君の許しが下りるまで

有箱

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 心の真ん中に穴がある。そんな感覚を常に持ち歩いていた。
 正体の片鱗すら掴めないまま、しかし不自由もないまま気付けば二十三年。今日もまた、昨日を辿ってしまうんだろう。そう思っていた。
 
 職場は、アパートから歩いて十分《じゅっぷん》の距離にある。車の所有率が低い町において、徒歩通勤は自然な選択だった。

 同じような人間が歩道を埋める。景色の一部となり、列を乱さぬよう上手く波に乗る。
 そのまま道を曲がりかけ、不意に手首が掴まれた。

「待って!」

 振り向いた先、いたのはショートヘアの女性だった。一回りは年上だろうか。
 凛としたやや切れ長の瞳。白い肌に映える、桃色の唇。一瞬で入ってきた情報に、全身が虜になるのが分かった。

 こんな経験は、創作物にのみ許された幻想だと思っていたのに。
 心の穴が一瞬で埋められる。それどころか、恋情が溢れそうにもなる。
 ああ、これが一目惚れ――いや、運命って奴か。

「責任とって!」

 えっ。
 浮いた心を砕く台詞に言葉をなくす。返答に迷う暇無く、波が俺たちを押した。
 容赦ない攻撃に、女性がバランスを崩す。答えるよりも場を変える方が先決――反射的に判断し、手首を解いて体を支えた。それから、逆に手の平を掴み返す。

「場所、変えますね」

 雑踏を抜けるまでの間、埋まった心は強く脈打ち続けた。二つのかけ離れた理由を持って。



 会社へは素直に連絡した。とは言え、かなり雑把な説明ではある。
 休む理由がなかった――それだけの理由だったが、約五年の皆勤が功を成し快諾を得た。

 話し合いをすべく、目に付いたカフェに踏み入る。店内は落ち着きのある、静かな空間になっていた。
 マニュアルを遂行する店員に、奥の席へと誘導される。人気のカフェだったらしく、店内は俺たちを浮かせるような客層で構築されていた。

「何か頼みます?」
「私はいいわ」
「そうですか」

 メニュー表を自分側に向け開く。カフェの値段に驚きつつも、折角ならとウィンナコーヒーだけ注文した。

 普段入らないのか、女性は無言で内装を見詰めている。改めて見ても顔立ちは美しく、不思議と自分の中に馴染んだ。印象的な赤い和柄のシャツも、よく似合っている。

 やはり、これはどう転がしても運命としか思えない。ただ、それは俺だけの話で。

 到着までの合間で、全貌を探ってみる――のも束の間、時間はあっさりと回収された。
 女性も到着を待っていただけなのか、早々に視線を合わせてくる。恥一つない目つきが、俺を真っ直ぐに捉えた。

「何も覚えてないの?」

 率直な回答を本能が咎める。しかし、拒んだ場合の破綻が想像でき、やめた。それに元々嘘は嫌いだ。

「すみません、覚えてないです。えーっと、俺、何かしました?」

 もし出会っていたなら、一コマも逃さず覚えているだろう。しかし、記憶の端にすら手掛かりはない。これはもう、間接的に何かをしたとしか――。

「……覚えてなくても可笑しくないわ。だって私たち初対面だもの」

 答え合わせをされ、ショックが走る。出会いの瞬間から嫌な予感はしていたが、今さら重みが圧し掛かってきた。
 これが惚れた相手でなければ、もっと適当に対応できたのかもしれない。
 嫌われて始まる恋愛なんて、無謀すぎる。

「やっぱりそうですか……。気付かない内に何かしちゃってたんなら謝ります。言葉で足りないなら他にも……」
「じゃあ付き合って」
「え?」

 賠償金や土下座を連想していたせいで、要望の飲み込みに痞える。しかし、今は受け容れる方向にしか心を持っていけなかった。

「えーと、どこにですか?」
「恋人になるの。とりあえず週末デートしましょう。今日と同じ時間にこのカフェの前で。良い?」
「分かりました。あ、お名前聞いても良いですか。俺土屋一騎《いっき》って言います」
「三芳桜花よ」

 例え、この先で何があろうとも。
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