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第八章理事会前夜
第八章第二十三節(変節2)
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二十三
これまでも何度か述べたが、筆者は満洲事変の本質を「関東軍の謀略」だとか「暴走」、まして「陸軍少壮の士による国家改造論云々」などに求めるのは筋違いだと思っている。こうした歴史的大事件を単一の要因に帰するのは不可能だが、そのひとつに「幣原外交の負の遺産」を挙げられると主張している。
その彼は、何故にかくも見事な宗旨替えをしたのだろうか?
あくまで仮説だが、この奇怪な変節は心理学でいう「認知的不協和」という現象によって説明できるだろう。
自己にとっては不本意だが、当面の状況を取り繕うためにいったん“妥協”して当座をしのぐ。ところが“当面”だったはずの状況は一向に好転せず、“不本意”な状況が長く続くと、人の頭はこの不安定な状態に堪えられず、いつしか“不本意”を“正常”と誤認するようになる。さらにそれが高じると、“不本意”だったはずのことがあたかも「これこそ正当な考え」という“信念”へ転じてしまう。
幣原外相の場合、満洲事変直後の閣議で南次郎陸相へ噛みついた時点では、普段通りの彼であった。ところが関東軍の出動が思いのほか国民輿論の支持を得て、政治家として表立ってこれに異を唱えるのがはばかられた。そこで彼は“不本意”ながら、輿論を刺激しないよう“窮余の策”として「強面」を装ってみた。
それが証拠に九月二十三日付『大毎』と『東日』の一面トップ※に、「意外・幣原外相強硬 第三国の調停、干渉に耳を貸す必要なし」との大見出しが踊った。
記事の本文はこう続く。
※当時、東京の新聞の朝刊一面は広告で占められていたため、東日は二面に掲載。
「日本軍今回の自衛的行動は、国際公法もしくは慣習法に照らして何等やましいことがなく、徹頭徹尾正当なる十分の理由があり、関係列国側から提示されるかも知れない調停もしくは干渉などには、この際全然耳を貸す必要はなく、本件はあくまで日本単独行動による自主解決によりケリをつくべきである」
むかしの新聞記事は延々と文章をつなげたから、今の人には読みづらいだろう。
それはともかく、これまで「軟弱外交」とそしられつつも、常に諸外国の“顔色”を窺ってきた「国際協調路線」の代名詞とも言える人物から、「国益第一」を体現するような発言が飛び出したのだから、新聞もたまげた。事変は国民感情に長く溜まった澱を一気に発散させる、「カタルシス※」の効果を持ったから、この種の強硬論は意外感とともに大絶賛をもって迎えられた。
※カタルシス=「精神の浄化」と訳す。心の中の鬱積を一気に発散するときに得られる快感、喜び。
だがすでに見たように、この発言が決して外相の本音でなかったのは、西園寺公望や牧野伸顕ら宮中の反軍部勢力を後ろ盾に、折に触れて軍部批判を繰り返したことでも明らかだろう。
当時の閣議における彼の言動に照らせば、その表面はあくまで“妥協”の産物だったはずだが、これが思いのほか大受けした。そして輿論のボルテージはさらに上がっていった。
片や軍部はと言えば、国際輿論の手前もあって表立って強圧的なことはできない。だから関東軍でさえ当初描いた「満洲の武力制圧」という方針を「政略を通じた影響力の行使」へと変更せざるを得なくなった。国民輿論の支持があったとしても、政治的には決して“軍部”を取り巻く状況が順風だったとは言い難い。
そこへ十月理事会における「外圧」への反発なども手伝って、国民輿論は一層過激化していく。
政治は「風」であり民主国家の政治が「風向き」を見ながら進む以上、さしもの幣原外相といえども国民輿論を無視できなくなった。まして政界、取り分け貴族院方面から過去の外交政策の失態を難詰する声が高まると、宮中における彼の後援者たちも次第に“だんまり”を決め込むようになる。
孤立無援となった彼は、やはり政治家である以上、風の吹く方へなびかざるを得なくなったという具合である。
以前にも書いたが、民主国家の政治を動かすのは輿論であり、その輿論は「風」そのものだ。風である輿論は猛烈な勢いで世の中をひっくり返すが、輿論と言うやつは記録に残らない。これが厄介だ。
だから歴史家は、残骸の中からちまちま瓦礫を拾っては「アイツが悪い」の「コイツがやった」のとつなぎ合わせるのである。
筆者のみるところ、関東軍の“先走り”を身を挺して最後まで抑えにかかったのは、外務大臣幣原喜重郎ではなく、後に見る参謀総長金谷範三ただ独りであった。
これまでも何度か述べたが、筆者は満洲事変の本質を「関東軍の謀略」だとか「暴走」、まして「陸軍少壮の士による国家改造論云々」などに求めるのは筋違いだと思っている。こうした歴史的大事件を単一の要因に帰するのは不可能だが、そのひとつに「幣原外交の負の遺産」を挙げられると主張している。
その彼は、何故にかくも見事な宗旨替えをしたのだろうか?
あくまで仮説だが、この奇怪な変節は心理学でいう「認知的不協和」という現象によって説明できるだろう。
自己にとっては不本意だが、当面の状況を取り繕うためにいったん“妥協”して当座をしのぐ。ところが“当面”だったはずの状況は一向に好転せず、“不本意”な状況が長く続くと、人の頭はこの不安定な状態に堪えられず、いつしか“不本意”を“正常”と誤認するようになる。さらにそれが高じると、“不本意”だったはずのことがあたかも「これこそ正当な考え」という“信念”へ転じてしまう。
幣原外相の場合、満洲事変直後の閣議で南次郎陸相へ噛みついた時点では、普段通りの彼であった。ところが関東軍の出動が思いのほか国民輿論の支持を得て、政治家として表立ってこれに異を唱えるのがはばかられた。そこで彼は“不本意”ながら、輿論を刺激しないよう“窮余の策”として「強面」を装ってみた。
それが証拠に九月二十三日付『大毎』と『東日』の一面トップ※に、「意外・幣原外相強硬 第三国の調停、干渉に耳を貸す必要なし」との大見出しが踊った。
記事の本文はこう続く。
※当時、東京の新聞の朝刊一面は広告で占められていたため、東日は二面に掲載。
「日本軍今回の自衛的行動は、国際公法もしくは慣習法に照らして何等やましいことがなく、徹頭徹尾正当なる十分の理由があり、関係列国側から提示されるかも知れない調停もしくは干渉などには、この際全然耳を貸す必要はなく、本件はあくまで日本単独行動による自主解決によりケリをつくべきである」
むかしの新聞記事は延々と文章をつなげたから、今の人には読みづらいだろう。
それはともかく、これまで「軟弱外交」とそしられつつも、常に諸外国の“顔色”を窺ってきた「国際協調路線」の代名詞とも言える人物から、「国益第一」を体現するような発言が飛び出したのだから、新聞もたまげた。事変は国民感情に長く溜まった澱を一気に発散させる、「カタルシス※」の効果を持ったから、この種の強硬論は意外感とともに大絶賛をもって迎えられた。
※カタルシス=「精神の浄化」と訳す。心の中の鬱積を一気に発散するときに得られる快感、喜び。
だがすでに見たように、この発言が決して外相の本音でなかったのは、西園寺公望や牧野伸顕ら宮中の反軍部勢力を後ろ盾に、折に触れて軍部批判を繰り返したことでも明らかだろう。
当時の閣議における彼の言動に照らせば、その表面はあくまで“妥協”の産物だったはずだが、これが思いのほか大受けした。そして輿論のボルテージはさらに上がっていった。
片や軍部はと言えば、国際輿論の手前もあって表立って強圧的なことはできない。だから関東軍でさえ当初描いた「満洲の武力制圧」という方針を「政略を通じた影響力の行使」へと変更せざるを得なくなった。国民輿論の支持があったとしても、政治的には決して“軍部”を取り巻く状況が順風だったとは言い難い。
そこへ十月理事会における「外圧」への反発なども手伝って、国民輿論は一層過激化していく。
政治は「風」であり民主国家の政治が「風向き」を見ながら進む以上、さしもの幣原外相といえども国民輿論を無視できなくなった。まして政界、取り分け貴族院方面から過去の外交政策の失態を難詰する声が高まると、宮中における彼の後援者たちも次第に“だんまり”を決め込むようになる。
孤立無援となった彼は、やはり政治家である以上、風の吹く方へなびかざるを得なくなったという具合である。
以前にも書いたが、民主国家の政治を動かすのは輿論であり、その輿論は「風」そのものだ。風である輿論は猛烈な勢いで世の中をひっくり返すが、輿論と言うやつは記録に残らない。これが厄介だ。
だから歴史家は、残骸の中からちまちま瓦礫を拾っては「アイツが悪い」の「コイツがやった」のとつなぎ合わせるのである。
筆者のみるところ、関東軍の“先走り”を身を挺して最後まで抑えにかかったのは、外務大臣幣原喜重郎ではなく、後に見る参謀総長金谷範三ただ独りであった。
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