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第十四章上海事変

第十四書第四十三節(えんがちょ)

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四十三

 上海事変全体から見れば、フォーブス大使の不平など“末節”に過ぎない。
 日本の陸戦隊や日本の自警団に関して租界現地から寄せられた苦情は、何といっても彼らが他国の警備区域に侵入し、罪なき華人へ暴行を加えた--という点にある。

 だがどうもこれが解せない。
 あらかじめ決められた警備区域を越境してきたなら、何故その場で押し戻さなかったのか--?
 ましてそこで不埒な行為を働く者がいたなら、華人だろうが邦人だろうが即座に取り締まるのが各国駐留軍本来の任務ではないのか--?

 百歩譲って、米英軍側が陸戦隊と“こと”を起こしたくなかったとしよう--。だが民間人の自警団を野放しにしておいて、後であれこれ苦情を言い立ててくるのはいかにも不自然だ。
 何故ならくだんのアーベント記者も一月二十九日の朝、苦力クーリーとおぼしき複数の華人を狭い路地へ押し込め、身体検査しようとしていた日本人自警団に出くわした。その振る舞いが目に余ったので、彼は「いったい何の資格があって警察のまね事などしているのかっ⁉」と叫んだ。
 すると自警団はバツ悪そうに、そそくさと立ち去ったという。民間人のアーベント記者ですらできたことを、武装した兵士ができない理由はない。

 これはあくまで外交官“個人”が抱いた感想だが、パリの栗山茂代理大使は二月二日、フランス外務省にアジア局長を訪ね、上海を巡る情勢について意見交換をした。その際局長は、ロイター電を引用しつつしきりに日本の陸戦隊が単独行動を取っていると不平を並べた。
 栗山は「自分の承知しているところでは、日本の陸戦隊は現地駐留軍による共同防備会議の決定に従って予定の警備区に就こうとした」と反論したところ、相手は「共同動作は二十八日をもって終了した」と言い放ったという。
 そこで栗山はこんな感想を抱いた。

 「華人の反日思想があまりに強烈なのに鑑み、日本軍と一体の行動を取れば自然、華人側の排外運動を招く恐れがあることから、列国はこれを避けようとしたものと考えられる」

 陸戦隊の越境問題に次いで“もの言い”が付いたのは、日本軍が増援部隊を租界の波止場に上陸させたことだ。
 クレームを付けてきた米英軍もフランス軍も、自国の補強部隊は租界に上陸させている。工部局の規定によれば、ひとたび「戒厳令」が敷かれれば各国軍の上陸に事前承認は必要ないが、事前通告をしてくるのが“慣例”となっているという。
 従って日本軍の租界上陸は“違法”ではない。ただ「はなはだ迷惑だ」ということらしい。

 さらに米国のスチムソン長官も、二月十七日に金沢第九師団が租界へ上陸したことに猛反発し、はしなくも“本音”を漏らしてしまう。

 「日本陸軍が各国租界に駐屯することは、即ち租界を根拠地とすることと等しく、もし民国側がその復讐として租界を攻撃し、米国人の生命財産に損害をおよぼした場合には、日本政府が責任を負うべきだ」

 この件はワシントン政府から東京へ正式に抗議する手はずとなっていたところ、例によって東京で情報が漏洩し、AP電等に報じられた。
 要するに、各国とも華人の“排外主義”の矛先が自分へ向かってくるのを嫌った訳だ。そこで極力、正面の敵対者である日本とは一線を引きたがった--。

 つまり彼らは日本を“えんがちょ”にしたのだった。
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