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第五章(乱石山)
第五章第二節(電信課2)
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二
事変の直後こそ往来の途絶えた春日通りだが、さすがに奉天随一の繁華街とあって人の戻りは早かった。今ではすっかり元の賑わいを取り戻している。二人は行きつけのカフェーヘ入った。
洸三郎はここのカツレツが好きだ。西洋料理のカツレツが東京・上野でやや姿を変え、茶碗飯とみそ汁に漬物を添える和食の「とんかつ」になるのは昭和四年のこと。これが全国へ広がり一大ブームとなったのが昭和七年頃の話である。満州事変初期の奉天で洸三郎が食べたのが果たしてどちらのカツだったかは、いまいちはっきりしない。
「今朝、気になる原稿を目にしての」
揚げたてのカツをほおばりながら洸三郎が切り出した。取材現場には出られない代わり、電信課へは支局管内の各通信員たちから様々な情報が集まってくる。洸三郎がそれらすべてに目を通す訳ではないものの、現場の田中よりははるかに情報に通じている。
「なんや、何か面白いネタでも聞かしてもらえるんかい」
田中はカレーライスに添えられた福神漬けをポリポリ噛みながら、洸三郎の話に耳を傾けた。
「うん、撫順からなんやけど……。炭鉱に勤務する満鉄社員が坑区を巡視中に華人の野菜畑に差し掛かったんや。すると、ちょうど作物の刈り入れどきでの。それはそれは見事な白菜だったそうや」
洸三郎は箸を止め、まるで自分が見てきたことのように話し始めた。田中の方は耳だけ貸しているといった風にせっせとスプーンを口に運んでいる。
「あんまり見事な白菜だったもんやから、満鉄社員は『それ、売らんか』と尋ねたそうや。ところが農夫の方は先約があるからといって申し出を断った……」
田中は手を止めず、「それから?」という代わりに洸三郎を一瞥した。
「断られた満鉄社員の方は気分が悪い」
洸三郎はそこで再び箸を動かし、カツを一切れ口へ放り込んだ。うまそうにモグモグ口を動かしている間、しばし話が途切れた。
「何や、もったいぶらずに早よ言えや」
今度は田中が先を促したが、洸三郎はわざとじらすように、さらに茶碗の飯を一口ほおばった。先に食べ終えた田中はコップの水を飲み干し、タバコに火をつけた。
「そこで腹いせや。付近に貼ってあった本庄司令官の布告文が風で破れていたのにかこつけて、『華人農夫が破った、破った』と騒ぎ立てた。しかも農夫を縛り上げて憲兵隊へ突き出したんやと」
「ゲスな奴や」
田中は吐き捨てるように言った。ドライな言い方だったが興味を惹かれたようだった。
「そうやろ。しかもそんなケチなことしてもすぐバレる。今度は満鉄の男の方が憲兵隊からこっぴどく絞られたんやと」
洸三郎は話しながら寂しそうな顔をした。
「事変が起こるまでは華人がデカい面して街ん中のさばっておったけど、ひとたび関東軍が動き出したら、今度は軍隊の力を笠に着て、日本人の方が肩で風切るようになった……。今の話はその一例に過ぎん」
田中は腕を組んだまま何も言わずに煙草を深く吸い込むと、フゥーっと大きく吐き出し遠くを見やった。洸三郎の方も話はそれでおしまいといった体で、せっせと箸を動かした。
事変の直後こそ往来の途絶えた春日通りだが、さすがに奉天随一の繁華街とあって人の戻りは早かった。今ではすっかり元の賑わいを取り戻している。二人は行きつけのカフェーヘ入った。
洸三郎はここのカツレツが好きだ。西洋料理のカツレツが東京・上野でやや姿を変え、茶碗飯とみそ汁に漬物を添える和食の「とんかつ」になるのは昭和四年のこと。これが全国へ広がり一大ブームとなったのが昭和七年頃の話である。満州事変初期の奉天で洸三郎が食べたのが果たしてどちらのカツだったかは、いまいちはっきりしない。
「今朝、気になる原稿を目にしての」
揚げたてのカツをほおばりながら洸三郎が切り出した。取材現場には出られない代わり、電信課へは支局管内の各通信員たちから様々な情報が集まってくる。洸三郎がそれらすべてに目を通す訳ではないものの、現場の田中よりははるかに情報に通じている。
「なんや、何か面白いネタでも聞かしてもらえるんかい」
田中はカレーライスに添えられた福神漬けをポリポリ噛みながら、洸三郎の話に耳を傾けた。
「うん、撫順からなんやけど……。炭鉱に勤務する満鉄社員が坑区を巡視中に華人の野菜畑に差し掛かったんや。すると、ちょうど作物の刈り入れどきでの。それはそれは見事な白菜だったそうや」
洸三郎は箸を止め、まるで自分が見てきたことのように話し始めた。田中の方は耳だけ貸しているといった風にせっせとスプーンを口に運んでいる。
「あんまり見事な白菜だったもんやから、満鉄社員は『それ、売らんか』と尋ねたそうや。ところが農夫の方は先約があるからといって申し出を断った……」
田中は手を止めず、「それから?」という代わりに洸三郎を一瞥した。
「断られた満鉄社員の方は気分が悪い」
洸三郎はそこで再び箸を動かし、カツを一切れ口へ放り込んだ。うまそうにモグモグ口を動かしている間、しばし話が途切れた。
「何や、もったいぶらずに早よ言えや」
今度は田中が先を促したが、洸三郎はわざとじらすように、さらに茶碗の飯を一口ほおばった。先に食べ終えた田中はコップの水を飲み干し、タバコに火をつけた。
「そこで腹いせや。付近に貼ってあった本庄司令官の布告文が風で破れていたのにかこつけて、『華人農夫が破った、破った』と騒ぎ立てた。しかも農夫を縛り上げて憲兵隊へ突き出したんやと」
「ゲスな奴や」
田中は吐き捨てるように言った。ドライな言い方だったが興味を惹かれたようだった。
「そうやろ。しかもそんなケチなことしてもすぐバレる。今度は満鉄の男の方が憲兵隊からこっぴどく絞られたんやと」
洸三郎は話しながら寂しそうな顔をした。
「事変が起こるまでは華人がデカい面して街ん中のさばっておったけど、ひとたび関東軍が動き出したら、今度は軍隊の力を笠に着て、日本人の方が肩で風切るようになった……。今の話はその一例に過ぎん」
田中は腕を組んだまま何も言わずに煙草を深く吸い込むと、フゥーっと大きく吐き出し遠くを見やった。洸三郎の方も話はそれでおしまいといった体で、せっせと箸を動かした。
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