君に咲く花

有箱

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 翌朝シンは、暗い部屋の中で目覚めていた。
 横にはカノンが居て、一緒のシーツに入り込み眠っている。
 背中から伝わる冷たさと素材の硬さから、直感的に床の上だと分かった。

 シンの視線の先、美しく眠るカノンの、指先の傷に目が留まる。多くの古い傷跡にも、視線を移動させてゆく。

 シンは気絶前の出来事を思い出し、今までの日々に後悔を重ねながらも、いつも通り過ぎる朝の訪れに安堵感を抱いていた。

 悪夢も無く訪れた朝は、とても穏やかな空気をしている。
 シンは、意外にも落ち着いている精神状態に少し不思議になりながらも、カノンを起こさないようにシーツを抜けると、朝食を用意しにキッチンへと向かった。



「お早うシン、よく眠れた?」

 料理中、忙しい足音と共に背後から聞こえた声も、変わらず柔らかい物だった。

「…うん」
「そっか、良かった」

 しかし、その顔色は悪い。カノンは力が抜けるように、その場に座り込んだ。

「カノン」

 シンは野菜を切る手を止め、直ぐにカノンの元へと駆け寄る。

「大丈夫いつもの事だよ、構わずご飯作って」

 目を直視して微笑む顔は、儚さを醸し出す。しかし、カノンの言葉に違和感も無く、返答も思いつかなかった為、正体不明の蟠りはあったが、いつも通りに飲み込んだ。

「…分かった」



 昨日の件があり、カノンは様子を伺いつつ接していたが、シンの態度は以前と殆ど変わらなかった。
 食事していても本を読んでいても、相変わらず無表情でじっとこちらを見詰めてくる。視線は様々な箇所に飛び、傷を映しているのだと思われた。

「シン見て、これ綺麗だよ」
「どれ?」

 写真集の中の、とある一ページをシンへと向けると、シンはカノンを見る時と同じ目で写真を凝視する。
 真っ暗な瞳は髪と同じ黒色で、光を全く灯さない。

「綺麗でしょ、同じ国にこんな場所があるんだよ」
「…そうか」

 カノンが差し出している写真集は、国内の目立った建物を映した写真を集めた本だった。
 近くにある筈の、知らない世界が詰め込まれている本。

 カノンは、子どもの時からの病弱に加えて、たくさんの子どもを預かる大規模な施設にいたため、旅行経験など一度たりとも無かった。故に、外の世界に憧れてしまう。

 カノンは自己感情を心の内に仕舞い込み、変わりにシンへと何気なく問いかけた。
 視線は、目の前の写真集に向けながら。

「…シンは遠くに行った事とかあるの?ほら、子どもの時とかさ」

 だが、直後聞こえた席を立つ大きな音に、カノンは驚き竦む。
 そのまま横を通り過ぎるシンを目で追ったが、その顔は見えなかった。

 明らかに澱んだ空気に絶句し、呆気に取られていたが、カノンは直ぐに我に返り、シンの向かった場所へと向かった。


 行き先は便所だった。内側から鍵をかけ、引き篭もってしまっている。

「…シン…!ごめんね!変な事言ったね…!」

 的確な内容は分からない。だが、言葉がシンの心を抉った事だけは、はっきりと分かった。
 部屋内からは何やら小さな物音だけがしてきて、何をしているか分からない。

「……シン!出てきて!傷つけて良いから!ね!」

 扉に向かって投げ掛けるも、シンは無反応だ。許可を出しているのに、飛び出してきてくれない。

 ―――やはり、昨日の件があったからか、それ以前に何かがあったのか、シンが変だ。
 明らかに血を見る事を、いや、自分が血を流す事を拒んでいる。

「…シン!怒ってるの!?シ…」

 急に視界が揺れて、カノンは床に両手を着く。また貧血だ。
 やはりシンは、この症状を気にし始めたのだろうか。

 血を流す事でシンの近くに居られたような物なのに、引き換えにここに住んでいるような物なのに、その行為が無くなってしまったら。
 要らないと、言われてしまったら。
 そうしたら、シンの近くに居られなくなるのだろうか。

 シンが姿を現す場面をその目に映す事無く、カノンは気絶してしまった。



 はっとなり目を覚ますと、カノンはベッドに横になっていた。その隣に、温もりは無い。

 軽く辺りを見回すと、赤い液体が入った点滴袋と、そこから繋がる管と、直ぐ近く、ぼんやりと誰かの後ろ姿が映った。

「…シン…?」

 まだはっきりとしない頭で、本能のままその名を呼ぶ。

「…カノンくん、目覚められたんですか…!」

 だが、どうやら見間違えていたらしく、そこに居たのはエルだった。多分、シンが呼び出したのだろう。

「…シンは?」

 エルは苦笑って、再度カノンに背を向けた。そうして、何か準備しているのか、いそいそと動いている。

「…シンくんはリビングですよ」
「シン、大丈夫?」

 エルは黙りそうになったが、どうにか答えを作り上げる。

「……大丈夫です、いつも通りですよ」

 本当は、シンにまだ会っていない。
 電話で、カノンが倒れたとだけ言われ呼び出され来てみたが、玄関扉の鍵は開けられていて、廊下に血が落ちていたのを見ただけで会っていないのだ。

「……そう」

 振り向いたエルは、聴診器を既に耳に装着していた。優しい顔付きで、僅かに微笑む。

「胸、良いですか?」

 カノンが頷くとエルは、シーツと今日はまだ白いシャツを、ゆっくりと捲った。



 シンは、物が溢れた暗い部屋にて、床に落ちた血をじっと見詰めていた。
 その右手には――見た目ではあまり分からないが――汚れたカッターナイフがあって、左手首にぴったりと宛てられている。

 耳を突く、今は無い様々な音から意識を背ける為、ぐっと力を込め引くと、ぼたぼたと勢い良く血が流れ出す。
 手首には既に、何本もの生傷が出来ていた。

 白かったシャツは、袖から始まり胸元や腹部など、大部分を血で汚している。
 それでも満たされなくて、もう一度別の箇所に刃を当てた時だった。

「やめなさい…!」

 大声ではなかったが、聞こえた焦りを含む声に無意識に動きが止まる。

 振り向かないまま停止していると、横からエルが現れて、手に持ったガーゼを強く押し当ててきた。
 その顔には冷や汗が伝っていたが、視線は真直ぐに傷部分に焦点を当てていた。

「…こんな…カノンくんが心配しますよ…!」
「…起きたの?」

 あっという間に血の滲み出したガーゼを見て、声を失っているのかエルは無反応だ。

「カノンは?」
「……今、輸血しています。取りあえず安定しているので、大丈夫です」

 しかし、目の前の現実を受け容れたのか、エルは求めていた答えを両方とも言い当てて見せた。

「ガーゼ押さえてて」

 要求されるままに、当てられたガーゼを支える。
 エルは、鞄からガーゼやテーピング等の処置道具を取り出すと、手際よく傷口を包みはじめた。
 廊下から射す淡い光が、目元に降り注いで眩しい。

「……酷い…ですね」
「……カノンが?」
「カノンくんもですが、貴方もですシンくん。やりすぎですよ」

 エルの口調は、疲れている。だが裏腹に、苦い顔をしていた。
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