風紋(Sand Ripples)~あの頃だってそうだった~

宗像紫雲

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第一章第十三節(萬宝山事件)

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                 十三
 
 昭和六年の春になると張学良の排日はさらに激化し、ついに五月の萬宝山まんぽうざん事件を招く。朝鮮人農夫がひらいた水田を華人地主らが取り上げた上、官憲を引き連れての農夫らに暴行を加えて土地から放逐したという事件である。
 事のあらましはこうだ。長春から北西へ二十キロあまり、伊通河いつうがに沿って馬梢口ばしょうこうという部落がある。伊通河流域は以前から水田に適した土地と有望視され、ここへ移住していた朝鮮族や後の大成建設となる日本の「大倉組」も、十年ほど前から開墾計画を立ててきた。しかし、一帯の土地は華人の地主が所有している。このため地代の調達など資金的な問題に直面し、計画はなかなかはかどらなかった。
 大正十五年、華僑で長春の豪商である郝永徳かくえいとくは、漢籍に帰化した朝鮮族の姜直順、沈宜達らと共同で一万数千円を投じて水田経営を試みるが、途中で頓挫とんざする。それでも郝らはあきらめず、昭和六年二月、ついに吉林省政府の許可を取り付けた。
 そこで郝らは馬梢口のあたりで川をき止めダムをつくり、灌漑用の溝を掘って下流域の三姓堡、張家堡、窩子堡といった小集落を含む約千二百ヘクタールの地域に水田を拓く計画を立てた。そのうち三百ヘクタールについては実際に地主と小作契約を結び、水田の造成に取り掛かった。契約期間は十年、小作料は一天地(六〇アール)につき年一石とし、郝らは小作農から年二石を受領することで利益を得る算段だった。
 満洲における朝鮮族の水田づくりは実に見事である。川の水がコンクリートを打ったように固く凍結する冬の間、伊通河の上に石を積み上げ石堤いしづつみを築いておく。春が来て氷が解け出すと、積んであった石が川底へ沈み、それが堰堤えんていとなって立派なダムが出来上がる。結氷期けっぴょうきが去ると凍土とうどと化した地盤も緩むので、山裾に沿って溝を掘って水田へと引いていく。
 こうしてダムが出来上がり、灌漑溝も完成まぢかというところで、公安局から工事の差し止め令がかかった。原因は土地ブローカーの詐欺行為にあった。華人地主側との小作契約は数件の未締結先が残った。これら地主が省政府へ訴え出たのが事の起こりとなった。当局はダムにより上流域で水害が発生する恐れがあるという理由で五月上旬、実力を行使して工事を差し止め、ダムと灌漑溝の一部を取り壊した。
 萬宝山のもめ事が伝わると。地主の孫永清はそれまでの態度を一変させた。実は郝永徳や姜直順、沈宜達が以前の土地貸借交渉において、一天地(六〇アール)あたり十年間で現金三百円という小作料を提示したことがあったのが漏れ伝わったからだ。孫永清は、「自分へ提示された小作料があまりに少ない」と言い出し、条件をり上げてきた。しかも孫は一方的に「今回の契約はいったん取り消す。新たに契約したければ一天地あたり三百円、しかも十年間前払いで寄越せ」と難題を吹っかけてきた。
 郝らは自分たちが得ることになっていた中間手数料から幾分かを補填ほてんすることで矛を収めようとしたが、交渉は物別れに終わった。そうしているうちに話はエスカレートして、地主らは付近の華人農夫らを金で雇い、六、七百人の暴徒となって朝鮮族農夫を襲ってきた。
 萬宝山事件が複雑化した伏線として、二つの公安局と県の役人の間の確執かくしつがあったことも指摘された。水田予定地は萬宝山第二公安区域管内にあり、この地方は水田耕作によって潤う。一方、ダムを堰き止めた馬梢口は第三公安局の管轄内にあり、こちらはダムによって利益を得るどころか、却って雨期には川が氾濫して水害を引き起こす恐れがあった。これに加えて、許可を出した県庁の役人が、現場の公安局に対し細々と指図をしてきたことへの反感が重なって、三つどもえの対立となった。地主たちがさわぎ出したとき当局自身がこのような状態にあったことも、事態の収拾を困難にした。
 当時は“日本国民”であった朝鮮人に関わる事件であるため、林久治郎奉天総領事も乗り出して交渉にあたったがらちは明かなかった。そうして五月、六月が過ぎ、七月に入ると平譲ぴょんやんで朝鮮人と華人の民族対立が激化し、大規模な流血事件へと発展する。

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