊る様は確かに夢のような一時だった。おそらくこの経験はこの世界での最高の思い出になると思われた。
「では、ヒロキさん次は私と一曲お願いします。ご安心下さい、私はイサリアよりももっと上手くヒロキさんをエスコートして見せますわ!」
「え!!・・・お、お願します」
 待ち伏せしていたわけではないのだろうが、中央から逃れるように離れて来たヒロキをエリザが迎える。先程イサリアとエリザを握手させたのはヒロキ自身だ。
 イサリアとは踊ったのにエリザは拒んだとなれば、また喧嘩の火種になりかねない、ヒロキはさりげなくこれまでパートナーであったイサリアに視線を送り、謝罪の合図とすると、エリザの手を取った。イサリアも不服そうな顔を浮かべるが強いて反対はしない。
 客観的に見ればイサリアに続いてエリザと踊るヒロキは、美少女達に一目を置かれる幸せ者だったのだろうが、彼からすればギリギリの状態で泳ぎ切った川岸をもう一回反対側に向かって泳げと言われた気分だ。
 もっとも、踊るエリザから漂うほのかに甘い香水の匂いはヒロキの男心を擽る。無理をする価値はあった。
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