トップアスリートはセフレを可愛がりたくてたまらない

鶴れり

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背中を押して(3)

 終業時間になり、人目を避けながら会社の裏口から外へ出る。
 人が多く煌々しい表通りとは異なり、裏口は薄暗くひっそりとしている。

 先ほどの週刊誌の記者が潜んでいないか、あたりを注意深く見ていると、黒い車のドライバーがこちらに向かって手を振ってくる。
 その顔には見覚えがあった。

「龍我さん?!」
「ごめんねー、修哉がどうしても手が離せなくって。僕が代わりに送っていくよ。後ろ乗って」

 高級感のある革シートの後部座席に乗り込み、頭を下げる。

「わざわざ申し訳ありません。迎えにきていただいて……」
「いや、そもそも弟のせいだからね。雪原さんにむしろ申し訳ないよ」

 バックミラー越しに龍我さんと目が合う。スッと切れ長な眼に整った顔立ちは修哉とそっくりだ。暗がりの中で見ると、本人かと錯覚するほどよく似ている。

「そんなに修哉と似てるかな」
「えっ? 私、声に出していましたか?」
「わかりやすく顔に書いてあったよ。雪原さん、仕事のときと雰囲気変わるね」

 くつくつと笑われて、思わず顔を伏せる。最近の表情筋はポンコツすぎてダメダメだ。しゃんとしなきゃ、と頬の肉をつねる。

「雪原さんは修哉の競技している姿を観たことある?」
「直接はないです。動画は検索して観たことがあります。初めてスポーツクライミングを観て、こんなに面白い競技があるんだって知りました」
「知れば知るほど面白いよね、クライミングって」

 スポーツクライミングについて色々話し込んでいるうちに、あっという間に見慣れた住宅街に入っていく。
 修哉と龍我は顔もそっくりだけど、穏やかな話し方や間の取り方もよく似ていて話しやすい。

「修哉はクライマーとして戦歴を重ねて、今すごく大事な時期なんだ。もちろんスポーツ施設YAwallの運営の鍵も、修哉の活躍にかなり左右されると思ってる」

 マンションの前に車を停車させる。ハザードランプがチカチカと点滅するなか、龍我は振り返って愛を真っ直ぐに見つめた。

「僕は正直二人の問題だから、二人が話し合って納得した形であればそれでかまわないと思ってる。だけど、修哉の立場上、日本を背負って世界で活躍するアスリートなんだ。当然修哉を応援するファンもいる。サポートするスポンサーも仲間もいる。修哉にはその人たちにとっても恥ずかしくない姿であってほしいと思ってるんだ」
「…………その、通りだと思います」

 グサリと言葉の矢が刺さる。龍我の尤もな意見に、ぐうの音も出ない。
 フラフラして、怖がってばかりで、臆病な愛の柔い心に深く響いた。

「龍我さんは、弟想いの素敵なお兄さんですね。私は兄弟がいないので、なんだか羨ましいです」
「そうかな。ただ自分の会社を軌道に乗せたいだけの自分勝手な兄だけどね?」
「ふふ、それも大切なことですよ」

 愛は丁重に龍我にお礼を言って、車から降りた。

「気をつけてね。何か困ったことがあったら、連絡して」

 龍我はそう言って去っていった。


 修哉から預かったカードキーで部屋に入り、ソファに座る。何度も龍我の言葉が頭に響いていた。

 今や結婚というカタチは少しずつ形骸化してきている。内縁の妻制度の適用範囲も広がり、同性婚が認めている国や自治体だってある。
 だから、あまり結婚というカタチに囚われる必要はないと愛は思っていた。互いが納得できるカタチであれば、それが最適解なのだと。
 けれど、それはあくまで一般人としての考えである。

 修哉はトップアスリートなのだ。
 応援して支えてくれる人たちがあってこそのアスリート。修哉の姿を見て勇気と元気をもらう人たちがいて、修哉に憧れてクライミングを始める人たちがいる。
 その人たちの前に堂々と公言できる関係であってほしいと、龍我が望むのも理解できる。

 修哉が好き。特別な関係を結んでしまうのが怖いのは、自分の弱い心のせい。

 うじうじと悩んでいる時間もない。あの写真をネタに、いつ記事を書かれるのかわからないのだから。

 修哉から渡された封筒を取り出す。
 すでに夫の欄には記載が済んでいる。愛は鞄からペンを取り出した。

 未だに、少し怖いという気持ちはあった。だけど、一歩前に踏み出したいという想いもある。

 本当はきちんと修哉と向き合って伝えるべきなのだろう。いい大人なのだから、それくらいの常識は持ち合わせている。
 けれど、どうしてもやっぱり、恐怖心を完全に拭いきることができなくて。

 自分はずるくて弱い女だと、心の中で自嘲しながら、愛は棚の扉を開けた。

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