トップアスリートはセフレを可愛がりたくてたまらない

鶴れり

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コーヒーとクッキー(2)



 この日、定時に仕事を終わらせた愛は、自宅とは反対方向へ向かう電車に乗っていた。
 都心から少し離れた郊外で暮らす母から「相談したいことがある」と呼び出されたのだ。

 絶対にまた男だ……。

 愛はホームドアに反射する自分の疲れた顔を見て、重たい溜め息をついた。

 母、雪原唯子は小学二年生のときに愛の父親と離婚してから、三度の再婚と離婚を経験して、現在五十七歳独身だ。
 五十五歳で長年勤めた大手食品メーカーを早期退職し、郊外の下町でコーヒーと焼き菓子を提供する小さな店を営んでいる。

 そんな恋多き母に、耳にタコができるほど言われた言葉──"三六五日、恋をしなさい"。
 愛はこの母の教えを、反面教師にして生きてきた。

 いやいや、四度も結婚を失敗してる人が言う言葉なんて、説得力なさすぎるでしょう……。

 愛は恋愛に苦しめられる母の背中を見て育ってきた。
 離婚理由はそれぞれ違った。性格の不一致、多額の借金の発覚、不倫、ギャンブル依存──離婚という選択肢を選ぶ度に、母は悲しみに明け暮れ、夜な夜な涙していたことを愛はこっそり知っている。

『お母さん、どうしてあんな人と結婚したの?』
『一緒にいたときは楽しくて幸せで、あの人が大好きだったからよ』

 母はどんなに最低な男であっても、決して悪いようには言わなかった。「時間が経つと、変わってしまうこともあるのよ」と、粛々と現実を受け止めていた。
 母の男性を見る目がないということではなく、男女の恋愛関係は時間と共に必ず風化して劣化するものだと、愛はそう思っている。

 結婚なんて、恋愛なんていいものじゃない。
 砂で作った泥団子よりも、脆くて儚い。いくら頑張って崩れないように頑丈に作っても、いつか必ずほころびて、最終的には風に散らされる。
 そんなものに労力と気力をかけられる母の気がしれない。

 愛は十代の頃から結婚に対して希望を抱けなくなっていた。頑なに結婚したくないのも、母のように恋情に振り回されて生きたくないからだ。いつか壊れてしまう関係を、頑張って築いたところで意味がない。
 そうして愛の独身主義が強固になっていったのである。

 駅から徒歩三分のところにある、カウンター席が五席しかない小さなお店。
 ガラス張りの扉を開けると、来客を知らせる鐘がチリンと鳴る。ふわりとコーヒーの芳しい香りが鼻腔をくすぐる。

「愛! いらっしゃい。お仕事お疲れさま。コーヒー飲むよね?」
「うん、ありがとう」
「あぁ、もうこんな時間。クローズの看板、掛けておいてくれる?」
「わかった」

 店内には誰もいない。時刻はすでに十八時の閉店時間を過ぎている。
 真ん中のカウンター席に座って、コーヒーを淹れる母の姿を見つめていた。

 五十七歳とは思えない艶やかな黒髪は胸にかかる長さで、目尻が下がった垂れ目は母性と温厚さを感じる優しい眼。
 愛は母とは全く似ていない。顔は父親似なのだ。少しでも母の垂れ目が遺伝していたら、このキツイ顔も中和されただろうに……と残念に思う。

「それで? 相談って……どうせ新しい恋人でもできたんでしょう?」
「ふふっ、大正解~!」
「そんなことだろうと思った。で? 今度の人はどんな人なの?」

 愛の予感は見事に的中した。
 母は嬉しそうに表情をほころばせて、愛の前にコーヒーカップとジャムクッキーを置いた。

「隆義さんって人でね、毎朝コーヒーをテイクアウトしてくれる常連さんなの。スーツに眼鏡姿がとっても素敵で……」
「年齢は? お仕事は何している人なの?」
「お母さんの二つ上よ。司法書士さんで、この近くの事務所にお勤めしてるの」
「五十九歳ね……来年定年退職されるの?」
「六十五歳までは勤務継続するって言ってたわ」

 安定収入もあり、母と年齢も近い。結婚詐欺、遺産や保険金目当てなどでもなさそうだ。

「愛、心配しないで。真面目で誠実な人だから」
「そりゃあ心配もするよ。お母さんも還暦近いし。何かあっては遅いんだからね」
「あら、失礼ね。お母さんまだまだ若いわよ?」

 ふふ、と頬に手を当て微笑む母は、幸福感に満ちている。

 まぁ、お母さんの人生だから、お母さんの好きなように生きたらいいよね。

 何度酷い別れを経験しても、その度に立ち上がって前を向いて、恋愛に花を咲かせる母。きっと愛が何を言っても変わらない。

 けれど、やはり取り返しのつかないことにならないようにだけは気をつけなければ。特に金銭に関しては、シビアな問題なのだから。無一文になって路頭に迷う、なんて事態にはならないように見張っていないと心配だ。

「とりあえず、勝手にお金貸したり、変な投資を勧められたりしたらすぐに連絡してよ? いい?」
「もう、愛ったら心配性すぎー」

 母がノー天気すぎるのだ。世の中、悪いことを企む人はたくさんいる。気をつけるに越したことはない。

 母が淹れてくれたコーヒーを飲む。
 ハワイアンコーヒーは甘いバニラの香りがして、クッキーとの相性も抜群だ。

「ん、美味しい」
「ふふ。仕事中のコーヒーもいいけど、仕事後のコーヒーも格別よ」

 そう言って母もコーヒーを飲みながら閉店準備を進める。

 コーヒーカップにも印字されている、ハワイのレイをモチーフにしたロゴは、愛がデザインしたものだ。店の看板やメニュー表、ホームページも全て愛が手掛けた。

「お店をオープンして二年だっけ。順調そうでよかったよ」
「愛のおかげよ~! ホームページを見て、来てくれる人も多いんだから」
「それはよかった」

 ハワイアンコーヒー専門店『YUAI』では、ハワイのコナ地方のコーヒー豆を使ったコーヒーと、母お手製の焼き菓子のみを提供している。
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