59 / 466
第四章政略
第四章第五節(奉天総領事2)
しおりを挟む
五
以上は、『片倉日誌』に基づき関東軍側から見た両者の会話である。
片や林久治郎総領事も、東京の外務省へ宛てて同じやりとりを報告している。こちらにならえば、話はこうなる。
「いやぁ、今回の件では何かとお騒がせいたしております」
林総領事を訪ねてきた三宅参謀長と片倉大尉は、応接のソファに小さく収まりながら、ばつの悪そうな顔で来訪の意図を告げた。一連の軍の行動に関して、総領事の理解を得たいというのがその趣旨であった。
「撫順の中隊につきましては……」
三宅はあくまで通常の訓練の一環に過ぎなかったとして、くだくだ弁解がましい話をしたが、撫順守備隊の動きは明らかに不自然だった。三宅の話にも矛盾するところが散見され、突っ込みどころは満載である。だが事がいったん収まった以上、敢えて問題に取り上げることもなかろう。ここは“武士の情け”で見逃してやってもいい。
「まあ、過ぎたことですから――。今さらどうとなる訳でもなし」
総領事は腕組みをしたまま、取り敢えず二人の話を聞き置くにとどめた。
ところが軍服姿の二人はまだ腹に何かを抱えているようで、居住まいを正すと許しを請うような口調で話を続けた。
「実は……、総領事もご承知の通り、ハルビン方面と吉林方面の情勢がすこぶる悪化しております。居留民の安全を確保するためにも……」
「再び軍を出動させるということですか?」
林は機先を制して、強い口調で問い返した。
「いやっ、そっ、そのっ……、まだその可能性があると申しているだけでして……」
二人はさらに身を小さくして口をつぐんだ。ハルビンの大橋忠一領事からは、居留民の安全を確保するため是非とも軍を寄こしてほしいと要請してくるが、大元締めの了解が得られなければ動こうにも動けない。
総領事はその立場を誇示するように、二人へ釘を刺した。
「ご承知かと思いますが、すでに政府は事件を拡大させない方針を内外に発しています。お申し出のことは政府の方針に背馳するものにほかなりません」
総領事は「政府方針」の殺し文句を武器に、反論の余地をふさいだ。
「もしこの先、居留民に危害がおよぶようなことがあれば、軍が出動して現地でこれを保護するのではなく、できるだけ居留民を非難させるよう仕向けるのが妥当かと思いますが」
「……」
政府方針と言われればぐうの音も出ない。二人はすごすご引き下がるしかなかった。
翌朝、まだ自宅にいた林は領事館員からの電話で起こされた。長春に待機していた関東軍が吉林へ向けて移動したとの知らせだった。
「面従腹背」――。この言葉がよぎった。軍隊が勝手に動き出したのを、外交は“実力行使”で止められない。それでも政府の方針に背いた以上は、必ず責任をとってもらう。林は早速、本庄司令官に会見を求めた。
本庄司令官はアッケラカンといった表情で総領事を迎えた。その風采は凡庸で、とても重大事を取り仕切っている人のようには見えなかった。
「この人は事の重大さを分かっているのだろうか?」
そんな印象すら浮かんだ。目先のことにしか頭が回らない“単細胞”の軍人へ、今回の事件がいかに深刻な国際問題を惹き起こしているかを説き、政府方針に従うべき義務を訴えた。
すると軍司令官はひとことも反論せず、「もちろんです」と言って大きくうなずいたではないか。
それでいながら関東軍は、青年聯盟と一緒になって電力や鉄道、銀行といった満洲のライフラインを牛耳り、武力によらない占領を着々と進めている。むしろ彼らこそが、反政府運動を焚きつけているとの噂が引きも切らない。
軍部が満洲の内政へ干渉したとあっては、それが新たな火種となるのは請け合いだ。林は再度軍司令官を訪ね、注意を促した。すると今度も本庄司令官は、「仰せの通りです。注意しましょう」と言って相づちを打った。
林の忠告にもかかわらず軍を吉林へ進めた参謀連中といい、暖簾に腕押しの軍司令官といい、面従腹背の輩を現地で制御するにも限度がある。ここは政府中央で統率してもらうに限る。
林は早速、幣原外相へ宛て「軍の動きに掣肘を加えてくれるよう」要請した。
以上は、『片倉日誌』に基づき関東軍側から見た両者の会話である。
片や林久治郎総領事も、東京の外務省へ宛てて同じやりとりを報告している。こちらにならえば、話はこうなる。
「いやぁ、今回の件では何かとお騒がせいたしております」
林総領事を訪ねてきた三宅参謀長と片倉大尉は、応接のソファに小さく収まりながら、ばつの悪そうな顔で来訪の意図を告げた。一連の軍の行動に関して、総領事の理解を得たいというのがその趣旨であった。
「撫順の中隊につきましては……」
三宅はあくまで通常の訓練の一環に過ぎなかったとして、くだくだ弁解がましい話をしたが、撫順守備隊の動きは明らかに不自然だった。三宅の話にも矛盾するところが散見され、突っ込みどころは満載である。だが事がいったん収まった以上、敢えて問題に取り上げることもなかろう。ここは“武士の情け”で見逃してやってもいい。
「まあ、過ぎたことですから――。今さらどうとなる訳でもなし」
総領事は腕組みをしたまま、取り敢えず二人の話を聞き置くにとどめた。
ところが軍服姿の二人はまだ腹に何かを抱えているようで、居住まいを正すと許しを請うような口調で話を続けた。
「実は……、総領事もご承知の通り、ハルビン方面と吉林方面の情勢がすこぶる悪化しております。居留民の安全を確保するためにも……」
「再び軍を出動させるということですか?」
林は機先を制して、強い口調で問い返した。
「いやっ、そっ、そのっ……、まだその可能性があると申しているだけでして……」
二人はさらに身を小さくして口をつぐんだ。ハルビンの大橋忠一領事からは、居留民の安全を確保するため是非とも軍を寄こしてほしいと要請してくるが、大元締めの了解が得られなければ動こうにも動けない。
総領事はその立場を誇示するように、二人へ釘を刺した。
「ご承知かと思いますが、すでに政府は事件を拡大させない方針を内外に発しています。お申し出のことは政府の方針に背馳するものにほかなりません」
総領事は「政府方針」の殺し文句を武器に、反論の余地をふさいだ。
「もしこの先、居留民に危害がおよぶようなことがあれば、軍が出動して現地でこれを保護するのではなく、できるだけ居留民を非難させるよう仕向けるのが妥当かと思いますが」
「……」
政府方針と言われればぐうの音も出ない。二人はすごすご引き下がるしかなかった。
翌朝、まだ自宅にいた林は領事館員からの電話で起こされた。長春に待機していた関東軍が吉林へ向けて移動したとの知らせだった。
「面従腹背」――。この言葉がよぎった。軍隊が勝手に動き出したのを、外交は“実力行使”で止められない。それでも政府の方針に背いた以上は、必ず責任をとってもらう。林は早速、本庄司令官に会見を求めた。
本庄司令官はアッケラカンといった表情で総領事を迎えた。その風采は凡庸で、とても重大事を取り仕切っている人のようには見えなかった。
「この人は事の重大さを分かっているのだろうか?」
そんな印象すら浮かんだ。目先のことにしか頭が回らない“単細胞”の軍人へ、今回の事件がいかに深刻な国際問題を惹き起こしているかを説き、政府方針に従うべき義務を訴えた。
すると軍司令官はひとことも反論せず、「もちろんです」と言って大きくうなずいたではないか。
それでいながら関東軍は、青年聯盟と一緒になって電力や鉄道、銀行といった満洲のライフラインを牛耳り、武力によらない占領を着々と進めている。むしろ彼らこそが、反政府運動を焚きつけているとの噂が引きも切らない。
軍部が満洲の内政へ干渉したとあっては、それが新たな火種となるのは請け合いだ。林は再度軍司令官を訪ね、注意を促した。すると今度も本庄司令官は、「仰せの通りです。注意しましょう」と言って相づちを打った。
林の忠告にもかかわらず軍を吉林へ進めた参謀連中といい、暖簾に腕押しの軍司令官といい、面従腹背の輩を現地で制御するにも限度がある。ここは政府中央で統率してもらうに限る。
林は早速、幣原外相へ宛て「軍の動きに掣肘を加えてくれるよう」要請した。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
【新作】1分で読める! SFショートショート
Grisly
ファンタジー
❤️⭐️感想お願いします。
1分で読める!読切超短編小説
新作短編小説は全てこちらに投稿。
⭐️忘れずに!コメントお待ちしております。
意味が分かると怖い話(解説付き)
彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです
読みながら話に潜む違和感を探してみてください
最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください
実話も混ざっております
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
クラスメイトの美少女と無人島に流された件
桜井正宗
青春
修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。
高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。
どうやら、漂流して流されていたようだった。
帰ろうにも島は『無人島』。
しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。
男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる