風紋(Sand Ripples)~あの頃だってそうだった~

宗像紫雲

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第六章(十月理事会)

第六章第五節(風紋)

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                 五

 九月の理事会は、日本政府が「在満邦人の生命財産の安全が確保されるならば、満鉄附属地外へ出動した軍隊は全て撤兵する」と公約したことで、結論を先延ばしにしたかたちとなった。
 だがこれはあくまで問題のであって解決ではない。民国の側に言わせれば、「日本軍の撤兵が完了しないから国民の対日感情が好転せず、日本人の生命財産の安全も守れないのだ」との論も立つ。それではいつまでも議論が堂々巡どうどうめぐりの水掛みずかけ論に陥ってしまう。
 次回の理事会では、もう一歩踏み込んだ戦略を立てる必要がある。

 物事には必ず、「コーズ(原因)」があって「ケース(結果)」が伴う。どんな国にとっても軍事行動は、平和裏な交渉が行き詰まってどうにもならなくなった時にる、最終手段である。コーズを軽視してケースにばかり着目すれば、当然、関東軍の行動のみが浮き上がる。「とにかく事態を収拾しろ」とこうあせる聯盟が陥ったのは、ここの問題である。

 そもそも満洲事変が起こったのは、張作霖ちょうさくりん学良がくりょう政権と続いた長年の条約無視と、華人官憲かじんかんけんらによる非道な振る舞いに対する居留民の怒りが積もり積もった果てのことではないか。この「コーズ」に触れずして、日華両国に横たわる複雑な問題を解決することなどできようはずもない。
 芳澤はもし次回の理事会が開催されたならば、満蒙問題の根底に横たわる「条約の尊重」という議論に立脚した論陣ろんじんを張り、日本の立場を広く世界に知らしめるべきだとの私案を、幣原外相へ送った。

 芳澤がこだわったことが、もうひとつある。
 中華民国は依然四分五列しぶごれつして治安も定まらず、国家としての体裁ていさいすら成していない。中央政府に対する国民の信頼は無きにひとしい。
 ぞくに「中国何千年の歴史」というが、そもそも中華大陸においては北方騎馬民族ほっぽうきばみんぞくだの蒙古人もうこじんだの、南方の漢族かんぞくだのと、三、四百年ごとに異なる民族が入れ替わり立ち代わり、勃興ぼっこうしては滅亡するという、“破壊”と“再生”を繰り返してきた。西洋人はそれを単なる「王朝の変更」と解釈し、この国の歴史を一本の線で結ぼうとする。だがそもそも民族が入れ替わるのだから、これを同じ線で結ぶなどいくら何でも無理がある。
 それでも……、だ。

 この大陸の歴史のどの時代を通じても、結局ここには「中華ちゅうか」という単一で強固なアイデンティティーが息づいてきた。たとえ民族がごっそり入れ替わり、前の民族が根絶ねだやしになろうとも、新たにこの地に入った者はやがて必ず「中華」のアイデンティティーをまとうようになる。それはまるで、明日になれば姿かたちをすっかり変えてしまうにもかかわらず、何となく平然とそこにあり続ける、“実態”があるようなないような、それでいて確かに“実存”する、「砂漠の風紋ふうもん」のようなものなのだ。
 だから、北平ほくへいの張学良や南京の蒋介石を敵視して攻撃するのは一向に差支えないが、大陸に暮らす四億のたみを敵に回すのは、くれぐれも避けるべきである。つまり、「条約尊重論」と「民衆を敵に回さないこと」が、次回理事会へ向けた芳澤の基本的考えであった。

 芳澤の具申に折り返して、幣原外相から政府方針案が届いた。事変の不拡大という既定方針に変わりはないのだそうだ。

 「帝国政府は当初から事態を拡大させないよう努めるとともに、日華間の直接交渉によって円満解決を図る一方、付属地外に出動した軍隊は満洲における鉄道および日本臣民の生命財産の確保を前提に撤兵する」

 確かに政府はこの方針を堅持けんじするため、ハルビンの情勢悪化が伝えられた際にも居留民保護を名目に現地へ軍隊を派遣するのではなく、居留民の引き揚げという政策をとった。間島かんとう方面の治安を回復するために吉林きつりんへと出た第二師団に対しても、一部の留守する部隊を除きすべて長春へ帰還させた。
 それにもかかわらず、揚子江ようすこう流域の諸都市ではますます排日が激しさを増し、取り締まりは何らの実効を上げていない。幣原外相は「民国側は事態の拡大を一向にうれえていないようで、まったく理解に苦しむ」と不満を漏らした。
 これらを踏まえて日本政府は次の方針で事態の解決に臨むという。

 「早急に日華直接交渉を開始して両国民間の感情の対立を緩和させ、次いで事件自体を解決するのみならず、事件を誘発した根本原因を取り除き、将来に禍根かこんを残さないようにする」
 
 つまりは聯盟を当てにせず、当事者どうしで新たな交渉を開始する意向なのだそうだ。
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