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海岸沿いにて
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「ねえおじさん! また明日もここにいる?」
声変わりが訪れる前の少年の声。高いとは言い難いその声は、おそらく少年の二回り以上は年を重ねているであろう、目の前に立つ男に向けて発されていた。
「うるさい! 俺はおじさんじゃないで、お兄さんと呼べ」
「なんて言ったの? よく聞こえないよー!」
二人が張り上げた声をかき消すほどの白い波が、海の主とばかりに猛威を振るう冬の砂浜。防波堤に一台の軽自動車が停まっている他は人影ひとつない。
「もう帰れ! お母さんが心配するぞ!」
男が手で少年を追い払う仕草を見せる。それでも少年は食い下がった。
「まだ暗くないよ? もう少し遊んでよ!」
その少年は、自分とわずかな間ボールを蹴っただけの男のことを、全面的に信頼しているようだった。その純真な瞳に対し、男は諭すように口を開く。
「いいか、冬の太陽の速さを舐めるな。直にもう真っ暗になる。わかったら早く帰っとき。それとな」
続く言葉を伝えるべきかどうか、男は迷っているように見えた。あえて言わない方が良い結果に繋がることなど、この世には山ほどあると言わんばかりに。
「ここで俺と遊んだことは誰にも言ったらあかんで。いいか、誰にもやで」
少年は頷き、男に言葉を返す。
「明日もまた遊んでくれる?」
「ああ、遊んでやる。やから今日はもう帰れ」
言いながら男は耳の後ろを指で掻く。それは男が嘘をつくときに無意識で行う癖だった。
「わかった!」
さっきよりも激しく少年が頷くと、腕に抱えていたサッカーボールを地面に落とし、それを蹴りながら夕日の沈む方向へと走っていった。
「おじさん! また明日ねー」
去っていく少年の姿を男はじっと見送る。やがてその姿が見えなくなると、唯一停まっていた車へと砂浜を歩いていった。
「まったく、俺はおじさんじゃないって言ってんのに」
男は悪態をつきながら、着ていたダウンジャケットの内側から煙草の箱を取り出す。少しひしゃげたその箱から一本を抜き出すのに手間取っているようだった。
「ああ。くそっ」
指を器用に使いながら、なんとか一本の煙草を取り出す。それを口に咥えると、内ポケットから出してきたライターで火をつけた。
男が深く吸った息は、数秒後に白い煙となって吐き出される。何度もそれを繰り返しながら、男は沈んでいく夕日を眺めていた。
宙に揺蕩った煙に橙色の光が重なって、男の目に届く光は灰色に濁されている。男の視線は水平線の、そのまたさらに遠くまでを見つめているようだった。視線を遊ばせている男は、誰に話すでもなく口を開く。
「あいつ、誰かに話すかな。きっと話すよな。というか母親が何してたんか聞くか。『おじちゃんと遊んでた』って言うんやろうな」
「何を一人でぶつぶつ言ってるの?」
男の吐き出す煙を手で払いながら、小さなビニール袋を手に下げた女性が車の陰から男に声をかける。
「朱音、どこ行ってたんや」
「ちょっと買い物にね。大丈夫、私だって気づいている人はいなかったよ」
鈴が鳴る時のような声を巧みに操り、朱音と呼ばれた女性が話す。
「まあ、さすがにそれやったら気づかれへんか。怪しすぎて通報されるかも知れへんけど」
男は朱音が着ているフード付きのパーカーに目をやった。フードで頭をすっぽりと覆った朱音は、その内側に大きなサングラスをかけ、さらには口元をマスクで隠している。その顔にほとんど見える部分は無く、怪しい人物のステレオタイプのようである。
「まあね。やっぱりちょっと窮屈かな、仕方ないけど」
男の視線を察知し、文末に自己弁護を付け加える。朱音はフードの先端をつまむと、そのまま後ろへと回し髪を解放させた。中から現れた長い黒髪が、吹き付ける強い風に揺れる。
「寒っ! 私、中に入っとくね」
朱音が体を小さくしながら、車のドアに手をかける。
「ねえ、開けてよ」
男は黙ったままポケットに入れた右手を動かす。鍵の開く音と共にヘッドライトが二度点滅した。
「ありがと」
ドアを開いて車に乗り込もうとした朱音に、男が申し訳なさそうな声をかける。
「朱音。これ、もう一本吸い終わったら出発しよか」
朱音の動きが止まる。
「急にどうしたの? あなたはこの海のことが気に入ってると思ってたのに」
「確かに気に入ってるけどなあ」
口ごもった男を朱音が鋭い目つきで睨んだ。
「何があったのか話して」
「明日にはここに人が来るかも、それも朱音をテレビで見たことがあるであろう大人が」
「ちょっと、それどういうこと?」
開きっぱなしだった車のドアが勢いよく閉まる。乱暴にサングラスを外した朱音が男に詰め寄った。
「おい、近い。近いって」
急に近くまで来られた男は、煙を吐き出す方向を見失う。仕方なく大きく首を回すと、海の方に向かって一気に吐き出した。少年との事の顛末を説明する。
「すまん。最初はちょっと遊んでやるだけのつもりやってんけど。まさかあんなに懐かれるなんて思わんかった」
「遊んでもらってたの間違いじゃないの?」
朱音が鋭い目で男を睨む。男はその迫力に気圧されていたかと思うと、急にふっと笑った。
「なに笑ってるの?」
「いや、悪い。さすがと言うべきか、すごい迫力やと思って」
男の不用意な発言が、朱音の目つきを更に鋭くする。
「演技してるわけじゃない、本気で怒ってるから。あなた、ちゃんと約束を覚えてるの?」
「覚えてる覚えてる。すまんかったって」
短くなった煙草の火を靴の裏で消すと、男は車の運転席へと乗り込んだ。
「ちょっと。まだ話は終わってないでしょ」
朱音も渋々助手席に乗り込む。
「悪かったって。ああ、なんや。ここまで来たからってちょっと気が緩んでた。けどな」
男が車のキーを回すと苦しそうなエンジンが鳴った。その音に負けず劣らずの苦しそうな声で、男が言葉を続ける。
「やったら朱音、お前が買い物に出ることの方が危ないんちゃう? 食べ物くらい俺が買ってくるし」
「食べ物以外もあるのよ」
フロントガラスを見ながらシートベルトを締める朱音の顔には、再びサングラスとマスクが装着された。
「他に何がある? それも一緒に買ったるやん、ちょっと袋の中見せてみ」
男はそう言って、朱音が買ってきたビニール袋に手を伸ばす。だがこれは朱音の手によって遮られた。
「バカ、女の買い物! 気軽に手を突っ込むな!」
狭い車内で朱音が張り上げた声は、海まで届きそうな程に大きな声量で、男の脳を痺れさせた。
「あー。そうか、なるほど。別に俺は構わへんで、ついでに買っとく」
「私が嫌なのよ!」
朱音は捕まえていた男の手を大きく払った。男は払われた手をそのままハンドルに合わせ、車を発進させる。
「大変やな」
前方を見ながら男が小さく呟く。「ほんと、大変よ」朱音が言ったその言葉は、隣に座る男にすら届かない程に小さな声だった。
「ごめんね。あなたを巻き込んで」
男の運転する車は高速道路のゲートをくぐり、まっすぐに続く一本道を走っていた。馬力の無い軽自動車は、少し上り坂になると何台もの車に追い抜かれていく。
「なんや。らしくない」
アクセルを踏む右足に力を込めながら聞き返す男の声は、しおらしい態度を取る朱音に戸惑っているようだった。
「らしくない、かな? 私らしいってなんだろうね。実はあなたがいちばん私のことをわかっているのかも」
「ホームシックか?」
ちらりと歯を見せて尋ねる男に対して、朱音も軽く笑う。
「そんなんじゃないよ、ほんとに。単純に申し訳なく思ってるの」
「別に、俺はこれでも楽しんでるで。気ままな一人旅に付き合ってくれる人ができて、しかもそれが有名な女優さんときたら、文句を言うやつの方が少ないんちゃう? それに報酬付きやし」
付け加えるようにして発された言葉が、二人の関係を繋いでいる。緩やかな上り坂を越えた車は、息を吹き返したようにスピードを上げた。
「まあ、でもさすがに驚いたけどな。テレビで見たことある人がいきなり目の前に現れて、『どこかに連れてって』なんて言うもんやから、なんかのドッキリかと思ったわ」
「お願い! どこかに私を連れてって!」
太陽の光を反射させるほどに白いワンピースを纏い、頭には麦わら帽子。およそ今の季節にはふさわしくない恰好をした女性が、息を切らしながら男の前に姿を現した。
「なになに? 誰? 俺、どっかで会ったっけ?」
海を一望できるまっすぐに伸びた道。微妙に膨らんだ駐車スペースに車を停め、静かに煙をくゆらせていた男は、自分の目を疑うように数度瞬きをした。女性は首を横に振る。
「いえ、会ったことは無いと思います。けどもしかすると、テレビ越しに顔を合わせたことはあるかもしれません」
「テレビ越しに?」
聞きなれない響きに男は戸惑う。だがすぐにその言葉の意味を理解し、さらに戸惑った。
「嘘やん、見たことあったわ。テレビでも映画でも。鈴木桜花やんな?」
そう呼ばれた女性は、周囲の目を気にするようにしながら小さく頷いた。
「すみません、詳しくは後で話します。今はとにかく、私のこと逃がしてくれませんか?」
「逃げる? いったいどこへ?」
逃げるという言葉に男が過敏に反応する。手元の煙草はその大部分が灰になっていた。
「どこでも構いません! 乗ってもいいですか?」
「え、ああ」
その剣幕に押された男が車の鍵を開ける。女性は車に滑り込むと、その身を小さく屈めて後部座席に伏せた。
「なあ?」
「出してください!」
煙草の灰が地面に落ちるのと同時に、訳も分からないまま男は運転席に乗り込む。後部座席で身を伏せていた鈴木桜花が口を開いたのは、車が走り出してから数十分がたった頃だった。
「今、どの辺りですか?」
今では懐メロと言われる音楽が流れる車内。
畳んでいた体を起こした鈴木桜花が運転席の男に向かって話しかける。男は動揺が限界点を通り越したのか、とても自然な様子で返答する。
「んー、ぼちぼち愛知県突入やな。俺の好きなように進んでるけど、ほんまに大丈夫なんか? 鈴木桜花さん」
「朱音よ」
「ん?」
バックミラー越しに二人の目が合う。
「私の名前。朱音って呼んで」
「本名か?」
朱音は首を横に振る。
「私が最初にした役の名前。知ってる人なんてほとんどいないでしょうけど」
男は「確かに知らんなあ」と首を捻っている。「ガム食うか?」と朱音に対して後ろ手にプラスチックのケースを差し出した。
「いらない。それよりあなた、何も聞かないの?」
「逃げてるんやろ? それだけわかってたら充分やわ」
朱音に断られ、宙ぶらりんになったガムのケースを元の位置に戻す。流れている音楽に合わせて、男が鼻歌を歌っていた。
声変わりが訪れる前の少年の声。高いとは言い難いその声は、おそらく少年の二回り以上は年を重ねているであろう、目の前に立つ男に向けて発されていた。
「うるさい! 俺はおじさんじゃないで、お兄さんと呼べ」
「なんて言ったの? よく聞こえないよー!」
二人が張り上げた声をかき消すほどの白い波が、海の主とばかりに猛威を振るう冬の砂浜。防波堤に一台の軽自動車が停まっている他は人影ひとつない。
「もう帰れ! お母さんが心配するぞ!」
男が手で少年を追い払う仕草を見せる。それでも少年は食い下がった。
「まだ暗くないよ? もう少し遊んでよ!」
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「いいか、冬の太陽の速さを舐めるな。直にもう真っ暗になる。わかったら早く帰っとき。それとな」
続く言葉を伝えるべきかどうか、男は迷っているように見えた。あえて言わない方が良い結果に繋がることなど、この世には山ほどあると言わんばかりに。
「ここで俺と遊んだことは誰にも言ったらあかんで。いいか、誰にもやで」
少年は頷き、男に言葉を返す。
「明日もまた遊んでくれる?」
「ああ、遊んでやる。やから今日はもう帰れ」
言いながら男は耳の後ろを指で掻く。それは男が嘘をつくときに無意識で行う癖だった。
「わかった!」
さっきよりも激しく少年が頷くと、腕に抱えていたサッカーボールを地面に落とし、それを蹴りながら夕日の沈む方向へと走っていった。
「おじさん! また明日ねー」
去っていく少年の姿を男はじっと見送る。やがてその姿が見えなくなると、唯一停まっていた車へと砂浜を歩いていった。
「まったく、俺はおじさんじゃないって言ってんのに」
男は悪態をつきながら、着ていたダウンジャケットの内側から煙草の箱を取り出す。少しひしゃげたその箱から一本を抜き出すのに手間取っているようだった。
「ああ。くそっ」
指を器用に使いながら、なんとか一本の煙草を取り出す。それを口に咥えると、内ポケットから出してきたライターで火をつけた。
男が深く吸った息は、数秒後に白い煙となって吐き出される。何度もそれを繰り返しながら、男は沈んでいく夕日を眺めていた。
宙に揺蕩った煙に橙色の光が重なって、男の目に届く光は灰色に濁されている。男の視線は水平線の、そのまたさらに遠くまでを見つめているようだった。視線を遊ばせている男は、誰に話すでもなく口を開く。
「あいつ、誰かに話すかな。きっと話すよな。というか母親が何してたんか聞くか。『おじちゃんと遊んでた』って言うんやろうな」
「何を一人でぶつぶつ言ってるの?」
男の吐き出す煙を手で払いながら、小さなビニール袋を手に下げた女性が車の陰から男に声をかける。
「朱音、どこ行ってたんや」
「ちょっと買い物にね。大丈夫、私だって気づいている人はいなかったよ」
鈴が鳴る時のような声を巧みに操り、朱音と呼ばれた女性が話す。
「まあ、さすがにそれやったら気づかれへんか。怪しすぎて通報されるかも知れへんけど」
男は朱音が着ているフード付きのパーカーに目をやった。フードで頭をすっぽりと覆った朱音は、その内側に大きなサングラスをかけ、さらには口元をマスクで隠している。その顔にほとんど見える部分は無く、怪しい人物のステレオタイプのようである。
「まあね。やっぱりちょっと窮屈かな、仕方ないけど」
男の視線を察知し、文末に自己弁護を付け加える。朱音はフードの先端をつまむと、そのまま後ろへと回し髪を解放させた。中から現れた長い黒髪が、吹き付ける強い風に揺れる。
「寒っ! 私、中に入っとくね」
朱音が体を小さくしながら、車のドアに手をかける。
「ねえ、開けてよ」
男は黙ったままポケットに入れた右手を動かす。鍵の開く音と共にヘッドライトが二度点滅した。
「ありがと」
ドアを開いて車に乗り込もうとした朱音に、男が申し訳なさそうな声をかける。
「朱音。これ、もう一本吸い終わったら出発しよか」
朱音の動きが止まる。
「急にどうしたの? あなたはこの海のことが気に入ってると思ってたのに」
「確かに気に入ってるけどなあ」
口ごもった男を朱音が鋭い目つきで睨んだ。
「何があったのか話して」
「明日にはここに人が来るかも、それも朱音をテレビで見たことがあるであろう大人が」
「ちょっと、それどういうこと?」
開きっぱなしだった車のドアが勢いよく閉まる。乱暴にサングラスを外した朱音が男に詰め寄った。
「おい、近い。近いって」
急に近くまで来られた男は、煙を吐き出す方向を見失う。仕方なく大きく首を回すと、海の方に向かって一気に吐き出した。少年との事の顛末を説明する。
「すまん。最初はちょっと遊んでやるだけのつもりやってんけど。まさかあんなに懐かれるなんて思わんかった」
「遊んでもらってたの間違いじゃないの?」
朱音が鋭い目で男を睨む。男はその迫力に気圧されていたかと思うと、急にふっと笑った。
「なに笑ってるの?」
「いや、悪い。さすがと言うべきか、すごい迫力やと思って」
男の不用意な発言が、朱音の目つきを更に鋭くする。
「演技してるわけじゃない、本気で怒ってるから。あなた、ちゃんと約束を覚えてるの?」
「覚えてる覚えてる。すまんかったって」
短くなった煙草の火を靴の裏で消すと、男は車の運転席へと乗り込んだ。
「ちょっと。まだ話は終わってないでしょ」
朱音も渋々助手席に乗り込む。
「悪かったって。ああ、なんや。ここまで来たからってちょっと気が緩んでた。けどな」
男が車のキーを回すと苦しそうなエンジンが鳴った。その音に負けず劣らずの苦しそうな声で、男が言葉を続ける。
「やったら朱音、お前が買い物に出ることの方が危ないんちゃう? 食べ物くらい俺が買ってくるし」
「食べ物以外もあるのよ」
フロントガラスを見ながらシートベルトを締める朱音の顔には、再びサングラスとマスクが装着された。
「他に何がある? それも一緒に買ったるやん、ちょっと袋の中見せてみ」
男はそう言って、朱音が買ってきたビニール袋に手を伸ばす。だがこれは朱音の手によって遮られた。
「バカ、女の買い物! 気軽に手を突っ込むな!」
狭い車内で朱音が張り上げた声は、海まで届きそうな程に大きな声量で、男の脳を痺れさせた。
「あー。そうか、なるほど。別に俺は構わへんで、ついでに買っとく」
「私が嫌なのよ!」
朱音は捕まえていた男の手を大きく払った。男は払われた手をそのままハンドルに合わせ、車を発進させる。
「大変やな」
前方を見ながら男が小さく呟く。「ほんと、大変よ」朱音が言ったその言葉は、隣に座る男にすら届かない程に小さな声だった。
「ごめんね。あなたを巻き込んで」
男の運転する車は高速道路のゲートをくぐり、まっすぐに続く一本道を走っていた。馬力の無い軽自動車は、少し上り坂になると何台もの車に追い抜かれていく。
「なんや。らしくない」
アクセルを踏む右足に力を込めながら聞き返す男の声は、しおらしい態度を取る朱音に戸惑っているようだった。
「らしくない、かな? 私らしいってなんだろうね。実はあなたがいちばん私のことをわかっているのかも」
「ホームシックか?」
ちらりと歯を見せて尋ねる男に対して、朱音も軽く笑う。
「そんなんじゃないよ、ほんとに。単純に申し訳なく思ってるの」
「別に、俺はこれでも楽しんでるで。気ままな一人旅に付き合ってくれる人ができて、しかもそれが有名な女優さんときたら、文句を言うやつの方が少ないんちゃう? それに報酬付きやし」
付け加えるようにして発された言葉が、二人の関係を繋いでいる。緩やかな上り坂を越えた車は、息を吹き返したようにスピードを上げた。
「まあ、でもさすがに驚いたけどな。テレビで見たことある人がいきなり目の前に現れて、『どこかに連れてって』なんて言うもんやから、なんかのドッキリかと思ったわ」
「お願い! どこかに私を連れてって!」
太陽の光を反射させるほどに白いワンピースを纏い、頭には麦わら帽子。およそ今の季節にはふさわしくない恰好をした女性が、息を切らしながら男の前に姿を現した。
「なになに? 誰? 俺、どっかで会ったっけ?」
海を一望できるまっすぐに伸びた道。微妙に膨らんだ駐車スペースに車を停め、静かに煙をくゆらせていた男は、自分の目を疑うように数度瞬きをした。女性は首を横に振る。
「いえ、会ったことは無いと思います。けどもしかすると、テレビ越しに顔を合わせたことはあるかもしれません」
「テレビ越しに?」
聞きなれない響きに男は戸惑う。だがすぐにその言葉の意味を理解し、さらに戸惑った。
「嘘やん、見たことあったわ。テレビでも映画でも。鈴木桜花やんな?」
そう呼ばれた女性は、周囲の目を気にするようにしながら小さく頷いた。
「すみません、詳しくは後で話します。今はとにかく、私のこと逃がしてくれませんか?」
「逃げる? いったいどこへ?」
逃げるという言葉に男が過敏に反応する。手元の煙草はその大部分が灰になっていた。
「どこでも構いません! 乗ってもいいですか?」
「え、ああ」
その剣幕に押された男が車の鍵を開ける。女性は車に滑り込むと、その身を小さく屈めて後部座席に伏せた。
「なあ?」
「出してください!」
煙草の灰が地面に落ちるのと同時に、訳も分からないまま男は運転席に乗り込む。後部座席で身を伏せていた鈴木桜花が口を開いたのは、車が走り出してから数十分がたった頃だった。
「今、どの辺りですか?」
今では懐メロと言われる音楽が流れる車内。
畳んでいた体を起こした鈴木桜花が運転席の男に向かって話しかける。男は動揺が限界点を通り越したのか、とても自然な様子で返答する。
「んー、ぼちぼち愛知県突入やな。俺の好きなように進んでるけど、ほんまに大丈夫なんか? 鈴木桜花さん」
「朱音よ」
「ん?」
バックミラー越しに二人の目が合う。
「私の名前。朱音って呼んで」
「本名か?」
朱音は首を横に振る。
「私が最初にした役の名前。知ってる人なんてほとんどいないでしょうけど」
男は「確かに知らんなあ」と首を捻っている。「ガム食うか?」と朱音に対して後ろ手にプラスチックのケースを差し出した。
「いらない。それよりあなた、何も聞かないの?」
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