灰色の海で待つ

からり

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 一週間に一度、庭に出られることになったのは、私の研究室への貢献が認められてリスクレベルが下がったからだという。
 その事を告げられた時は、特に嬉しくもなかった。自由に外を出歩けるならまだしも、庭という限られた空間を散歩していいと言われても、あまり魅力的に思えなかったのだ。地下の私の部屋は快適だし、環境ウィンドウという名の窓もある。窓には色々な風景が映されて飽きない。たくさん本もある。狭いなりに世界は広がっている。
 けれど、一度庭に出てからは、本物の空を、風を、強く求めるようになった。空気の複雑な香り、木の枝が創る緻密な影、土や落ち葉を踏む感触。私は、楽しいことを何度も反芻する子供みたいに、庭のことばかり考えた。
 庭は高い壁に囲まれているが、木々に隠されて壁の存在を感じることはほとんどない。小道が迷路のようにはりめぐらされた敷地は広く、池もある。水は澄んでいる。小さな魚がいる。水鳥もいる。池のそばには小さな東屋が建ち、雨風に古びた深い茶色のベンチとテーブルがある。ベンチはギシギシ言うけど座り心地は悪くない。
 私は、いつもその東屋で昼食をとる。
 支給されるバスケットにはサンドイッチが入っている。私はタマゴサンドが一番好きだ。でも、いつも入ってるわけじゃない。ハムやチーズ、ポテトサラダだけの組み合わせの時もある。だからバスケットを開ける時は、宝箱を開ける時みたいにドキドキする。

 10月の終わりのある日、今日のサンドイッチは何だろうと考えながら、ドリンクメーカーでコーヒーを用意しているとリグルが言った。
『今日、外は曇りで時々雨が降るかもだって……』
 リグルは窓際の棚の上で眠そうな声でつぶやいた。大きな黒目を半分閉じかけ、うつらうつらと白い綿毛のような体を揺らす。
 リグルは手のひらサイズの二足歩行の羊のような体を持ち、顔はピグミーマーモセットという猿に似ている。眠気と戦う姿は愛らしくて、思わず微笑んで見とれていると
『さっさと...…準備しちゃいなよ。時間に間に合わないと外出が取り消しになるよ...。ただでさえ...…カイナはとろいんだから』
 可愛い外見に反してリグルは口が悪い。はいはい、と返事をしてコーヒーをボトルに入れる。傘を確認して、本棚からコローの画集と、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の文庫本を選びだし、専用バッグにしまう。このバッグは、見た目は平凡なナイロンのトートバッグだけど、繊維にナノ感知物質が組み込まれていて、持ち出し違反がないか判別する。違反があると警備部に通知され庭への外出が中止されてしまう。
「一緒に来る?」
 と聞くとリグルは首を振った。
『やめとくよ。すごく眠いんだ』
 リグルは以前は眠ることがなかった。でもある時期から急に眠気を催すようになった。本人には心当たりがあるようだが、私にはどうしてなのか教えてくれない。
「本当に行かない?」
 もう一度尋ねたのは、リグルが一緒だと心強いからだ。リグルは私より頭がいい。何か問題が起きても適切なアドバイスをしてくれるし、いつも一緒にいるから一人で庭に行くのは何となく物足りない気がした。
『行かない』
「夜遊びしすぎじゃない?」
 リグルは私と違って地下室の部屋を自由に出入りできる。他の部屋に知り合いもいる。だから眠る私を置きざりにして、出かけてしまう。
『ヤキモチやいてる恋人みたい』
「だって最近、目が覚めるといないことが多いから」
『ぼくはカイナのために色々と情報収集してるんだよ?』
 そう言われると言い返せない。私は小さくため息をつく。
 外の情報は貴重だ。この地下室にはテレビもインターネットもないから『今日は曇り、時々雨』というような天気の話だって知る術がない。検閲された映像コンテンツや本は見ることが許されているけど、リアルタイムのニュースは知りようがない。
 それにリグルはこの研究室の人間模様や噂話、ちょっとしたハプニングやエピソードも仕入れてくる。外の“普通の生活”の気配は、懐かしくてまぶしくて刺激的だった。
「庭で眠れば?」
『あの庭、監視カメラが多すぎるよ。ゆっくりできない』
 リグルは秘密の友達で、基本的に私以外の人間には姿が見えない。だからリグルは、私がうっかり話しかけたり、目で追ったりしないように人前や監視カメラがある場所では姿を隠す。
『ちゃんと起きていられる時なら、カイナのうっかりをカバーできるからさ。今度ね……』
 目を半ば閉じながらリグルが言った。
 仕方ない。私はリグルと一緒に庭に行くことをあきらめた。

 午前11時きっかり、コツコツコツ、とドアがノックされた。三回。強くも弱くもない、ちょうどいいノックの強さに誰が来たのかわかった。
 バッグを持ち、じゃぁねと振り返ると、リグルはベッドに移動していた。枕の影から掌だけを伸ばしヒラヒラさせる。
「どうぞ」
 鍵を解錠する音がしてドアが開く。
 紙谷さんが立っていた。
「おはようございます」と挨拶をすると、
「おはようございます」と紙谷さんは乾いた声で言った。
 紙谷さんは、警備部ではたった一人の女性で元警察官らしい。私より10センチは背が高く、姿勢もよくすらりとしている。髪は一つにまとめられ、彫りの深い顔立ちが際立つ。美しい人だが視線は鋭く、ひきしまった口元には厳格さがただよう。
「バッグを貸してください、持ちます」と紙谷さんが言う。
「いえ、悪いです、自分で持てます。それよりバスケット、私が持ちますから」
 私の昼食であるサンドイッチが入ったバスケットが紙谷さんの左手にぶら下がっている。硬質な雰囲気の紙谷さんに、カゴ型のバスケットは似合わない。
「荷物を持つのは私の仕事ですから」
「そうなんですか?」
「はい」
「でも紙谷さん以外の人の時は、私が持たせてもらっています」
 ついそう言うと紙谷さんは眉をひそめた。それだけで凄みのある表情になる。
「職務怠慢ですね」
 と紙谷さんがぬっと手を差し出す。逆らう勇気はなく私はバッグを彼女の手に預ける。紙谷さんの右手がしっかりとバッグを受け取る。彼女の手は女性にしては大きくたくましい。傷がいくつかあるけど痛々しさはない。私はひそかにかっこいい手だと憧れている。
「行きましょう」
 廊下はとても暗い。最低限度の灯りの中を、紙谷さんは迷わずに進む。時々「階段を昇ります」「右へ曲がります」「階段を下ります」と声をかけてくれる。
 行ったり来たり。昇ったり降りたり。暗い中、わざと遠回りをするのは私に道順を悟らせないためだ。
 15分ほど歩き続け、ぴたりと紙谷さんが立ち止まる。行き止まりの壁に紙谷さんが手をかざす。静脈認証で鍵が開く。カチリと小さな音がして壁がシャッターのように上から下に開いていく。
 光と湿った緑の匂い。
 庭だ。

 午後二時になったら迎えに来ると紙谷さんは言った。
「紙谷さんが来てくれるんですか?」
「いえ。別の担当が来ます」
 それから「今日も池のそばの東屋に行くんですか?」と聞かれた。
 警備部の紙谷さんは私の庭での行動を当然のように把握している。
「はい」
「雑木林の中を通り抜けるのが近道です」
 今日の紙谷さんはいつになく親切だ。嬉しくなって
「あの、バッグ持ってもらってありがとうございました」とお礼を言うと「仕事ですから」とそっけなく返された。
 でも、そのそっけなさが嫌いじゃなかった。
 昔、私が外にいた頃、仲が良かった女友達の何人かに紙谷さんは雰囲気が似ている。というよりは、私が親しくなる相手が紙谷さんに似たタイプが多かったのかもしれない。
 人を寄せ付けない雰囲気の彼女たちは、親しくなると素敵な笑顔を見せてくれた。
 紙谷さんはどんな風に笑うんだろう。
 想像に浸って紙谷さんを見つめていたら目がしっかり合ってしまった。一瞬だけ、紙谷さんの目の奥に感情らしきものが揺らいだ。でもそれが何か分かる前に「失礼します」と言って紙谷さんは建物内に戻ってしまった。
 シャッターのように閉まる壁が、紙谷さんの姿を遮っていく。名残惜しさを感じながら、いつかこの庭で一緒に過ごせたらいいのに、と叶わぬ願いをいだいた。

 一人になると私は何度も深呼吸した。地下室の均一な空気を体から追い出して、色々なものが混じりあった雑多な空気を取り込んでいく。
 あぁ、外だ。
 曇っているが空は明るく、木々も土も濡れていた。少し前まで雨が降っていたようだ。ふと甘い香りがした。振り返ると、オレンジの細かな花が煙るように咲いていた。キンモクセイだ。
 雑木林の木々は鮮やかに紅葉している。庭は秋の気配に満ちていた。地下室にない“季節”という贅沢品がここにはある。
 私は雑木林に入りいつもの東屋へ向かった。
 レンガで舗装された道には落ち葉がまだらに散っていた。踏むたびにクシャっと湿ったビスケットを砕くような音がした。
 しばらくして“池”と書かれた矢印形の看板が立っている十字路に着いた。ひと際大きな樫の木が常緑の葉を広げている。
 見覚えのある風景だった。ここから東屋までは20分くらいのはずだ。肌寒い日だったが、歩くうちに私の体はあたたまり喉が乾いていた。すぐ先にベンチがあったことを思い出し、小休憩をとることに決めた。
 コーヒーを飲みながら紅葉を楽しもう。バスケットを開けて今日のサンドイッチが何か確認してみよう。そういえば、紙谷さんが担当として来てくれた時は、いつもタマゴサンドが入っている……。
 とりとめない考えにふけりながら歩いていると、ベンチが見えた。
 立ち止まる。
 誰もいないはずのベンチに人が座っていた。
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