雪のしずく

藤野 朔夜

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雪のしずく

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  イルニル山脈の麓の町は雪深く、冬になると周囲の町や村から孤立してしまう。
  冬支度はしっかりと行われていき、今はもうすでに雪に埋もれた町となってしまっていた。
  家の男手たちは屋根に積もった雪降ろしが毎日の日課だ。また、力ある青年たちは青年団を結成し、毎日道に積もる雪を道脇に寄せる仕事も行っている。
  トネルは17歳になる青年だ。けれど、一度も雪降ろしや青年団に加わったことはなかった。父や兄は毎日雪降ろしをするし、兄は青年団の一員になっている。母は冬になる前に貯めておいた薪を取りに外に出る。
  けれど、トネルは冬になると一度も外に出たことがないのだ。
  生まれつき身体が弱く、極寒の外に出ようものならすぐに風邪をひいてしまうし、悪くすると肺炎になってしまう恐れがあるからだ。
  トネルの日課は毎日数分だけ、窓から雪に埋もれた庭を見ることだった。
「トネル、もう居間に入りなさい」
  母に言われ、トネルは庭に積もる雪を見るのをあきらめ、温かい居間へと入って行く。
  木の枝を折ってしまうのではないかと積もった雪も、庭の土色を忘れてしまうくらいに積もった雪も、トネルには不思議なものだった。父や兄が雪仕事から戻り、服に付いた雪を触った事がある。ひんやりと冷たいそれは、すぐに溶けて水へと姿を変えてしまったのだ。
「どうして雪はあんなにたくさん積もってしまうのですか?」
  トネルは疑問を兄へとぶつけてみた。
  兄の服に付いていた雪は暖炉の暖かさで瞬く間に水へと変わり、乾いていく。
  こんなにすぐに水になり、乾いてしまうのならば、何故雪は積もるのか、何故町は閉ざされてしまうのか……。
「トネル、雪はとても冷たいだろう?」
  兄は答える。
「それと同様に外の気温はとても寒い」
  ゆっくりと話してくれる兄に顔を向け、暖炉の炎にあたりながらトネルは頷き、しっかりと聞く。
「暖炉のように、暖めてくれる物は外にはないんだ。冷たい雪は冷たい気温の中で降り続け、そして積もっていく」
  わかるかい?と兄は優しい笑顔をトネルに向けた。トネルは一度こくり、と頷いた。
「だから、僕は外に出られないのですね」
  少しだけ残念そうに呟くトネルに、兄は、
「そうだね。外はとても寒いんだ。トネルはすぐに風邪をひいてしまうだろうね。トネルも風邪をひいて辛いのは嫌だろう?」
  はい。と小さく頷いて、トネルは次の疑問を兄に聞く。
「では、雪はとても重いのですか?兄さんの服に付いた少しの雪はとっても軽いけど、積もった雪は枝を折ってしまいそうです」
  庭を見るのが日課のトネルは常々枝が折れてしまわないか、とハラハラしていた。
「そうだね。積もった雪はとても重くなってしまうよ。屋根から降ろすのも、道を開くのもとても重労働だ。だからこそ、この町が閉ざされてしまうのだよ」
  なるほど、とトネルは頷いた。
「一度で良いから雪に埋もれてみたい、と思ったりしてましたけど……、雪が重いなら、埋もれたら死んでしまいそうですね」
「雪山には雪崩という現象があってね、まぁ、雪が崩れて大量に滑り落ちてくるんだけど、巻き込まれて埋まってしまった人はまず助からないよ」
  兄はトネルの少し危ない考えを改めるように言う。
「私たちも雪降ろしをする際は下に人がいないことをしっかり確認して行うんだ」
  トネルは顔色をかえる。
「雪ってとても怖いんですね……」
  外に出られないトネルはまったく知らないことだらけだった。
  雪に触れるのは、父や兄が帰ってきた時に付いている少しの冷たい感触を楽しもう、と心に決めたのだった。


「おはよう、トネル。最近は冬でも風邪をひかなくて、良い傾向だわ。もう少し丈夫になれたら少しくらい冬に外に出られるようになるかもしれないわね」
  冬の柔らかな朝日をまとう廊下で、朝の準備を終えた母と出会った。きっとトネルを起こそうと歩いてきたのだろう。
「おはようございます、母さん。たしかに今年は一度も風邪をひいてないですね。母さんを大変にさせたくないので、このまま風邪をひかないで冬を乗り越えたいです」
  トネルが風邪をひいてしまうと、母は家の家事に加えて看病という仕事もついてきてしまう。風邪をひいて辛いけれど、母を忙しくさせてしまうのは、トネルにとっては申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまうのだ。
「あらあら、とても頼もしいわね」
  ふふ、と笑う母はとても穏やかである。
「そうそう、トネル。居間へ行くととても嬉しいことが待っているわよ」
  二人で居間へと向かいながら、母はとても楽しそうなのだ。トネルは小首を傾げる。この時間、雪が降ってないので父や兄は雪降ろしをしているだろう。何よりも『嬉しいこと』というのがわからない。
「居間へ行ってのお楽しみよ」
  と母は疑問には答えてはくれなさそうだ。とはいえ、そんなに大きな家ではないから、居間にはもう着くのだけれど。


「やぁ、トネル。大きくなったね」
  居間に入ると、しばらくぶりの兄の友人、ネイリルー(通称ネルー)がいた。
「ネルーさん!お久しぶりです。でもどうして?」
  トネルは最上級の笑顔でもって、兄の友人の魔法使いを歓迎し、何故にここにいるのか、と問う。
「トネルにお届け物を、ね」
  にっこり笑う魔法使いは、とても楽しそうに居間の一角を指差した。
  そこには、白いふわふわなものが固まっていた。
  この暖かい居間の中にそぐわない白いそれは、トネルがいつも窓から見ている雪にとても酷似していた。
  しかし、ここは暖炉で暖まった居間だ。雪が積もっているにしても、溶けずに有り続けられるものではないとトネルは知っている。
「ネルーさん、あれって……」
「雪に似せただけのものだよ。溶けないし、冷たくもない。そして重量もないんだ。だから暖かい居間でも溶けない。けれど、固まることもない」
  魔法使いは白い物の説明をしていく。
「触り心地はさらさらの雪だけどね。本物の雪遊びはできないからトネルには物足りないかもしれないけれどね」
  少しの苦笑いとともに告げられた言葉にトネルは「すごい!」とつぶやき、白い物へと向けていた視線を魔法使いへと向ける。
「ネルーさん、ありがとうございます。もしかして、兄さんが?」
  昨日兄と雪について話しをしたことを思い出したトネル。魔法使いは柔らかく笑い、ゆっくり頷いた。
  魔法使いたちは、青年団へと入団するよりも、雪についての研究団体を作り、少しでも楽に冬が過ごせないかと考えている。それにより、雪に多く接する彼は雪に似せた物を魔法によって造りだせたのであろう。本物とは全く違うかもしれないが、雪に触れられるのは父や兄にくっついてきた少しの雪だけなトネルには一向に構わなかった。
「ネルーさん!触っても良いですか?」
  瞳をキラキラと輝かせたトネルは魔法使いへと問う。
「構わないよ。あれはもうトネル、君の物だからね」
  優しい魔法使いの言葉に、より一層輝いたトネルは白い物のそばへと走り寄る。
「すごい!さらさらだ!」
  嬉しそうにはしゃぐトネルを見、母と魔法使いは顔を見合わせて微笑みあった。


「ネルー、突然頼んで悪かったね」
  雪降ろしを終わらせた兄は長年の友人へと言う。
「トネルも喜んでいるな、ネルーありがとう」
  父もまた年若い魔法使いへと感謝を述べる。
  冬の間、外へ出られず不自由にさせてしまう息子が、楽しそうにはしゃいでいる姿は父にとってとても嬉しい事であった。
「父さん、兄さん、お帰りなさい。お疲れ様です」
  白い物のさらさらな感触を楽しんていたトネルは父と兄の声に反応し、彼らのそばへと駆け寄る。
「うわぁ、やっぱり冷たいや」
  父の服に付いた雪に触れ、トネルは呟く。
  トネルの暖かな指で掬われた雪は溶け、しずくとなって床へと落ちていった。


【end】
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