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第三章
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そろそろ慣れた方がいいような気はしてきたが、リオの世界の常識が変わってしまってから、まだ一年足らずなので許してもらいたい。生け贄となるまでの十七年間を、些か世間知らずとは言え、人間の国の常識で生きてきたリオは誰にともなく言い訳をした。
「でも、僕……社交界に出て、三ヶ月も経ってないのに?」
リオがドレスを着始めたのは、空気が爽やかになる頃で。季節を冬へと急速に傾ける今から遡っても、精々二ヶ月半だ。確かにこの人生で最も長い二ヶ月半ではあったが、それはリオの体感であって、現実の時の流れとは関係がない。
たとえ相手が本気であっても、まずは少人数の茶会などで、少しずつ距離を詰めるものだ。当人と一言も交わすことがないまま、婚約の申し入れとは些か早まり過ぎている。
「ええ、常であれば考えられない非礼です。両家の親同士が望んで進める縁組であれば、そのようなこともありますが……決して大げさではなく、あなたへの侮辱と言っていい行為です」
下位から上位へは論外として、上位から下位であっても、権力を笠に着た強引な縁組は軽蔑の対象だ。同位であれば家同士の関係を密にする必要があるため、印象を下げる行いは大きなマイナスとなる。一体どの家がそんな、と。金の封蝋に押された印を確かめたリオは、薄闇の中で目を丸くした。
ミラレーヌ、と。夜会の前の貴族教育で懸命に覚えた名の一つであり――そして今は、それ以上の意味を持つ名を呟けば、その通りですとアルトが頷いた。
「ミラレーヌ公、レーヴィン。先代女王の二子にして、当代女王が弟。今この国で、最も位の高い公爵。……そして、私の仇です」
声音だけは淡々と。しかし、瞳の奥に燃える憎悪の色を隠しきれずにいる彼に、リオは息を呑んだ。
王都の公爵、王弟殿下その人が、と。耳にして間もない、ファランディーヌの言葉が蘇る。女王を幽閉しようとした、謀反人。その男こそが仇だと言い放ったアルトの、気品に満ちた美貌を見つめれば、思い出す面影があった。
半透明の、シークレット・ヴェールの向こう側。美しい女王陛下、その人は――彼と、同じ瞳をしていなかっただろうか。
「アル……タイア」
「っ!」
私の自慢の、可愛い子、と。女王が愛しげに囁いていたその名を呟けば、アルトの顔色が変わる。
一瞬で距離を縮められ、その名をどこで、と。これまで聞いたことのない低い声で問い詰められて、思わずときめいてしまったリオは己の呑気と場違いを呪いながら、しどろもどろに口を開いた。
「あの……ファランディーヌが、その」
女王陛下の、その、と。自分の知る情報が、どれほど重要なものであるのかを一通りは理解しているリオは、迂闊に口を割ることもできずに言葉に詰まる。もごもごと口ごもっては、舌など噛んでいるその不器用な様子から、リオの難しい立場も察してくれたのだろう。それ以上の詰問はなかった。
彼なら、無理矢理に、口を割らせることくらいできるだろう。魔性の金色の瞳を思い出せば、それは疑うべくもない事実だったけれど――同時に、彼はそんなことはしないだろう、とも。信じられるのが不思議だった。
今は間近にある美貌を、リオが思わずじいっと見つめてしまえば、何かを頻りに考えていたようだったアルトがハッと我に返る。
気持ちが落ち着いたのだろうか、失礼いたしました、と。乗り出していた身を引いた彼が、しばしの沈黙の後に、ふっと苦笑しながらため息をついた。
「そうでしたか。……あなたに、その名を知られているのなら。これ以上の偽りを重ねる必要もないでしょう」
「それじゃあ、本当に」
「……お察しの通りです」
呟いた彼が、ふと、ほつれかかっていたリオの髪をすくい上げて耳にかける。そのまま、くすぐるように耳から首にかけてをそっと撫でられて。彼の指先にも、何らかの魔法がかかっているような気がしてならないリオが、頬を熱くしながら顔を俯けた。
そんな初々しい反応を笑ったアルトが、リオの手を握り締める。眼差しを上げたリオの瞳を真っ直ぐに見つめると、彼はどこか吹っ切れたように微笑んだ。
「女王、エヴァンジェリンが一子、アルタイア。……身分を回復すれば、王子と名乗ることもあるでしょう」
改めてお見知りおきを、と。貴公子の呼び名に相応しい品格を身に纏って、彼はそう名乗りを上げた。
(王太子……!)
そうはっきりと名乗られれば、違和感など欠片もない。
これまで気付く人がいなかったのが不思議なほどにきらきらしく洗練されたアルトが明かしてくれた秘密を、リオは少しの疑問もなく受け入れた。
女王であるエヴァンジェリンと、仇を同じくする理由にも説明がつく。まだリオの手の中にある、公爵家の印が押された手紙が急に重いものであるように思えて。不安を滲ませた眼差しを手元に落とせば、彼はその印がリオの目に触れるも汚らわしいとばかりに、白い手でそれを覆い隠した。
「無礼は何度でもお詫びいたしますが、こちらの中身を拝見して。許し難き仇が、あなたの身近にいると知れたら……まして、許せなくなった。……待てなくなった」
「アルトくん……」
「あまつさえ、あなたを囮に、復讐の足掛かりにしようなどと……愚かなことを考えました」
無辜の罪人の悲しみを映す瞳に滲む苦渋の一欠片も、リオはきっと理解していないけれど。それでも――彼の力になりたい、と。そう思ったのは、リオの本心だった。そうしなければ癒されないと言うのなら、癒してあげたいと。
けれど、リオの思いよりも先に。彼に伝えなければならないだろうことを、リオは知っていた。
「僕は、それがアルトくんの望みなら、叶えてあげたい。……でもね、今、ファランディーヌたちも動いているんだ」
「ファランディーヌ様が……」
そうですか、と。呟く声に、喜色は見えない。複雑な感情を浮かべた瞳は、深い苦悩になお美しい。
己の手で、成し遂げなければいけない理由があるのだろう。ある程度の予想はできていた反応だが、その理由は解らない。……我が身を、焼き滅ぼしてもと。そう願う彼を引き留めるように、リオはその白い手を握り締めた。
「だから、アルトくんが頑張らなくても、きっと大丈夫なんだ。その、エヴァ――様、も。一人で危ないことをしないで欲しいって、仰っていたよ。……でも、それじゃあ、ダメなのかな」
「……ファランディーヌ様が動くのであれば、安心です。首魁は捕らえられ、悪は裁かれ。全ては望みのままに、恙なく事は片付けられることでしょう。……ですが、そうですね。私は直接――あの男の首を、焼き切りたい」
リオを前にしても、なお冷たく。燃え盛る業火の激しさを見せる赤い瞳に、リオは戸惑った。
「でも、僕……社交界に出て、三ヶ月も経ってないのに?」
リオがドレスを着始めたのは、空気が爽やかになる頃で。季節を冬へと急速に傾ける今から遡っても、精々二ヶ月半だ。確かにこの人生で最も長い二ヶ月半ではあったが、それはリオの体感であって、現実の時の流れとは関係がない。
たとえ相手が本気であっても、まずは少人数の茶会などで、少しずつ距離を詰めるものだ。当人と一言も交わすことがないまま、婚約の申し入れとは些か早まり過ぎている。
「ええ、常であれば考えられない非礼です。両家の親同士が望んで進める縁組であれば、そのようなこともありますが……決して大げさではなく、あなたへの侮辱と言っていい行為です」
下位から上位へは論外として、上位から下位であっても、権力を笠に着た強引な縁組は軽蔑の対象だ。同位であれば家同士の関係を密にする必要があるため、印象を下げる行いは大きなマイナスとなる。一体どの家がそんな、と。金の封蝋に押された印を確かめたリオは、薄闇の中で目を丸くした。
ミラレーヌ、と。夜会の前の貴族教育で懸命に覚えた名の一つであり――そして今は、それ以上の意味を持つ名を呟けば、その通りですとアルトが頷いた。
「ミラレーヌ公、レーヴィン。先代女王の二子にして、当代女王が弟。今この国で、最も位の高い公爵。……そして、私の仇です」
声音だけは淡々と。しかし、瞳の奥に燃える憎悪の色を隠しきれずにいる彼に、リオは息を呑んだ。
王都の公爵、王弟殿下その人が、と。耳にして間もない、ファランディーヌの言葉が蘇る。女王を幽閉しようとした、謀反人。その男こそが仇だと言い放ったアルトの、気品に満ちた美貌を見つめれば、思い出す面影があった。
半透明の、シークレット・ヴェールの向こう側。美しい女王陛下、その人は――彼と、同じ瞳をしていなかっただろうか。
「アル……タイア」
「っ!」
私の自慢の、可愛い子、と。女王が愛しげに囁いていたその名を呟けば、アルトの顔色が変わる。
一瞬で距離を縮められ、その名をどこで、と。これまで聞いたことのない低い声で問い詰められて、思わずときめいてしまったリオは己の呑気と場違いを呪いながら、しどろもどろに口を開いた。
「あの……ファランディーヌが、その」
女王陛下の、その、と。自分の知る情報が、どれほど重要なものであるのかを一通りは理解しているリオは、迂闊に口を割ることもできずに言葉に詰まる。もごもごと口ごもっては、舌など噛んでいるその不器用な様子から、リオの難しい立場も察してくれたのだろう。それ以上の詰問はなかった。
彼なら、無理矢理に、口を割らせることくらいできるだろう。魔性の金色の瞳を思い出せば、それは疑うべくもない事実だったけれど――同時に、彼はそんなことはしないだろう、とも。信じられるのが不思議だった。
今は間近にある美貌を、リオが思わずじいっと見つめてしまえば、何かを頻りに考えていたようだったアルトがハッと我に返る。
気持ちが落ち着いたのだろうか、失礼いたしました、と。乗り出していた身を引いた彼が、しばしの沈黙の後に、ふっと苦笑しながらため息をついた。
「そうでしたか。……あなたに、その名を知られているのなら。これ以上の偽りを重ねる必要もないでしょう」
「それじゃあ、本当に」
「……お察しの通りです」
呟いた彼が、ふと、ほつれかかっていたリオの髪をすくい上げて耳にかける。そのまま、くすぐるように耳から首にかけてをそっと撫でられて。彼の指先にも、何らかの魔法がかかっているような気がしてならないリオが、頬を熱くしながら顔を俯けた。
そんな初々しい反応を笑ったアルトが、リオの手を握り締める。眼差しを上げたリオの瞳を真っ直ぐに見つめると、彼はどこか吹っ切れたように微笑んだ。
「女王、エヴァンジェリンが一子、アルタイア。……身分を回復すれば、王子と名乗ることもあるでしょう」
改めてお見知りおきを、と。貴公子の呼び名に相応しい品格を身に纏って、彼はそう名乗りを上げた。
(王太子……!)
そうはっきりと名乗られれば、違和感など欠片もない。
これまで気付く人がいなかったのが不思議なほどにきらきらしく洗練されたアルトが明かしてくれた秘密を、リオは少しの疑問もなく受け入れた。
女王であるエヴァンジェリンと、仇を同じくする理由にも説明がつく。まだリオの手の中にある、公爵家の印が押された手紙が急に重いものであるように思えて。不安を滲ませた眼差しを手元に落とせば、彼はその印がリオの目に触れるも汚らわしいとばかりに、白い手でそれを覆い隠した。
「無礼は何度でもお詫びいたしますが、こちらの中身を拝見して。許し難き仇が、あなたの身近にいると知れたら……まして、許せなくなった。……待てなくなった」
「アルトくん……」
「あまつさえ、あなたを囮に、復讐の足掛かりにしようなどと……愚かなことを考えました」
無辜の罪人の悲しみを映す瞳に滲む苦渋の一欠片も、リオはきっと理解していないけれど。それでも――彼の力になりたい、と。そう思ったのは、リオの本心だった。そうしなければ癒されないと言うのなら、癒してあげたいと。
けれど、リオの思いよりも先に。彼に伝えなければならないだろうことを、リオは知っていた。
「僕は、それがアルトくんの望みなら、叶えてあげたい。……でもね、今、ファランディーヌたちも動いているんだ」
「ファランディーヌ様が……」
そうですか、と。呟く声に、喜色は見えない。複雑な感情を浮かべた瞳は、深い苦悩になお美しい。
己の手で、成し遂げなければいけない理由があるのだろう。ある程度の予想はできていた反応だが、その理由は解らない。……我が身を、焼き滅ぼしてもと。そう願う彼を引き留めるように、リオはその白い手を握り締めた。
「だから、アルトくんが頑張らなくても、きっと大丈夫なんだ。その、エヴァ――様、も。一人で危ないことをしないで欲しいって、仰っていたよ。……でも、それじゃあ、ダメなのかな」
「……ファランディーヌ様が動くのであれば、安心です。首魁は捕らえられ、悪は裁かれ。全ては望みのままに、恙なく事は片付けられることでしょう。……ですが、そうですね。私は直接――あの男の首を、焼き切りたい」
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