ネガイボシ

せいな

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栄治は電話の音で目を覚ました。重たい頭を起こして、枕元の時計に目をやる。液晶は4時を過ぎたところだったが、カーテンの向こうの明るさでら、それが朝なのか夕方なのかよくわからなかった。
携帯電話を取り上げ耳に当てる。
「もしもし、栄治君?」
落ち着いた話し方ですぐわかった。
「マスター、何?」
「いや、元気かなと思って」
「そりゃまあ普通にね。元気だけど?」
マスターからわざわざ電話がかかってくるのは珍しい。いつもは栄治が毎日、少なくとも隔日でバーに通っているから、電話なんかしなくてもその時に必要な会話をしていた。
「元気なら良いんだけどね。ほら、栄治君しばらく来なかっただろう。亜希ちゃんを呼んだこと、そんなに怒ってるのかなって」
「別に。そんなのしょっちゅうあることだろ」
何度呼ぶなと言ったって、マスターはいつでも亜希を呼ぶのだ。その時は確かに腹が立っても、後から考えるとそうでもしなければ収まりがつかなかったようなことが多い。だから仕方がないと思うのだ。
「それより、そんなに行ってなかったか?」
「そうだね、もう一週間になるかな」
壁にかけられたカレンダーに目をやる。今日は何日だろう。最後にバーに行った日から一週間も経つそうだが、そもそも前回行った日はいつだっただろう。
ピアニストという仕事ができなくなって、それからはそれまでの貯金でただ生きている。金はあるから仕事をする必要はないし、仕事をしないからこういう日付にはどんどん疎くなっていった。もしかしたらカレンダーの月でさえ間違っているかもしれない。
栄治はカーテンを開けた。陽は窓の向こう側に向こう側にあり、やっと今が夕方なのだとわかった。
「栄治君が来ないと、亜希ちゃんとも会えないんだよ」
「また亜希か…」
「亜希ちゃんは常連さんのマドンナだからね」
マスターは愉快そうに笑って「それにしても」と続けた。
「一週間もどうしていたんだい」
「どうもこうも。家にいたけど」
そんなに長いことだったとは知らなかったが、とにかくずっと考えていた。どうでもいいことなのに頭から離れない。魔女のこと。
叶うはずはない。現に栄治の左腕は少しも動かないままだし、そんな日科学的なものを信じる方がどうかしている。だけど、どうしてあんなことを言ってしまったのだろう。自分の腕と引き換えに亜希の左手を差し出すなんて。例え怒りで頭に血が上っていたとはいえ、その言葉は口にしてはいけないのだ。
「色々考えることがあるんだよ」
「栄治君が?へえ」
マスターは半分笑って相槌を打つ。
「馬鹿にしてるだろ。マスターだって、急に対価と引き換えになんでも叶えてやるなんて言われてみろよ」
きっと、願った後は色々考えてしまうだろ。そう付け足そうとしたが、マスターの声の方が先だった。
「美味しいミックスジュース。店にあるフルーツ全種絞って、ハチミツとミルクで割ったんだ。それと引き換えに雨を止ませてもらったよ」
「は?」
「あれ、違う話だったかな。魔女のことじゃないの?ほら、この間栄治君に"ネガイボシ"をリクエストしてた子」
「そう、だけど。何、ジュースと引き換えに雨を止ませてもらったって」
栄治は鼻で笑った。その願いも、引き換えたものも、こう言ってはなんだが子ども騙しだ。
それにしたって、魔女ごっこを少女は相当気に入っているらしい。栄治だけではなくマスターにまでやるとは。
「二、三日前だったかな。土砂降りの日があったじゃないか。その日にね、雨止まないかなって話をしていて、そしたら願いを叶えてくれるって言うから。店を閉めて外に出た時には完全に雨はあがって、むしろ星が見えていたくらいだよ」
「そりゃ雲の流れが丁度良かったんだろ」
「そう思うかい?」
「そうとしか思えないね」
雨は降ってもいつかは止む。それがたまたま閉店時間の前だったというだけだ。それに大抵大雨の後は驚くほど晴れる。
「ところが、魔女の話だけどね。もしかしたら本当かもしれないよ」
「…大丈夫か、マスター。疲れてるんじゃないか」
「そうだね、信じろって方が無理だと思うよ。だから皆、こういう小さな願い事ばかりしちゃうんだよね」
「皆?」
「そう。常連さんは片っ端から。馬券当たりますように、とか。明日のA定食はサバの味噌煮でありますように、とか。あとは何があったかな。仕事のプレゼンの成功、告白の成功、奥さんとの和解なんていうのも。まだまだあったと思うけど…そのどれもが叶うんだよ」
マスターの話し方は穏やかだったが、熱がこもっているのがわかった。まるで魔女のことなど少しも疑っていないかのように。
冗談だろ。栄治は口の端で笑うつもりだったが、口元はまったく上がらない。
いつの間にか携帯電話を持つ手に力が入っていた。
魔女なんていない。だってあれはただの少女だ。
願い事なんて叶うはずがない。だって、魔女なんてこの世に存在しないのだ。
だけど。
「それで、そう聞いたってことは、栄治君も何か願ったんだろう?何を…」
自分の左腕が動くようにと、亜希の左手を。
力を込めた指先が通話を切っていた。一切の音が聞こえなくなった携帯電話をベッドに放ると、そのままマンションを飛び出した。
今日が休みでなければ、亜希はまだ働いている時間だ。亜希の働く花屋まで、走れば10分もかからない。全速力で走る。
ただ亜希の無事を確かめたかった。左手が動くことをこの目で確認して、安心したかった。
シャツの胸元を掴む。
久しぶりに走ったせいか、動悸が激しくなっていた。
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