風紋(Sand Ripples)~あの頃だってそうだった~

宗像紫雲

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第五章(乱石山)

第五章第八節(初陣1)

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                 八

 えんもたけなわという頃、仲居頭なかいがしらが入ってきて何かの書き込みを三池へ渡した。支局からの急報である。
 事変後、瀋海線しんかいせんの西方に連なる山岳地帯へと逃げ込み息をひそめていた敗残兵が、王以哲おういてつ将軍の招集命令に応じて乱石山らんせきざん方面へ出没した。そこで関東軍と交戦状態に入ったのだという。

 三池はすぐさま、田中と西村へ支局に戻るよう指示した。二人は名残惜しそうに席を立つと、片手を上げて「お先にっ」の挙手きょしゅをした。
「僕も行きますっ!」
 宴席えんせきの中から突然声がして、洸三郎が立ち上がった。先刻の岡崎の放言がよほど腹に据えかねたか、「文句があるなら矢でも鉄砲でも持ってこいっ!」と言わんばかりの顔をしている。ばちとも言えるその気迫きはくに押され、周囲はただ唖然あぜんとするばかりだった。
 三池にしてみれば当然、面白くない。自分の親心を知らずに後ろ足で砂を引っかけるつもりか――との思いすらよぎった。しかも本社の上役の前で……、当てつけにもほどがある。支局長は遠慮会釈のない渋面じゅうめんをつくって睨んでやったが、洸三郎の方も負けじとばかりに睨み返してきた。両者一歩も引かない睨み合いが続き、宴席に緊張が走った。その様子を主賓席の二人は面白そうに眺めている。田中と西村は宴会場から出るに出られなくなった。

「よぉしっ!行けっ、行ってこいっ!」
 ほとんどろれつの回らない口調で誰かが叫んだ。
 岡崎だった。
 一瞬だけそちらへ向けられたみんなの目は、すぐに三池の方へと転じて、無言のまま「行かせてやってほしい」と訴えかけた。三池はその目を浴びつつ洸三郎と主賓の二人を交互に見やり、仕方なさそうにあごで「行けっ」と合図を送った。

 支局への道すがら、洸三郎は田中に絡むようにしつこくせがんだ。
「なあ、ひょうたんよぉ、頼むわ。どうもみんなあぶながってオレを前線に出してくれんのよぅ」
 田中は洸三郎に留守番をさせて西村と二人で出かけるつもりだったが、洸三郎は自分に行かせろと言い張った。三池と睨み合ってまで出てきたのだ。とても留守番なんかで収まりそうもなかった。巨躯きょくを揺らしてすがりつく同僚に手を焼きながら、先輩の西村に打診してみた。
「どないします?」
「構わんちゃうか」
 西村は案外あっさりと承認した。
「誰にも初めてはあるもんや。可愛い子には旅をさせろって。どや、ひとつ、独りで行ってみるか? 連絡員つけたるさかい」
 洸三郎の胸は高鳴った。このひと月あまりの間思い描いてきた場面が、不意に天から降ってきたのだ。
「おおきに。ありがとざんすっ!」
 
 宙をも舞う気持ちで支局へ戻り、ザラ紙の原稿用紙を引っつかむと、出口へ急いだ。
「行ってきまぁす」
 小学生のように出て行った洸三郎を見送った連絡員は、「ホンマに大丈夫でっか?」と言いたげな視線を投げかけてきた。そして期待した反応が返ってこないと悟るや、重い腰を上げて自分も出ていった。連絡員が出ていったのとほとんど入れ違いに、洸三郎が「鉛筆、エンピツっ」とつぶやきながら入ってきた。
「どうした。早う行けや」
 ひょうたんにはやし立てられてちょっとはにかんだ洸三郎は、壁に貼られた満洲の地図の方を向いてこう言った。
「乱石山ってどこや?」

 田中と西村は呆れたように顔を見合わせた。
「どこでもええがな、とにかく駅へ行けば軍用列車が連れたってくれる」
 洸三郎が出て行き、しんと静まり返った支局にはカタカタとタイプのキーを打つ音だけが鳴り渡った。 
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