造花の開く頃に

有箱

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11月19日

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[11月19日、土曜日]
 あれからどれ位、時間が経っただろうか。頭が異常にくらくらする。体が凍えている。
 月裏は、リビングにて目を覚ましていた。床に倒れこむ姿勢のまま何時間も居たからか、底冷えしている。
 無力な腕を委ねていた服は赤々と染まっていて、腕には深い傷と血がこびり付いていた。

 昨夜、向かう意識のまま手首を切った。
 自分では盛大に切ったと思ったのだが、それほど深くは無かったらしく、ある程度の血を流しただけで止まってしまったようだ。
 月裏は、暫くの間茫然と現実を見詰めていたが、物音と同時に我に帰り立ち上がった。

 譲葉が目覚めて、この血を見たら。腕を見たら。
 きっと今度こそ失望される。だから、隠さなければならない。
 しかし、譲葉がもう既にリビングに向かっていたら逃げ場が確保できない。

 月裏は混乱に陥り、色付けた腹部を隠すようにして、その場で屈み込む。
 だが、譲葉はやってこなかった。

 暫く無音が続いた後、急いで服を着替えに奥の部屋へ走る。
 傷を包帯で塞ぎ、着替えたシャツを袋に詰め込んで、全ての証拠を隠滅した所で漸く心が落ち着いた。
 その時になって、目覚めたのが深夜だったと知った。

「…………おはよう譲葉くん……」

 ¨何も無かったかのように¨¨いつも通りに¨
 月裏は胸の奥でしきりに唱えながら、恐る恐る部屋の扉を開く。
 すると直ぐに、譲葉の綺麗な瞳が上を向いた。

「おはよう月裏さん」

 譲葉は既に起床し、ベッドの脇に座り込んでいた。
 タイミングを見計った甲斐もあり、丁度出ようとしていた所に来られたようだ。
 だが直ぐに昨日の一件が蘇り、言葉を見失う。

「………えっと……」
「……驚かせたな、すまない」

 強く言い放った譲葉の瞳は、一点にこちらを見ていた。まるで謝罪を拒むように、仄暗く澄んだ目が捉えて来る。

「………ううん、大丈夫」

 月裏は、そう答えていた。
 意思に反した言葉が、勝手に零れた。
 譲葉の表情は相変わらず変化せず、何を考えているかよく分からない。

「お腹が空いた」

 加えて、突拍子もない言葉が零されて更に分からなくなった。

「ご飯が食べたい」

 だが、まるで小さな子どものような訴えは、窮地にあった月裏の心を僅かに解きほぐした。

「…………うん、食べよっか……」

 やっぱり生きていて良かった。なんて安易な考えが過ぎり、自分で自分が分からなくなった。

 ¨もし、昨日が最期の日だったら。¨
 電車に揺られながら、不意に浮かぶ。
 生き残った翌日は大体、¨どうして死ねなかったのか¨の疑問に駆られていて、この問いに触れるのは初めてな気がする。
 生きていて良かったと思う反面、日々を抜け出せなかった悔しさも残っている。
 ぼんやりする脳では、結局どちらが良かったかなんて決められない。いや、多分本調子でも決められないけれど。

 月裏は、耳慣れた声のアナウンスを聞きながら、目を閉じて思考を放棄した。

 職務に集中できないどころか、周りの声までもが遠く聞こえて、今日一日は変な感覚だった。
 それでも、周りが何を言っているか理解はでき、傷心を回避する事は出来なかったが。

 死んでいれば良かったとの気持ちと、譲葉の為に生きなくてはならないとの気持ちが、ずっと回り続けている。
 葛藤しては傾き、また繰り返す。それは疲れとなり、月裏の心と体に蓄積された。

「…………ただいま……」

 顔も上げないまま扉を開いたが、扉の先には今日も譲葉は居ない。多分、奥の部屋に居るのだろう。
 また、倒れていないだろうか。
 刻み込まれた記憶が引き出され、極度の不安に駆られる。気分の悪さも加わって、廊下に据えた足が震える。

「おかえり、月裏さん」

 遠くからの小さな声にハッとなり顔を上げると、奥の部屋の扉から顔を覗かせている譲葉が見えた。
 一気に胸を満たした安心感の所為で力が抜け、月裏はその場で蹲ってしまった。
 頭がくらくらして気持ちが悪くて、鼓動がうるさく鳴っている。多分貧血だ。

「……月裏さん、大丈夫か?」
「………大丈夫、よくある事だから気にしないで……」

 声が震える。大丈夫だと主張しているくせに、言葉通りの態度が全く作れない。
 譲葉は少しの間だけ立ち尽くしてから、そっと背中を摩りはじめた。
 とある日に、類似しているのを思い出す。
 前も蹲ってしまった際、譲葉はこうして背を撫でてくれた。まるで苦しみを和らげようとするかのように。

「……ごめんね譲葉くん……こんな大人でごめん……」

 前と同じ台詞が、口頭に上る。
 譲葉は多分、否定しない。しかし、それを良い事に発言しているわけでは無い。謝罪が勝手に口をつくのだ。
 だとしても自分は卑怯だ。困らせると分かって言っているのだから。理解しながら、止められないのだから。

 月裏は悲観的に傾いてゆく自分の気持ちに抗えず、頭の中を埋めてゆく願いを喉まで上らせる。

「…………譲葉くん……僕を……」

 だが、言い切ってしまうのは止めた。

「どうした?」
「…………なんでもない……。譲葉くん先に寝ていても良いよ、直ぐに行くから……」
「………でも」

 顔を伏せた状態でも、譲葉の困っている様子が目に浮かぶ。
 譲葉に見せたい態度の理想と現実が大きすぎて、自分自身失望してしまう。
 どうして上手くやれないんだと、自分を攻めてしまう。

「……大丈夫、一人の時もこういう事はよくあったんだ……すぐに立てるようになるから心配しないで……」
「だったら、それまで一緒にいる」

 全ては、譲葉が優しいからだ。
 人間として出来た彼を目の前にしてしまうと、ちっぽけな自分がとても恥ずかしくなる。
 良くしてもらって何も返せないなんて、自分はなんて駄目な人間だ。
 やっぱり、死んでしまいたい。

「…………譲葉くん……僕……」

 一旦回復しても、些細なきっかけで直ぐに落ち込んでしまう心を、コントロールするのに疲れた。

「…………死にたい」

 体と意思が、乖離しているような感覚がある。
 自分は少し離れた所から、幽体離脱でもしているように声を聞いていて、だが絶望は身近にあって妙な感覚だ。
 とにかく気分が悪くて、意識がはっきりとしなくて、うわ言を言うように声を作ってしまう。

「…………死んで楽になりたい……苦しい………」

 駄目だと分かってはいるのに、表面上だけの理解は言葉を制止してくれない。

「…………嫌だ」

 ぽたりと、雫が床に付いた手の甲に落ちた。自分の物ではない雫に、驚いて顔を上げてしまう。

「…………嫌だ……」

 幾つもの筋を頬に描き、譲葉が泣いていた。

「………譲葉くん……?」

 歪まず、美しいままの泣き顔。少し寂しそうな、苦しそうな、けれど確かに心の中が表面化された顔。
 月裏はそこで、漸く我に帰った。

「………ご、ごめ………」

 引き返せない状況を作ってしまった事に、酷く戸惑い困惑してしまう。
 譲葉は、背中に宛てていた手を、雫の溢れる目元に宛がい塞き止めようと必死になっている。何も言わずに、呼吸ごと声を殺している。
 多分、泣く事で責めてしまわないよう、どうにか押さえようとしているのだろう。

「…………譲葉……くん……ごめ……」

 目の前で静かに泣き続ける譲葉を見続けていると、こちらまで泣きたくなってくる。
 悲しい気持ちが伝染して、自然と涙が頬を伝う。
 それは様々な悲観や出来事を絡めて、段々と大きくなってゆく。その内堪えきれない嗚咽まで溢れ出して、制御が利かなくなってしまった。

 これで終わりだ。やはり、昨日死んでいれば良かったのだ。譲葉の為に生きようなんて言うのは、自己中心的な考えだった。
 生きたところで、恩返しなんて出来ないのに。こうやって泣かせてしまうだけなのに。

 嗚呼、そう考えてしまう事がもう自分勝手だ。
 譲葉は否定したのに、拒否が涙まで齎したと言うのに、まだ死んでいれば良かっただなんて。
 昨日切った手首が、ズキズキと痛む。もう傷は塞がったはずなのに強く轟く。

「…………ごめんね、ごめんね………」

 謝罪を繰り返しながらも、今すぐ心臓が止まってほしいと考えている。そんな自分を酷く嫌悪した。
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