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39.緊急事態
しおりを挟む「お前はベータのくせにオメガに突っ込もうなんて、悪趣味だな」
「へへへ、そういうのが楽しいんじゃねえか」
下卑た言葉を交わす二人の姿のおぞましさに、フロレルは鳥肌を立てた。
「早く済ませろよ」
「まかせとけ。もう勃ってるぜ」
茶色の髪の男の呆れたような言葉ににやにやとした笑いを浮かべて答えた灰色の髪の男は、フロレルの襟もとに両手をかけて引っ張った。
「何をするか! 放せ!」
「ははっ! 抵抗する声も上品でいいねえ。すぐに下品に泣き叫ばせてやるから、楽しみにしてな」
灰色の髪の男が下卑た笑い声を上げながら、身を捩るフロレルのシャツを左右に引っ張った。ショコラ公爵家の家紋が彫られている白蝶貝でできたボタンが弾け飛ぶ。
フロレルは、自分に覆いかぶさって来ようとする男の気持ち悪さに、吐き気を憶えた。
しかし、このような時には、嫌悪感を募らせるばかりではいけないことを、フロレルは知っている。自分に暴力を振るおうとしている男の両手がふさがったのを見たフロレルは、左足でその男の股間を力いっぱい蹴り上げた。
「気持ち悪い! その無礼な手を放せ!」
「ぐああああああ!」
灰色の髪の男は、儚げに見えるフロレルが何もできないと考えて油断していたのだろう。フロレルの膝は、狙った男の股間を違わずに蹴り上げた。
灰色の髪の男は、その痛みに叫び声を上げ、股間を押えてのたうち回わる。フロレルはその隙に扉の方へ転がるように移動しようとした。
「くそっ! この野郎っ!」
茶色の髪の男が、怒りに顔を赤く染めてフロレルに駆け寄り、右手を振り上げた。
「ごふっ!」
人間を投打する鈍い音と、床にものが叩きつけられる音とが部屋に響き、床には血が飛び散った。
◇◇◇◇◇
フロレルを見送って執務に戻ったアントワーヌは、胸騒ぎから解放されずにいた。ショコラ公爵邸から大学院までは同じ王都内で、遠いわけではない。フロレルはすぐに帰って来るだろうと気持ちを切り替えて執務に集中しようとした。そして、フロレルが帰って来れば、チョコレートとコーヒーを共に楽しみながらオランジュ教授の研究室での話を聞こうと思っていた。
しかし、その予定は変更されることになる。
廊下を走る足音がし、ノックもそこそこに執務室の扉が開かれる。
「アントワーヌ様、至急にお知らせしたいことが!」
「何だ。ロジェ。騒々しいぞ」
アントワーヌの執務室に息を切らしながら駆けこんで来たロジェは、叫ぶように声を上げた。
「監視対象と接触していた破落戸が、大学院に入り込んだとの知らせが……!」
「何だと!」
アントワーヌは、フロレルを害する可能性のある人物に監視をつけていた。監視対象は相応の身分であるため、確認に時間がかかるのはわかっている。しかし、フロレルが大学院を訪問してから情報が回って来るのでは遅すぎる。
アントワーヌは執務室から飛び出ると、厩舎に向かった。情報の遅れについてアントワーヌから叱責を受けながら、ロジェと護衛もその後へ続く。
馬車よりも騎馬の方が目的地には早く到着することができる。アントワーヌは自分の馬に急いで鞍を装着させ、それに跨り飛び出した。
大学院にいるフロレルの元へと。
「フロレル、フロレル……、無事であってくれ……!
アントワーヌは祈るようにつぶやきながら、手綱を操り大学院への道を急いだ。
「あっ! 待ってください」
「緊急事態だっ!」
「ショコラ公爵家の者でございます!」
アントワーヌが大学院の研究棟の受付を走り抜けた後で、護衛の一人がショコラ公爵家の紋章を見せる。自分が強引に建物に入ったにもかかわらず、このような警備では、不審者は入り放題だと思ったアントワーヌは舌打ちをした。
廊下を駆けて、アントワーヌはオランジュ教授の研究室へ向かう。
オランジュ教授の研究室の扉には鍵がかかっていた。しかし、中から物音がする。
「かまわぬ! ぶち破れ!」
アントワーヌは追いついてきた護衛に命じて扉を壊すと、部屋に侵入した。
護衛の後に続いて研究室に入ったアントワーヌの目に入ったのは、床に蹲るフロレルの姿だ。
「フロレル! フロレル無事か!」
「……アントワーヌ? 来てくれたのか……」
フロレルに駆け寄ったアントワーヌは、その襟元が乱れている様子を見て頭に血が昇りそうになる。
「アンヌ。わたくしは大丈夫だよ……」
「フロル! ああフロル……フロル」
アントワーヌを宥めるように頬を撫でるフロレルは、襟元が破られている以外は無事なように見える。アントワーヌは、フロレルをその腕に抱きしめた。そして、周囲を見渡すと、護衛が破落戸らしき血塗れの男二人を縛り上げているところだった。
「何があった……。報告せよ」
衣服の乱れたフロレルを抱きしめたまま、アントワーヌは厳しい顔を護衛に向ける。
「アンヌ、護衛はまだ緊急対応中だ。事件は終わっていない。護衛の報告を聞く前に、オランジュ教授とロランの縄を解いてくれないか」
「ロジェ!」
「はいっ!」
アントワーヌの声に反応したロジェは、フロレルの言う通りにオランジュ教授と気を失っているロランの拘束を解いた。
「ではアンヌ、まずわたくしから何があったのかを話そう」
フロレルは、アントワーヌに支えられて立ち上がりながらそう言った。
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