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第五章(乱石山)
第五章第一節(電信課1)
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第五章
一
洸三郎が奉天へやって来て、早ひと月が経とうとしている。
満洲の治安は依然として定まらず、なかでも朝鮮人集落を狙った匪賊の襲撃事件は引きを切らなかった。関東軍は吉林出兵を最後に、大規模な軍事行動へはひと区切りを付けた――。とは言うものの、今なお各地に出没する匪賊討伐のために東奔西走している。
事態はまったく収まっていないのだが、匪賊討伐は比較的地味だったから事変報道には一服感が見られた。そこで大毎本社は、奉天支局へ送った援軍を三々五々帰国させることにした。気づいてみれば、続々と内地から駆け付けた応援部隊のなかで残ったのは、洸三郎ただ一人となった。
「満洲事変を現場で取材できる」――。そんな期待に胸を膨らませて奉天へとやって来た彼だったが、赴任初日に公会堂で日本人大会を取材したのを最後に、外へ出る機会はとんとなくなった。あれ以来、支局の電信課に籠って同僚の記者や連絡員たちが持ち込んでくる原稿を頼信紙※へ転記する作業に明け暮れる日々を送っている。
※頼信紙=電報を打つときに電文を書く所定の用紙。
♪後から来たのに追い越され……。
自分より後から来た記者たちが今日はどこ、明日はどこと、現場を飛び回っては記事を上げてくる。それを横目に彼のところへは一向にお鉢は回ってこなかった。そんな同僚たちも、一人、また一人と帰って行った。
小学生の頃、彼はこんな作文を書いたことがある。
「僕は今大臣になろうとも、大将になろうとも思っていません。ただ中学生になりたいと思っています。中学から高等学校へ、そして大学へと、段々に人の望みは進んでいくものでしょう。僕は一歩一歩と進んでいくつもりです。一足飛びに大臣や大将になろうと思っても駄目でしょう。だから今は小さな望みしか持っていません」
立身出世こそが人生最大の目的とされていた時代である。同級生はいずれも“末は博士か大臣か”とばかりに野心的な夢物語を綴ったが、洸三郎だけはまるで“一隅を照らす”といった心境を書いて大人たちを苦笑いさせた。
では、と言って今の境遇にある彼が「立派な電信員になる」とでも言ったかというと、さすがにそれはない。彼は先ず一人前の記者になりたかったのだから……。
そんな洸三郎を電信課へ籠らせたのは、「“三代目”の身にもしものことがあっては」と案じる三村の“親心”であった。当人にとって甚だ迷惑な話だが、大人の事情というやつが邪魔をして、洸三郎はまだ「小さな望み」をすらつかみ損ねていた。
「ひょうたんよぉ、そろそろ現場へ出してくれるよう支局長に言ってみてくれんかのぉ」
原稿を持ち込んできた旧知の田中香苗を相手に、洸三郎は愚痴をこぼした。
ある程度の我慢は覚悟していたものの、こう来る日も来る日も原稿用紙の上で“のたくる”文字と、頼信紙の睨めっこでは気が滅入る。まさか布施部長もそのつもりで自分を奉天へ送り出した訳ではあるまい。現場へ出られないもどかしさは日に日に募り、逸る気持ちだけが先走っていった。
「俺の口からそんなこと言える訳ないやろ。そう腐らんと、これ、頼むで」
そう言って洸三郎の手に原稿を押し込むと、振り向きざまにこう付け加えた。
「あとでメシでも食いに行こうや」
そしてそのまま、いそいそと下の階へ戻っていった。
田中にしても洸三郎の気持ちは痛いほど分かる。逆の立場だったらと思えばなおさらだ。だが田中自身も支局の中ではまだ新参者の部類である。とてもポンと胸を叩いて請け合える立場にはなかった。
一
洸三郎が奉天へやって来て、早ひと月が経とうとしている。
満洲の治安は依然として定まらず、なかでも朝鮮人集落を狙った匪賊の襲撃事件は引きを切らなかった。関東軍は吉林出兵を最後に、大規模な軍事行動へはひと区切りを付けた――。とは言うものの、今なお各地に出没する匪賊討伐のために東奔西走している。
事態はまったく収まっていないのだが、匪賊討伐は比較的地味だったから事変報道には一服感が見られた。そこで大毎本社は、奉天支局へ送った援軍を三々五々帰国させることにした。気づいてみれば、続々と内地から駆け付けた応援部隊のなかで残ったのは、洸三郎ただ一人となった。
「満洲事変を現場で取材できる」――。そんな期待に胸を膨らませて奉天へとやって来た彼だったが、赴任初日に公会堂で日本人大会を取材したのを最後に、外へ出る機会はとんとなくなった。あれ以来、支局の電信課に籠って同僚の記者や連絡員たちが持ち込んでくる原稿を頼信紙※へ転記する作業に明け暮れる日々を送っている。
※頼信紙=電報を打つときに電文を書く所定の用紙。
♪後から来たのに追い越され……。
自分より後から来た記者たちが今日はどこ、明日はどこと、現場を飛び回っては記事を上げてくる。それを横目に彼のところへは一向にお鉢は回ってこなかった。そんな同僚たちも、一人、また一人と帰って行った。
小学生の頃、彼はこんな作文を書いたことがある。
「僕は今大臣になろうとも、大将になろうとも思っていません。ただ中学生になりたいと思っています。中学から高等学校へ、そして大学へと、段々に人の望みは進んでいくものでしょう。僕は一歩一歩と進んでいくつもりです。一足飛びに大臣や大将になろうと思っても駄目でしょう。だから今は小さな望みしか持っていません」
立身出世こそが人生最大の目的とされていた時代である。同級生はいずれも“末は博士か大臣か”とばかりに野心的な夢物語を綴ったが、洸三郎だけはまるで“一隅を照らす”といった心境を書いて大人たちを苦笑いさせた。
では、と言って今の境遇にある彼が「立派な電信員になる」とでも言ったかというと、さすがにそれはない。彼は先ず一人前の記者になりたかったのだから……。
そんな洸三郎を電信課へ籠らせたのは、「“三代目”の身にもしものことがあっては」と案じる三村の“親心”であった。当人にとって甚だ迷惑な話だが、大人の事情というやつが邪魔をして、洸三郎はまだ「小さな望み」をすらつかみ損ねていた。
「ひょうたんよぉ、そろそろ現場へ出してくれるよう支局長に言ってみてくれんかのぉ」
原稿を持ち込んできた旧知の田中香苗を相手に、洸三郎は愚痴をこぼした。
ある程度の我慢は覚悟していたものの、こう来る日も来る日も原稿用紙の上で“のたくる”文字と、頼信紙の睨めっこでは気が滅入る。まさか布施部長もそのつもりで自分を奉天へ送り出した訳ではあるまい。現場へ出られないもどかしさは日に日に募り、逸る気持ちだけが先走っていった。
「俺の口からそんなこと言える訳ないやろ。そう腐らんと、これ、頼むで」
そう言って洸三郎の手に原稿を押し込むと、振り向きざまにこう付け加えた。
「あとでメシでも食いに行こうや」
そしてそのまま、いそいそと下の階へ戻っていった。
田中にしても洸三郎の気持ちは痛いほど分かる。逆の立場だったらと思えばなおさらだ。だが田中自身も支局の中ではまだ新参者の部類である。とてもポンと胸を叩いて請け合える立場にはなかった。
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