例えこの想いが実らなくても

笹葉アオ

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プロローグ

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 冬の終わりが近づいてた。庭のクロッカスの蕾が膨らみ始めていた。


「ユーリ、君の婚約が内定したよ。」


 兄であるアルベルン•シュナインは、書斎の机を前に立っているユーリアに一瞥もくれず、本に目を落としたまま大した話でもないように続けた。

「フォンラン侯爵だ。1週間後に侯爵の領へ出立するから、抜かりなく準備なさい。」

 ユーリアは窓側を向いている兄の襟筋まで伸びる美しい栗色の髪を見つめていた。
 
「やるべきことは分かってるよね。」
 兄は振り向きユーリアをじっと見た。

 ユーリアもまっすぐ彼の翠がかった瞳を見ながら、うっすら微笑んでいつも通り答えた。

「ええ。もちろんです。」


 —————
 

 結婚は、のための第一歩に過ぎなかった。   だからなんの嬉しさや感傷もなかった。

 まだ肌寒いのだけれど、庭の倉庫の裏に寝そべっていた。何だかわからないが今はただそうしたかった。

 屋敷の外れにあるこの場所は、庭の他の場所と違って人が手を加えたお花ではなく、野草があちらこちらに無造作に生えている。もう少し暖かくなったら、野草の花も色とりどりに芽吹くだろう。大好きな場所だった。

 手のひらに収まるくらい小さな十字のネックレスを、寝そべりながら掲げた。十字に控えめについている兄の目と似た翠色の宝石は、曇り空もあってか、いつもより暗く沈んでるように見えた。


「こんなところで寝ていては、婚礼の出立前に風邪をひいてしまうよ。」


 隣にどさっと彼は座った。
 

「イザーク帰ってたの。」
 
「昨日ね。今日はシュナイン様に父と挨拶に伺ったんだ。」


 ユーリアは起き上がって彼の顔をじっと眺めた。漆黒の髪の毛は無造作にのびて、顔は前見た時よりも褐色に焼けている。髪の襟足から落ちる長く太い首や、服の襟から少し見える大きな胸元にはあざや傷跡ができていて、今回の出征も大変だったことがわかる。

 でもいつ見ても彼の蒼く澄んだ瞳は綺麗だった。

 彼は前髪の間から覗く瞳をこちらに向けることもなく言った。
 

「婚約内定おめでとうございます。ユーリア様。」


「ありがとう。イザーク。
……フォンラン侯爵様はフラインアイズナッハ王の血筋とも遠いけれど繋がっていて……。なのに古東西戦争では前線で勇敢に戦った、王の信頼も厚い方らしいわ。
 それなのに、男爵の娘を選んでくれるなんてありがたいことだわ。69歳で、今回で4度目の結婚。子供もたくさんいるんですってね。まだ一度も産んだことないのに、嫁いですぐ母親になるなんて面白いね。」
 

 さっきまで何も考えていなかったのに、気心が知れてる相手だからか、つらつらと言葉が出てくる。イザークは何も言わず、ただ眼前に立つ木々の葉っぱが揺れるのを眺めながらじっと聞いていた。


「17歳で何も知らない私にそんなお方のお相手ができるのかな。」

 ユーリアは久しぶりに弱音を吐いた。

 貴族の教養は頑張って学んできたつもりだ。それ以外にも興味があれば兄は何でも学ばせてくれた。
 ただ、の方は、知識はあってもどうしようもない気がした。
 なにせキスもしたことがないのだから………。


「大丈夫。ユーリアが心配することはないよ。今まで通りの君でいればいいんだ。」


 涼しげな目元を前に向けながら、何てこともないように言った。


 ユーリアは、彼の整った横顔をじっと見た。
 

 確かに彼にとっては何てことない事かもしれない。
 イザークは、私たちシュナイン家を守護する騎士の1人、ホルスの一人息子だ。昔は一緒に学んだこともあったが、今はシュナイン家の代表としてフラインアイズナッハ王の騎士団に所属しており、頻繁に出征している。
 私たちは親しい友人、兄弟のような間柄だったけど、直接彼から華やかな話は聞いたことがない。けれど、話を伝え聞くところによると、出征のたびに何人かの女性とずいぶん仲良くしていたらしい。無愛想で、身なりも気にしていないが、不思議と女性は彼に寄って行った。ただ、特定の人は作っていないという話だった。
 
 ユーリアはそういう話には疎かった。周りに身近にいる若い男は兄かイザークだけだった。
 


 自分の経験のなさに口を噛み締める。フォンラン侯爵は女好きだと聞く。兄は「何も知らない方がいい場合もある。きみは準備しすぎるからね。」と言うが、キスくらいで気が動転して落ち着いた行動ができなくなることがあれば自分を許せない。


 手で小さい十字のネックレスを握った。


 ユーリアは「よし」と呟き、隣に座るイザークにグイッと体を突き出して伝えた。
 


「わかったわ。じゃあキスして。」
 


 イザークは蒼い目を見開きながら初めてこちらを見た。だがすぐにいつも通りの顔に戻り注意深く私の顔を覗いた。



「なんでそうなるの。」



「イザーク、私はシュナイ家の繁栄のために、無知な自分のせいで今まで積み上げていた歩みが頓挫するのが嫌なの。」


 イザークの髪が風に揺れた。
 

 彼はまつ毛を下に伏せ、
「そういうことは好きな人に頼みなさい。」
 と、子どもをあやすような言葉で諌め、サッと立ち上がった。
 

「そんなのいないこと知ってるじゃない。イザークはいるの?」
 
「……くだらない。」
 
 彼はそのまま屋敷の方へ歩いて行こうとする。


 彼の態度にむしゃくしゃした気持ちと、結婚への心細い気持ちが心の奥底をぐるぐる渦巻いた。


「……他の女《ひと》にやってるみたいに、やってくれてもいいじゃない。……」



 イザークが立ち止まってこちらを振り向く。蒼い瞳が暗く光る。
 

 ユーリアはかまわず続ける。
「嫌なところ申し訳ないんだけれど、友人の結婚前の最後のお願いを聞いてくれてもいいじゃない。経験豊富なあなたにとっては簡単なことでしょう。ただ口と口が触れ合うだけじゃない。」
 


「このケチ野郎!」と言いかけたその口にふいに熱いものが押し付けられた。気がつくと、イザークは私の顔を両手で包んでいた。
 

 凛とした鼻筋が、自分の鼻をこする。彼の口が少し離れたかと思うと、今度は腰をグッとかかえてさらに唇を押しつけ、口の奥深くに生暖かいものが流れ込んできた。ざらざらとした感触が口の中でうごめく。心臓が高鳴り、爆発しそうだ。どちらともなく熱い息が口からこぼれ落ちる。顔がみるみる熱くなり今にも火が吹き出そうだ。頭はクラクラしてどうしていいか分からず、動けずにいた。
 

 不意に瞳からポロリと涙が溢れでた。

 イザークはハッとした顔で、ユーリアを素早く突き放した。


 何で泣いているのかわからなかった。ぼーっとした頭で彼を見ると、困惑なのか、怒りなのか、悲しみなのか、いろんな感情が入り乱れた様子でこちらを見ていた。


「くそっ……」
 

 彼はユーリアに背を向けると、屋敷の方へ戻って行った。
 ユーリアは大きな背中を目で追いかけながらも、その場で佇んでいた。
   木々の葉っぱがざわめき、火照った頬を冷たい風がなぜた。
 

—————

 
 久しぶりの日差しだった。

 屋敷の前にはたくさんの馬車や荷車が並んでいる。
 そのうちの数台はフォンラン侯爵への持参金いっぱいに積まれている。フォンラン侯爵の領までは4~5日かかるはずだ。ユーリアは長旅に備えて、ゆったりとしたドレスに三つ編みにした髪の毛を下ろしていた。
 

「君の婚礼の式には立ち会えないが、手紙は送るよ。」
 兄がユーリアの肩に手を置きながら微笑む。


「お兄様、ほんとうにですよ。」
 ユーリアは薄く微笑む。


 ユーリアの父は先の戦いで亡くなった。跡を継いだ長兄も病で倒れて亡くなってからずいぶん経つ。
 もうシュナイ家にはアルベルとユーリアの2人しかいなかった。
 
「もちろんだよ。「あの子」にも伝えておく。」
 兄はユーリアの頬を撫でながら行った。
 

 ユーリアは瞳を閉じた。


 あの子ともしばらく会えないのか。
 あの子の笑顔が瞼の裏をかすめる。



「姫様は無事私がフォンラン領へ送り届けますので、アルベルン様は安心してください。」
 イザークの父が自分の胸を手で叩いた。


 屋敷に仕えている1人1人にできる限りお別れを言っていると、少し離れたところでイザークが立っているのが見えた。出立準備で忙しく、あの日以来顔を合わす機会がなかった。


 彼に急いで駆け寄った。屋敷の人は私たちが幼い頃からの付き合いだと知っているので、2人を気にする事なく、みんなそれぞれに談笑している。


 イザークは先日とは違い、いつもの落ち着いた蒼い瞳でじっとこちらを見据えた。


「ユーリア様、先日は申し訳――」
「イザーク先日はごめんなさい!完全なマリッジブルーね。」
 彼の言葉を遮るように言った。
 

「あなたと出会った頃の日のような手をまた使ってしまったわ。」
 ユーリアは思い出してふふっと笑う。


 そして息を吸い込み、
「この日まで良き友でいてくれて、本当にありがとうございました。」
 と、イザークの大きな手を両手でぎゅっと握った。
 手は毎日剣を振っているだけあってがっしりしていた。

 
 手を離すと彼の手の中には翠の宝石を宿した小さな十字のネックレスが入っていた。


「ユーリア様、これは……。」
 

「あげるわけじゃないよ。イザークによると、わたしは大丈夫らしいので、そのお守りを貸してあげます。」


「……。」
 

 イザークはユーリアの考えを探るような目でじっと彼女の顔を見つめる。
 なかなかの押し付けがましいプレゼントだったが、どうしてもユーリアは彼に渡したかった。
 

 ユーリアは背の高い彼を見上げて、じっと顔を見る。騎士団に所属してから会う機会は減ったけれど、何かあったときはいつも傍らに彼がいた。侯爵家に嫁ぐと、会える人も限られてしまう。まして称号のない一騎士に会うことはできないだろう。
 漆黒の髪の下に輝く蒼い瞳をしばらく見ることもできないとユーリアは悲しく思った。


 今脆くも続いている休戦協定によって、西の国との領土争いは境界沿いの小さいいざこざで済んでいるが、暗雲は垂れ込めたままだ。イザークは弱いわけではないけど、この状態が長く続くとは思えない。


 ユーリアは微笑んで言った。
「イザーク、だから生きていてね。何が何でも。そしてあなたの願いが叶った時に返してくださいね。」

 
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