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第六章(十月理事会)
第六章第九節(ドラモンド総長1)
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九
十一日の晩、パリを発ちジュネーブへと向かう日本代表部一行は、リヨン駅で奇遇にも英国代表団とばったり鉢合わせした。
こちらの一団を率いるのは、八月の総選挙で新たに就任したレディング外相である。芳澤は新外相へ慇懃に挨拶をすると、顔見知りのチレル大使を捕まえて、「ジュネーブへ行ったら民国側の宣伝に満ちた主張など完膚なきまでに論破するつもりだ。そもそも今回の問題は彼の国の治安の乱れに端を発したのだから!」と意気込んでみせた。
ジュネーブへ着くなり芳澤は、旅装を解く間もなく沢田を伴ってドラモンド事務総長を訪ねた。
錦州爆撃を受けて対日姿勢を硬化させている事務総長を前に、日本政府はあくまで事変を拡大させない方針であり、自国民の生命財産の安全が確保されるならばいつでも撤退する意向であると伝えた。それに加えて、事変の背景にある日華の根深い問題を解決するには、どうしても両国の直接交渉が必要だとも説いた。
ドラモンド総長はそのひとつひとつに頷き、「芳澤理事のおっしゃることは良くわかります」と、旧知の者に寄せる同情を示した。
「ただ……」
事務総長はやや表情を引き締め、芳澤と澤田を交互に見やった。
「幣原外相の『回答』を何度も読み返しましたが、とても民国側が承諾するとは思えません」
ドラモンド総長が「回答」と称したのは、民国の蒋作賓駐日公使から届いた十月五日付の書簡に対する、日本側の逆提案を指した。
「日本軍が撤退し、民国側から派遣する部隊と引継ぐ云々」と“しれ事”を言ってきたのに対し、「両国の平常な関係を確立する基礎となるべき、数点の『大綱』を協定するのが先決だ」と返した、あの文面である。
「九月の理事会に際して、日本政府は日華直接交渉と撤兵問題は全く別問題であると明言されました。我々はここに解決の糸口を見いだせると期待したのです……」
確かに日本側は一貫して「自国臣民の生命財産の安全確保」さえ図られるのならば、いつでも撤兵すると公言した。先ほども述べたように、この点では一点の曇りもない。
「それが今になって、『撤兵』より先に『交渉』が必要だとのことです。幣原男爵のおっしゃる『数点の大綱』とは果たして如何なるものでしょうか?」
どうも事務総長は、幣原外相がこの度提唱してきた「大綱締結」の交渉と、条約を巡る日華直接交渉を混同しているようだった。
九月三十日の理事会決議に際して、ドラモンドの腹の中にあったのは撤兵を先に行わせ、そのあとで日華両国が既存条約に関する直接交渉に入るという段取りだった。そこへ持ってきて「撤兵の前提となる何らかの交渉が必要だ」と言い出したから、混乱が生じた。
「日本側は生命財産の安全を条件に撤兵すると言い、民国側はとにかく日本軍の撤退が先だという。これではいつまでも堂々巡りの水掛け論に終わってしまいます。どこかに妥協点を探らねばなりません」
ドラモンドはともかく結論を急いでいるようだった。「日本側が民国を信頼して日本人の生命財産の安全を先方へ委ね、撤兵するという訳にはいかないものか」とも打診してきた。加えて、「『日本軍がいる限り民国は現地へ軍隊を送れず、治安維持の任にも当たれない』という、施肇基代表の主張にも頷けるものがある」と、暗に日本側の譲歩を求めてきた。
「口先で安全を云々するのはたやすいが、実行を伴わなくては意味がない! 現に今のような情勢で民国の兵を満洲へ入れたら、却って事故が起こるのは目に見えています」
この点では日本側も折れないつもりだ。いつしか芳澤の語気は荒くなっていた。
「そうして結局、堂々巡りに戻る訳ですな--」
事務総長は処置なしといった風に肩をすかせた。
「総長がおっしゃる通り堂々巡りですが、そうしたジレンマから脱するためにも、先ずは両国の国民感情を和らげる必要があるかと思考します。それこそが幣原外相の言う、『両国による相互理解の基礎をなすための直接交渉を通じた協定締結』なのです」
芳澤に沢田が加勢した。ドラモンドの言い分はあまりにも民国側に偏り過ぎだ。恐らく南京のライヒマンあたりから相当吹き込まれたのだろう。
十一日の晩、パリを発ちジュネーブへと向かう日本代表部一行は、リヨン駅で奇遇にも英国代表団とばったり鉢合わせした。
こちらの一団を率いるのは、八月の総選挙で新たに就任したレディング外相である。芳澤は新外相へ慇懃に挨拶をすると、顔見知りのチレル大使を捕まえて、「ジュネーブへ行ったら民国側の宣伝に満ちた主張など完膚なきまでに論破するつもりだ。そもそも今回の問題は彼の国の治安の乱れに端を発したのだから!」と意気込んでみせた。
ジュネーブへ着くなり芳澤は、旅装を解く間もなく沢田を伴ってドラモンド事務総長を訪ねた。
錦州爆撃を受けて対日姿勢を硬化させている事務総長を前に、日本政府はあくまで事変を拡大させない方針であり、自国民の生命財産の安全が確保されるならばいつでも撤退する意向であると伝えた。それに加えて、事変の背景にある日華の根深い問題を解決するには、どうしても両国の直接交渉が必要だとも説いた。
ドラモンド総長はそのひとつひとつに頷き、「芳澤理事のおっしゃることは良くわかります」と、旧知の者に寄せる同情を示した。
「ただ……」
事務総長はやや表情を引き締め、芳澤と澤田を交互に見やった。
「幣原外相の『回答』を何度も読み返しましたが、とても民国側が承諾するとは思えません」
ドラモンド総長が「回答」と称したのは、民国の蒋作賓駐日公使から届いた十月五日付の書簡に対する、日本側の逆提案を指した。
「日本軍が撤退し、民国側から派遣する部隊と引継ぐ云々」と“しれ事”を言ってきたのに対し、「両国の平常な関係を確立する基礎となるべき、数点の『大綱』を協定するのが先決だ」と返した、あの文面である。
「九月の理事会に際して、日本政府は日華直接交渉と撤兵問題は全く別問題であると明言されました。我々はここに解決の糸口を見いだせると期待したのです……」
確かに日本側は一貫して「自国臣民の生命財産の安全確保」さえ図られるのならば、いつでも撤兵すると公言した。先ほども述べたように、この点では一点の曇りもない。
「それが今になって、『撤兵』より先に『交渉』が必要だとのことです。幣原男爵のおっしゃる『数点の大綱』とは果たして如何なるものでしょうか?」
どうも事務総長は、幣原外相がこの度提唱してきた「大綱締結」の交渉と、条約を巡る日華直接交渉を混同しているようだった。
九月三十日の理事会決議に際して、ドラモンドの腹の中にあったのは撤兵を先に行わせ、そのあとで日華両国が既存条約に関する直接交渉に入るという段取りだった。そこへ持ってきて「撤兵の前提となる何らかの交渉が必要だ」と言い出したから、混乱が生じた。
「日本側は生命財産の安全を条件に撤兵すると言い、民国側はとにかく日本軍の撤退が先だという。これではいつまでも堂々巡りの水掛け論に終わってしまいます。どこかに妥協点を探らねばなりません」
ドラモンドはともかく結論を急いでいるようだった。「日本側が民国を信頼して日本人の生命財産の安全を先方へ委ね、撤兵するという訳にはいかないものか」とも打診してきた。加えて、「『日本軍がいる限り民国は現地へ軍隊を送れず、治安維持の任にも当たれない』という、施肇基代表の主張にも頷けるものがある」と、暗に日本側の譲歩を求めてきた。
「口先で安全を云々するのはたやすいが、実行を伴わなくては意味がない! 現に今のような情勢で民国の兵を満洲へ入れたら、却って事故が起こるのは目に見えています」
この点では日本側も折れないつもりだ。いつしか芳澤の語気は荒くなっていた。
「そうして結局、堂々巡りに戻る訳ですな--」
事務総長は処置なしといった風に肩をすかせた。
「総長がおっしゃる通り堂々巡りですが、そうしたジレンマから脱するためにも、先ずは両国の国民感情を和らげる必要があるかと思考します。それこそが幣原外相の言う、『両国による相互理解の基礎をなすための直接交渉を通じた協定締結』なのです」
芳澤に沢田が加勢した。ドラモンドの言い分はあまりにも民国側に偏り過ぎだ。恐らく南京のライヒマンあたりから相当吹き込まれたのだろう。
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