存在抹消ボタン《episode0》

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第三話

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 それから数日、私は研究への熱意を取り戻しつつあった。
 やはり、好きなものは好きらしく、打ち込み始めると時間を忘れてしまう。ただ、我を取り戻した時、現実に返った時、彼女の笑顔が手前に無いと絶望感を知った気分になった。

 今は、研究員一同で励んでいる空間移動システムと、前任が残した未来先読みシステムについて、両立して研究している。それこそ朝から晩まで、現実を忘れるかの如く打ち込んだ。彼女の好きだった自分を取り戻そうと、躍起になっている部分もあるのかもしれない。

 空間移動システムに触れる度、彼女の居る世界へと飛びたいと願ってしまう。とは言え、叶えるには時空を飛び越える技術も必須になってくる訳だが。
 未来先読みシステムについて触れても、こうなると分かっていたなら出会いを避けたのに、と考えてしまう。

 結局何をしていても、どれだけ打ち込んでいても、最終的には彼女に繋がってしまうのだ。

 やはり、結論はこうだ。彼女を知らなければ良かった。彼女との幸福と、不幸を両方知らなければ良かった。彼女なんていなければ、私なんて居なければ。愛情なんて持たなければ。
 そこに辿り着いてしまう自分に、厭きれて何十回も溜め息を吐いた。



「ただいまー、あれ?」

 帰宅時、いつも姿を見せる筈のMR390が定位置に居ない。再度帰宅を知らせてみても、発する機械音は聞こえてこなかった。

「……MR390?」

 玄関に近い部屋から順に、まずは一階の各部屋を見回る。明らかな異変に自然と小走りになる。

「MR390! MR390!」

 あの日を再現でもしているかのようだ。あの日というのは、無論彼女が自ら命を経った日だ。
 階段を上って、手前の部屋から順に開けてゆく。名前を呼んで、無返答にがっかりして、それを繰り返して奥へ奥へと突き進む。

 そうして幾番目の部屋の前に辿り着いた。禍々しいオーラが漂っている。錯覚だと理解しつつ、恐怖感が拭えない。
 ここは彼女の部屋だ。プライベートルームとして使用していた部屋であり、彼女が最期に居た部屋でもある。

 再現でも見ているかのような流れに、嫌な予感が纏わり付く。脳内で抵抗空しく再生される場景が、心を酷く抉ってくる。
 飛ばして進む事も可能ではあったが、勘が飛ばしてはいけないと訴えた。

 数分立ち竦み、漸くドアノブに手をかける。そっと開くと、そこには目に付く物体が居た。MR390だ。

「……ここに居たのか……」

 MR390は机の方を向いたまま、背中を向けている。まるで何かを眺めているかのようだ。
 近付いてMR390の顔を覗き込むと、瞳に光が無いのに気付いた。そこで漸く状況を悟る。

「……バッテリー交換をすっかり忘れていたな」

 かなりの長持ちバッテリーを搭載している所為で、交換を忘れていたのだ。研究馬鹿になっており、交換通知を見逃していたらしい。

 ふと、机上に詰まれた本の中、一冊のノートに惹きつけられた。恐らく、棚の清掃の為、MR390が本棚から引き出したのだろう。その際、共にあったノートも引き出されたに違いない。
 見覚えの無い柄のノートだった。研究室で使っていたものとは明らかに違う。それだけで、彼女が私的な用途で使用していた物だと察知した。

 分かると覗き見したくなる。彼女を感じる物に触れたくないと拒絶する反面、何かが分かるかもしれないと求めている自分もいる。感情とは、とても厄介だ。自分自身でさえ、操作が効かないのだから。

 向いている裏表紙を数秒見詰め、決断した。手に取り引っくり返すと、中央やや上部、草書体で¨diary¨の文字が書かれていた。瞬間、日記だと理解した。
 理解した瞬間、ページを捲る手が早くなる。ここには、彼女の思いが――感情が綴られている。もしかしたら、自殺に踏み切った理由も綴られているかもしれない。

 記録は不定期だった。毎日夜遅くに帰宅していたのだ、当然だろう。
 その日あった素晴らしい出来事や残念な出来事、簡単なメモなど、変哲の無い日常が多彩に綴られている。中には、幾つか身に覚えのある出来事もあった。

 思い出して涙が出そうになった。彼女を知らなければ、涙など流していなかっただろう。他者の感情は読めないのに、自分の事になると感傷的になってしまうなんて可笑しくて誰にも言えない。
 いや、どれもこれも彼女との出会いが齎した訳だが。出会わなければ、薄い感情のまま生きていただろうから。

 ページを捲る手が止まる。なぜなら、一つの文章に釘付けになってしまったからだ。それは、こんな冒頭から始まった。

¨ずっとずっと、悩んでいる。けれど、私はあの人を悲しませたくない。¨

 唐突に始まる嘆きが、自殺に関わる陳述だとはっきり分かった。



 改めて、周囲の文字に一通り目を通し、再度前ページを見回してみる。しかし、悩みや不安についての詳しい記述は無かった。
 改めて、暗転した部分の文章を目で追う。

¨ずっとずっと、悩んでいる。けれど、私はあの人を悲しませたくない。
 だから本当は消えてしまいたい。死ではなく存在抹消なら、きっとあの人も悲しまずに済むだろう。
 けれど、それは叶わない。だから、死ぬしかないのかもしれない。

 あの人を悲しませる事になっても、この先もっと辛くなってしまうなら、今の方が良いと思ってしまう。互いの為に、今死んでしまったほうが良いと。
 だから御免。私には耐えられない。大好きだ。本当に大好きだ。けれど、ごめん。¨

 決して長く無い文の中に、彼女の苦悩は詰め込まれていた。性質の所為で感情自体は見えなかったが、単語や繰り返しの表現から、酷く愁いていたのだろうとは察した。
 これは遺書だ。次のページは真っ白であり、それ以降にも文字一つ無かった。その事が確信させた。

 あの日は、偶然彼女が先に帰宅した。少し具合が悪いから、と早退したのだ。それがまさか、帰宅して遺体を見ることになろうとは誰が思っていただろうか。
 当時の記憶が、鮮明なまま蘇る。一片たりとも忘れたことの無い記憶が、脳の全てを取り囲む。

 全て忘れ去ってしまいたい。記憶も、何もかも。彼女が願ったように、存在ごと全て消去できたなら、きっと何もかも知らないままで居られただろう。

 ふと、彼女と出会う以前、まだ研究員の卵だった頃を思い出した。
 衝撃的なワンフレーズと共に、当時の上司が立ち上げたプロジェクト――、その名前を朧気に思い出す。

 もしかしたら、彼女もアレを思い出していたのかもしれない。だから、態々遺書に綴ったのかもしれない。
 これは、遺書であり委託書だ。多分、私は委ねられたのだ。〝アレ〟の開発を。

 ――――〝存在抹消マシン〟の開発を。
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