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第六章(十月理事会)
第六章第四節(施肇基代表)
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四
九月の理事会が閉会すると、芳澤やレルー議長のように本来の任地や役職を持つ代表たちは、次々とジュネーブを離れていった。その一方で専任職の理事たちは同地へ留まり、聯盟事務局と水面下の交渉を継続した。
民国代表の施肇基博士もその一人で、七日にはエリック・ドラモンド事務総長と会談をした。
「祖国が貪欲な帝国主義の犠牲になって蚕食されていくのを、成すすべもなく座視するしかないというのは誠に忍びないものです」
「はて、どうかされましたか、ドクター・ジー?」
施肇基の英語名は「アルフレッド・サオ=ケ・ジー」となる。二人の親密度合いによっては「フレッド」、「リック」と呼び合ったかも知れないが、ここでは外交官としての敬意を込めて「ドクター・ジー」と呼ぶことにする。
「ええ、本国からの知らせによると、日本側が満洲に新たな鉄道を建設しはじめたとのことです。聯盟理事会の皆さまが私ども小国を突き放し、大国のお仲間と馴れ合っておられる間に、我が祖国は蹂躙され、バラバラに切り裂かれようとしているのです」
「それは穏やかではありませんな。聯盟は決して大国の仲良しクラブなどではない。それにドクター、本職の耳に届く限りでは、そのような報道は認識しておりません」
いわゆる列強諸国が常任理事の座を占める国際聯盟に対して、小国の代表たちは「所詮、大国の利益のために働く機関にすぎない」との不満を常に抱いていた。聯盟としてもそのような評判が広まるのは面白くないので、極力“腫れ物を触る”態度で小国に接してきた。施肇基はその力関係を巧みに利用し、敢えてあてつけがましい言い方で事務総長の機先を制した。
ドラモンドは相手側の言い分を真に受けて“判官びいき”に走ってもつまらないからと、いったんは施肇基の話を受け流した。だがこの場合は施肇基の方が一枚上手だった。ドラモンドがよけた“水たまり”の先にしっかりと落とし穴を掘っていた。
「そこなのです。奉天の日本軍は外国の通信員に対する検閲を強めており、現地から真実の声が伝わらないようにしています。満洲の自由と国際秩序を恢復させるためにも、早急に理事会を開催していただきたい」
施肇基の訪問の用向きは、十月十四日に予定されている理事会を是非とも開催すべきだということであった。
これまでのことを振り返るならば、施肇基代表が持ち込んでくる情報は信ぴょう性の疑わしいものが少なくない。だが本庄繁司令官の声明といい、日本軍機による錦州爆撃といい、九月三十日の決議でいったんは収まった国際輿論をふたたび沸騰させるような出来ごとが相次いでいる点は、自分も憂慮している。思案する事務総長を追い込むように、施肇基はつづけた。
「そればかりではありません。上海からの報道によりますと、日本は駆逐艦四隻を上海へ派遣したといいます。事態は満洲にとどまらず、いよいよ上海へまで拡大しようとしているのです」
揚子江方面の情勢悪化については、南京のライヒマンからも確かに「南京政府には輿論の激高を抑える力はなく、排日運動はいまや日本に対する戦争と化そうとしている」との知らせが届いている。
「すでに日本軍は陸戦隊百五十人を浦東へ上陸させたといいます」
「分かりました。まあ、とにかく日本側へ善処するよう伝えましょう」
いずれの情報も定かではないが、こうのべつ幕なしに言い立てられたら軽くいなすだけという訳にもいかない。施肇基はなおも「早急に理事会の開催を」と食い下がったが、事務総長はそれ以上の言質を与えなかった。
「むしろ……」
事務総長は急に矛先を転じて、民国側に排日ボイコットを収束させるよう苦言を呈した。まさか自分が矢面に立たされるとは思ってもみなかった施肇基は、返す言葉を失ってすごすごと引き下がった。
その日、事務総長は杉村公使を呼び出して関東軍をできるだけ早く鉄道付属地内へと戻すよう求める『覚書』を手渡す。それと同時に南京へ向けては、排日ボイコットを取り締まるよう求めた。
九月の理事会が閉会すると、芳澤やレルー議長のように本来の任地や役職を持つ代表たちは、次々とジュネーブを離れていった。その一方で専任職の理事たちは同地へ留まり、聯盟事務局と水面下の交渉を継続した。
民国代表の施肇基博士もその一人で、七日にはエリック・ドラモンド事務総長と会談をした。
「祖国が貪欲な帝国主義の犠牲になって蚕食されていくのを、成すすべもなく座視するしかないというのは誠に忍びないものです」
「はて、どうかされましたか、ドクター・ジー?」
施肇基の英語名は「アルフレッド・サオ=ケ・ジー」となる。二人の親密度合いによっては「フレッド」、「リック」と呼び合ったかも知れないが、ここでは外交官としての敬意を込めて「ドクター・ジー」と呼ぶことにする。
「ええ、本国からの知らせによると、日本側が満洲に新たな鉄道を建設しはじめたとのことです。聯盟理事会の皆さまが私ども小国を突き放し、大国のお仲間と馴れ合っておられる間に、我が祖国は蹂躙され、バラバラに切り裂かれようとしているのです」
「それは穏やかではありませんな。聯盟は決して大国の仲良しクラブなどではない。それにドクター、本職の耳に届く限りでは、そのような報道は認識しておりません」
いわゆる列強諸国が常任理事の座を占める国際聯盟に対して、小国の代表たちは「所詮、大国の利益のために働く機関にすぎない」との不満を常に抱いていた。聯盟としてもそのような評判が広まるのは面白くないので、極力“腫れ物を触る”態度で小国に接してきた。施肇基はその力関係を巧みに利用し、敢えてあてつけがましい言い方で事務総長の機先を制した。
ドラモンドは相手側の言い分を真に受けて“判官びいき”に走ってもつまらないからと、いったんは施肇基の話を受け流した。だがこの場合は施肇基の方が一枚上手だった。ドラモンドがよけた“水たまり”の先にしっかりと落とし穴を掘っていた。
「そこなのです。奉天の日本軍は外国の通信員に対する検閲を強めており、現地から真実の声が伝わらないようにしています。満洲の自由と国際秩序を恢復させるためにも、早急に理事会を開催していただきたい」
施肇基の訪問の用向きは、十月十四日に予定されている理事会を是非とも開催すべきだということであった。
これまでのことを振り返るならば、施肇基代表が持ち込んでくる情報は信ぴょう性の疑わしいものが少なくない。だが本庄繁司令官の声明といい、日本軍機による錦州爆撃といい、九月三十日の決議でいったんは収まった国際輿論をふたたび沸騰させるような出来ごとが相次いでいる点は、自分も憂慮している。思案する事務総長を追い込むように、施肇基はつづけた。
「そればかりではありません。上海からの報道によりますと、日本は駆逐艦四隻を上海へ派遣したといいます。事態は満洲にとどまらず、いよいよ上海へまで拡大しようとしているのです」
揚子江方面の情勢悪化については、南京のライヒマンからも確かに「南京政府には輿論の激高を抑える力はなく、排日運動はいまや日本に対する戦争と化そうとしている」との知らせが届いている。
「すでに日本軍は陸戦隊百五十人を浦東へ上陸させたといいます」
「分かりました。まあ、とにかく日本側へ善処するよう伝えましょう」
いずれの情報も定かではないが、こうのべつ幕なしに言い立てられたら軽くいなすだけという訳にもいかない。施肇基はなおも「早急に理事会の開催を」と食い下がったが、事務総長はそれ以上の言質を与えなかった。
「むしろ……」
事務総長は急に矛先を転じて、民国側に排日ボイコットを収束させるよう苦言を呈した。まさか自分が矢面に立たされるとは思ってもみなかった施肇基は、返す言葉を失ってすごすごと引き下がった。
その日、事務総長は杉村公使を呼び出して関東軍をできるだけ早く鉄道付属地内へと戻すよう求める『覚書』を手渡す。それと同時に南京へ向けては、排日ボイコットを取り締まるよう求めた。
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