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38.破落戸
しおりを挟むフロレルは、オランジュが教授として教鞭を取っている大学院の研究室の扉をノックした。しかし、それを数度繰り返したものの返答がない。
「席を外していらっしゃるのだろうか……」
フロレルが同行した侍従に確認させたところ、オランジュと面会の約束をした日時は間違っていない。
オランジュに連絡をよこすことができないぐらいの緊急事態が起きたのかもしれないと思ったフロレルは、一旦引き上げる用かと考えた。その時だった。
ごとん……
「……部屋の中から、何か物音がしなかったか?」
「はい、確かに何か倒れたような音が聞こえました」
「もしかしたら、オランジュ教授が研究室内で急病などで倒れておられるのかもしれません」
「その可能性もあるな」
フロレルは侍従と護衛と顔を見合わせて頷きあい、再びオランジュ教授の研究室の扉を叩いた。そのままノブに手をかけると鍵が開いている。
「オランジュ教授、失礼いたします」
フロレルがオランジュ教授の名を呼び、侍従が扉を開く。部屋の中はカーテンが閉められているようで、薄暗くなっていた。フロレルが明るさの違いに目を慣らすようにして中の様子を見定めようとしたとき、何者かによって侍従が部屋に引きずり込まれた。
「あ……! ロラン!」
「フロレル様、こちらへ!」
侍従の名を呼ぶフロレルを護衛がすぐに守る態勢に入る。ドアの向こうには、侍従を拘束した大柄の男が顔を歪めているのが見える。
「ちいっ! 公爵令息様じゃなかったのかよ!」
大学院の清掃員のお仕着せを着た茶色の髪のその男は、侍従を後ろ手に拘束し、首元にナイフを突きつけていた。フロレルは護衛に庇われながらも、男を睨みつける。
「ロランを放せ!」
「ああ? こいつを放して欲しかったらお前がこっちへ来いよ」
「フロレル様、わたしのことは構わずに!」
「フロレル様、俺から離れないでください!」
フロレルも護衛も侍従を人質に取られているため、迂闊な行動はできない。もっとも、侍従を犠牲にしても、護衛はフロレルを守り切ることしか考えていないだろう。そして、そもそもこの不審な男の仲間がどれだけいるのかわからない以上、護衛はフロレルから離れて侍従を助けに行くことは難しいのだ。
大学院内には警備員が配置されているものの、それほど多くの人数がいるわけではない。王立学院の方が警備体制は厚いといえる。
とはいえ、ここで大きな声を出していれば警備員や研究員などの誰かに気づいてもらえるかもしれない。大声を出し、時間を稼ぎ、様子を探ろう。
フロレルはそう考えて声を上げ、侍従も護衛もそれに倣った。
「そうかあ、侍従と交代はできないかあ。じゃあ、この年寄りとだったらどうかなあ?」
侍従を拘束している男の後ろの暗がりから、別の男が現れた。その男は、荒縄で縛られた高齢の男性を連れている。憔悴しきったその顔は……
「オランジュ教授!」
「ショコラ公爵令息……」
オランジュを連れてきた男は、茶色の髪の男と同じように清掃員のお仕着せを着ている。二人とも清掃員に紛れ込んで大学院に侵入したのだろうと予測できた。灰色の髪のその男は、濁った灰色の目を楽し気に細めている。そして、よろよろとした足取りのオランジュを数回揺さぶってから、その首にナイフを当てて笑い声を上げた。
「へっへっへ。さあ、この爺に大怪我をさせたくなかったら、この部屋へ入って来い」
「ショコラ公爵令息、わしのことにはかまわずに警察を呼びに行くのだ」
「爺はうるせえなあ」
「うっ……」
灰色の髪の男の脅しの言葉に逆らうようにオランジュが声を上げた。それを聞いた灰色の髪の男は、めんどくさそうな顔をしながらも、オランジュをナイフの柄で殴りつけた。オランジュのこめかみから一筋の血がしたたり落ちる。
「オランジュ教授に何をするか! 教授を放せ!」
「ふふっ、だから言ってんだろう。公爵令息様がこっちへ来てくれたら放してやるってよう。さあ、部屋へ入って来な」
オランジュへ向けられた暴力に抗議するフロレルを、灰色の髪の男は嘲笑するように声を上げる。
「……わかった」
「ショコラ公爵令息!」
「フロレル様!」
フロレルは諦めたように頷くのを見て、オランジュと侍従から悲痛な叫び声が上がる。
「へっへえ、納得してもらえて良かったぜ。じゃあ、その護衛っぽい奴も大人しくするんだぜ、先に縛らせてもらうからな。ここで解放して警察を呼ばれちゃあ困るからな。ちょっとだけ我慢してもらうぜ」
「フロレル様!」
「オランジュ教授を傷つけてはならない。ここは大人しくするのだ」
フロレルは、悔しがる護衛に静かにするように命じた。部屋に入って来るフロレルと護衛の様子を見て、灰色の髪の男はうれしそうに笑う。茶色の髪の男は、侍従の腹を殴って動けなくしてから護衛を後ろ手に縛る。
「お前、役に立ってねえな」
「くっ」
茶色の髪の男の言葉に、護衛は恥辱のあまり顔を赤くしてうめく。
そして茶色の髪の男は、フロレルの両手にも縄をかけた。
続いて侍従を縛った茶色の髪の男は、オランジュと護衛に猿轡をかけると三人を部屋の奥へ押し込んだ。
「一体何が目的なのだ?」
「いやあ、ちょっと頼まれちまってなあ。あんたにちょっと大怪我をさせてくれってよう。大丈夫さ。命までは取らねえよ。おっと、生きてんのが辛くなるぐらいの怪我になるかなあ。それだったら、死んだ方がましと思うかもしんねえけどなあ」
「誰からの依頼だ。ショコラ公爵家に逆らって、お前たちが無事でいられるとでも思っているのか」
フロレルの問いにするすると答える灰色の髪の男は、ただの破落戸にしか見えない。その口調からは、高位貴族相手の荒事がどのようなことを招くのかをわかっていないように思える。現に顔を隠さずにこのような荒事をして、命は取らないなどと甘いことを言っている。口が軽すぎるのか、それとももっと深い意味があるのか。フロレルは違和感を覚えながら、落ち着いて状況判断をしようとした。
「大丈夫なのさ。俺たちはこのあとちゃあんと高飛びできることになってるんだから」
「高飛び……?」
「さあ、お話はここまでだ。あんたに恨みはないけどちょっとやらせてもらうぜ」
灰色の髪の男はそう言うと、フロレルを突き飛ばした。
あっけなく床に倒れこんだフロレルは、灰色の髪の男と茶色の髪の男が自分にナイフを向けてにたりと笑うのを見上げて睨みつけた。
「へへ、良い顔だねえ。うん、こんなに綺麗なオメガの令息様なら、怪我をさせる前にちょっと楽しませてもらってもいいかもしんねえなあ」
灰色の髪の男はにたりと笑うと、フロレルの襟に手を伸ばした。
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