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◆
翌朝シンは、暗い部屋の中で目覚めていた。
横にはカノンが居て、一緒のシーツに入り込み眠っている。
背中から伝わる冷たさと素材の硬さから、直感的に床の上だと分かった。
シンの視線の先、美しく眠るカノンの、指先の傷に目が留まる。多くの古い傷跡にも、視線を移動させてゆく。
シンは気絶前の出来事を思い出し、今までの日々に後悔を重ねながらも、いつも通り過ぎる朝の訪れに安堵感を抱いていた。
悪夢も無く訪れた朝は、とても穏やかな空気をしている。
シンは、意外にも落ち着いている精神状態に少し不思議になりながらも、カノンを起こさないようにシーツを抜けると、朝食を用意しにキッチンへと向かった。
◇
「お早うシン、よく眠れた?」
料理中、忙しい足音と共に背後から聞こえた声も、変わらず柔らかい物だった。
「…うん」
「そっか、良かった」
しかし、その顔色は悪い。カノンは力が抜けるように、その場に座り込んだ。
「カノン」
シンは野菜を切る手を止め、直ぐにカノンの元へと駆け寄る。
「大丈夫いつもの事だよ、構わずご飯作って」
目を直視して微笑む顔は、儚さを醸し出す。しかし、カノンの言葉に違和感も無く、返答も思いつかなかった為、正体不明の蟠りはあったが、いつも通りに飲み込んだ。
「…分かった」
◇
昨日の件があり、カノンは様子を伺いつつ接していたが、シンの態度は以前と殆ど変わらなかった。
食事していても本を読んでいても、相変わらず無表情でじっとこちらを見詰めてくる。視線は様々な箇所に飛び、傷を映しているのだと思われた。
「シン見て、これ綺麗だよ」
「どれ?」
写真集の中の、とある一ページをシンへと向けると、シンはカノンを見る時と同じ目で写真を凝視する。
真っ暗な瞳は髪と同じ黒色で、光を全く灯さない。
「綺麗でしょ、同じ国にこんな場所があるんだよ」
「…そうか」
カノンが差し出している写真集は、国内の目立った建物を映した写真を集めた本だった。
近くにある筈の、知らない世界が詰め込まれている本。
カノンは、子どもの時からの病弱に加えて、たくさんの子どもを預かる大規模な施設にいたため、旅行経験など一度たりとも無かった。故に、外の世界に憧れてしまう。
カノンは自己感情を心の内に仕舞い込み、変わりにシンへと何気なく問いかけた。
視線は、目の前の写真集に向けながら。
「…シンは遠くに行った事とかあるの?ほら、子どもの時とかさ」
だが、直後聞こえた席を立つ大きな音に、カノンは驚き竦む。
そのまま横を通り過ぎるシンを目で追ったが、その顔は見えなかった。
明らかに澱んだ空気に絶句し、呆気に取られていたが、カノンは直ぐに我に返り、シンの向かった場所へと向かった。
行き先は便所だった。内側から鍵をかけ、引き篭もってしまっている。
「…シン…!ごめんね!変な事言ったね…!」
的確な内容は分からない。だが、言葉がシンの心を抉った事だけは、はっきりと分かった。
部屋内からは何やら小さな物音だけがしてきて、何をしているか分からない。
「……シン!出てきて!傷つけて良いから!ね!」
扉に向かって投げ掛けるも、シンは無反応だ。許可を出しているのに、飛び出してきてくれない。
―――やはり、昨日の件があったからか、それ以前に何かがあったのか、シンが変だ。
明らかに血を見る事を、いや、自分が血を流す事を拒んでいる。
「…シン!怒ってるの!?シ…」
急に視界が揺れて、カノンは床に両手を着く。また貧血だ。
やはりシンは、この症状を気にし始めたのだろうか。
血を流す事でシンの近くに居られたような物なのに、引き換えにここに住んでいるような物なのに、その行為が無くなってしまったら。
要らないと、言われてしまったら。
そうしたら、シンの近くに居られなくなるのだろうか。
シンが姿を現す場面をその目に映す事無く、カノンは気絶してしまった。
◇
はっとなり目を覚ますと、カノンはベッドに横になっていた。その隣に、温もりは無い。
軽く辺りを見回すと、赤い液体が入った点滴袋と、そこから繋がる管と、直ぐ近く、ぼんやりと誰かの後ろ姿が映った。
「…シン…?」
まだはっきりとしない頭で、本能のままその名を呼ぶ。
「…カノンくん、目覚められたんですか…!」
だが、どうやら見間違えていたらしく、そこに居たのはエルだった。多分、シンが呼び出したのだろう。
「…シンは?」
エルは苦笑って、再度カノンに背を向けた。そうして、何か準備しているのか、いそいそと動いている。
「…シンくんはリビングですよ」
「シン、大丈夫?」
エルは黙りそうになったが、どうにか答えを作り上げる。
「……大丈夫です、いつも通りですよ」
本当は、シンにまだ会っていない。
電話で、カノンが倒れたとだけ言われ呼び出され来てみたが、玄関扉の鍵は開けられていて、廊下に血が落ちていたのを見ただけで会っていないのだ。
「……そう」
振り向いたエルは、聴診器を既に耳に装着していた。優しい顔付きで、僅かに微笑む。
「胸、良いですか?」
カノンが頷くとエルは、シーツと今日はまだ白いシャツを、ゆっくりと捲った。
◇
シンは、物が溢れた暗い部屋にて、床に落ちた血をじっと見詰めていた。
その右手には――見た目ではあまり分からないが――汚れたカッターナイフがあって、左手首にぴったりと宛てられている。
耳を突く、今は無い様々な音から意識を背ける為、ぐっと力を込め引くと、ぼたぼたと勢い良く血が流れ出す。
手首には既に、何本もの生傷が出来ていた。
白かったシャツは、袖から始まり胸元や腹部など、大部分を血で汚している。
それでも満たされなくて、もう一度別の箇所に刃を当てた時だった。
「やめなさい…!」
大声ではなかったが、聞こえた焦りを含む声に無意識に動きが止まる。
振り向かないまま停止していると、横からエルが現れて、手に持ったガーゼを強く押し当ててきた。
その顔には冷や汗が伝っていたが、視線は真直ぐに傷部分に焦点を当てていた。
「…こんな…カノンくんが心配しますよ…!」
「…起きたの?」
あっという間に血の滲み出したガーゼを見て、声を失っているのかエルは無反応だ。
「カノンは?」
「……今、輸血しています。取りあえず安定しているので、大丈夫です」
しかし、目の前の現実を受け容れたのか、エルは求めていた答えを両方とも言い当てて見せた。
「ガーゼ押さえてて」
要求されるままに、当てられたガーゼを支える。
エルは、鞄からガーゼやテーピング等の処置道具を取り出すと、手際よく傷口を包みはじめた。
廊下から射す淡い光が、目元に降り注いで眩しい。
「……酷い…ですね」
「……カノンが?」
「カノンくんもですが、貴方もですシンくん。やりすぎですよ」
エルの口調は、疲れている。だが裏腹に、苦い顔をしていた。
翌朝シンは、暗い部屋の中で目覚めていた。
横にはカノンが居て、一緒のシーツに入り込み眠っている。
背中から伝わる冷たさと素材の硬さから、直感的に床の上だと分かった。
シンの視線の先、美しく眠るカノンの、指先の傷に目が留まる。多くの古い傷跡にも、視線を移動させてゆく。
シンは気絶前の出来事を思い出し、今までの日々に後悔を重ねながらも、いつも通り過ぎる朝の訪れに安堵感を抱いていた。
悪夢も無く訪れた朝は、とても穏やかな空気をしている。
シンは、意外にも落ち着いている精神状態に少し不思議になりながらも、カノンを起こさないようにシーツを抜けると、朝食を用意しにキッチンへと向かった。
◇
「お早うシン、よく眠れた?」
料理中、忙しい足音と共に背後から聞こえた声も、変わらず柔らかい物だった。
「…うん」
「そっか、良かった」
しかし、その顔色は悪い。カノンは力が抜けるように、その場に座り込んだ。
「カノン」
シンは野菜を切る手を止め、直ぐにカノンの元へと駆け寄る。
「大丈夫いつもの事だよ、構わずご飯作って」
目を直視して微笑む顔は、儚さを醸し出す。しかし、カノンの言葉に違和感も無く、返答も思いつかなかった為、正体不明の蟠りはあったが、いつも通りに飲み込んだ。
「…分かった」
◇
昨日の件があり、カノンは様子を伺いつつ接していたが、シンの態度は以前と殆ど変わらなかった。
食事していても本を読んでいても、相変わらず無表情でじっとこちらを見詰めてくる。視線は様々な箇所に飛び、傷を映しているのだと思われた。
「シン見て、これ綺麗だよ」
「どれ?」
写真集の中の、とある一ページをシンへと向けると、シンはカノンを見る時と同じ目で写真を凝視する。
真っ暗な瞳は髪と同じ黒色で、光を全く灯さない。
「綺麗でしょ、同じ国にこんな場所があるんだよ」
「…そうか」
カノンが差し出している写真集は、国内の目立った建物を映した写真を集めた本だった。
近くにある筈の、知らない世界が詰め込まれている本。
カノンは、子どもの時からの病弱に加えて、たくさんの子どもを預かる大規模な施設にいたため、旅行経験など一度たりとも無かった。故に、外の世界に憧れてしまう。
カノンは自己感情を心の内に仕舞い込み、変わりにシンへと何気なく問いかけた。
視線は、目の前の写真集に向けながら。
「…シンは遠くに行った事とかあるの?ほら、子どもの時とかさ」
だが、直後聞こえた席を立つ大きな音に、カノンは驚き竦む。
そのまま横を通り過ぎるシンを目で追ったが、その顔は見えなかった。
明らかに澱んだ空気に絶句し、呆気に取られていたが、カノンは直ぐに我に返り、シンの向かった場所へと向かった。
行き先は便所だった。内側から鍵をかけ、引き篭もってしまっている。
「…シン…!ごめんね!変な事言ったね…!」
的確な内容は分からない。だが、言葉がシンの心を抉った事だけは、はっきりと分かった。
部屋内からは何やら小さな物音だけがしてきて、何をしているか分からない。
「……シン!出てきて!傷つけて良いから!ね!」
扉に向かって投げ掛けるも、シンは無反応だ。許可を出しているのに、飛び出してきてくれない。
―――やはり、昨日の件があったからか、それ以前に何かがあったのか、シンが変だ。
明らかに血を見る事を、いや、自分が血を流す事を拒んでいる。
「…シン!怒ってるの!?シ…」
急に視界が揺れて、カノンは床に両手を着く。また貧血だ。
やはりシンは、この症状を気にし始めたのだろうか。
血を流す事でシンの近くに居られたような物なのに、引き換えにここに住んでいるような物なのに、その行為が無くなってしまったら。
要らないと、言われてしまったら。
そうしたら、シンの近くに居られなくなるのだろうか。
シンが姿を現す場面をその目に映す事無く、カノンは気絶してしまった。
◇
はっとなり目を覚ますと、カノンはベッドに横になっていた。その隣に、温もりは無い。
軽く辺りを見回すと、赤い液体が入った点滴袋と、そこから繋がる管と、直ぐ近く、ぼんやりと誰かの後ろ姿が映った。
「…シン…?」
まだはっきりとしない頭で、本能のままその名を呼ぶ。
「…カノンくん、目覚められたんですか…!」
だが、どうやら見間違えていたらしく、そこに居たのはエルだった。多分、シンが呼び出したのだろう。
「…シンは?」
エルは苦笑って、再度カノンに背を向けた。そうして、何か準備しているのか、いそいそと動いている。
「…シンくんはリビングですよ」
「シン、大丈夫?」
エルは黙りそうになったが、どうにか答えを作り上げる。
「……大丈夫です、いつも通りですよ」
本当は、シンにまだ会っていない。
電話で、カノンが倒れたとだけ言われ呼び出され来てみたが、玄関扉の鍵は開けられていて、廊下に血が落ちていたのを見ただけで会っていないのだ。
「……そう」
振り向いたエルは、聴診器を既に耳に装着していた。優しい顔付きで、僅かに微笑む。
「胸、良いですか?」
カノンが頷くとエルは、シーツと今日はまだ白いシャツを、ゆっくりと捲った。
◇
シンは、物が溢れた暗い部屋にて、床に落ちた血をじっと見詰めていた。
その右手には――見た目ではあまり分からないが――汚れたカッターナイフがあって、左手首にぴったりと宛てられている。
耳を突く、今は無い様々な音から意識を背ける為、ぐっと力を込め引くと、ぼたぼたと勢い良く血が流れ出す。
手首には既に、何本もの生傷が出来ていた。
白かったシャツは、袖から始まり胸元や腹部など、大部分を血で汚している。
それでも満たされなくて、もう一度別の箇所に刃を当てた時だった。
「やめなさい…!」
大声ではなかったが、聞こえた焦りを含む声に無意識に動きが止まる。
振り向かないまま停止していると、横からエルが現れて、手に持ったガーゼを強く押し当ててきた。
その顔には冷や汗が伝っていたが、視線は真直ぐに傷部分に焦点を当てていた。
「…こんな…カノンくんが心配しますよ…!」
「…起きたの?」
あっという間に血の滲み出したガーゼを見て、声を失っているのかエルは無反応だ。
「カノンは?」
「……今、輸血しています。取りあえず安定しているので、大丈夫です」
しかし、目の前の現実を受け容れたのか、エルは求めていた答えを両方とも言い当てて見せた。
「ガーゼ押さえてて」
要求されるままに、当てられたガーゼを支える。
エルは、鞄からガーゼやテーピング等の処置道具を取り出すと、手際よく傷口を包みはじめた。
廊下から射す淡い光が、目元に降り注いで眩しい。
「……酷い…ですね」
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