造花の開く頃に

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12月21日

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[12月21日、水曜日]
「おはよう月裏さん」

 逸早くリビングに来ていた月裏は、声に動かされはっとなる。随分長い事ぼんやりしてしまっていた。

「……おはよう譲葉くん」

 譲葉は目の前に食事が無いのを見て、不思議そうにしながらも席についた。口に手を宛てて、欠伸を飲み込む仕草が見える。

「……眠そうだね」
「……少しだけだ、この位なんともない」

 眠気の原因は多分薬だ。副作用として眠気があるかも知れないとは、最初の時点で聞いている。

「……辛かったら眠りなよ」
「大丈夫だ、無理はしていない」

 率直な台詞に、月裏は声を失ってしまった。
 無理をしているかもしれないとの心配が、はっきり悟られていた事に唖然としてしまったのだ。

「月裏さんも無理するなよ、俺は大丈夫だから」

 そして、この言葉も。
 触発され、心を抉り、またじわりと気持ちが込み上げた。3日前の事件が真っ先に浮かぶ。

「…………ありがとう……」

 報いる為の台詞を絞り出して、漏れかけた気持ちを押し付け笑った。

 体全体が重い。涙をひたすら我慢し続けている所為で根を詰めすぎてしまい、普段より更に感傷的になってしまっている。
 しかし、頑張っている譲葉に縋る事はできない。現状を全く知らない祖母に余計な心配を掛ける訳にもいかない。
 今はただ、誰にも悟られないように腹蔵するしかない。数日先さえ見えなくても、成り行きに任せて手探りするしかない。

 職場内は、澱んだ空気が満ちていた。
 椅子に座った上司は既に腕組みしており、目の前の書類と署内を交互に見ては指先でしきりに腕を突いている。
 月裏は違和感とならないよう、そそくさと席に着いた。
 ファイルを引き出す指先が震えている。滑らせそうになって、すかさず左手で支えた。
 周りの視線が向かなかったが、軽く確認する。
 見て見ぬ振りか視線は様々で、それぞれ目立たぬよう息を顰めていた。

 だが一瞬、上司と目が合った。咄嗟に逸らしたが。
 どきどきと脈が早まり、書類を捲る指が震える。息がし辛い。苦しい。
 駄目だと思えば思うほど、一人で頑張らなければと覚悟を決めるほど、拒絶するように辛くなる。
 嘔吐しそうになり、月裏は明らかな体の違和感に対処しようと無意識に口を塞いでいた。
 唇に触れた感覚にはっとなり、急いで右手を下げる。

「おい、朝日奈」

 気付かぬ間に上司が背後に詰めており、月裏は恐る恐る振り向く。

「……す、すみませ……」

 上司の顔を見た瞬間、意味の分からない謝罪が口をついた。だが、

「調子が悪いなら医務室に行って来い」

 と言われてしまった。

 月裏は、ちらほらとしか人の居ない廊下を歩いていた。
 勢いで返事し飛び出して来たのは良いが、未だに頭が真っ白になっている。
 優しい言葉が、違和感の塊に形を変えて残る。どうしても、純粋な心配を持ち薦めたと思えず、疑ってしまう。

 また倒れられたら迷惑だから。大方そんな所だろう。
 しかし、居心地の悪い空間から遠ざかれたとの事実は、幾らか苦痛を緩和した。

 始めて入室する医務室は、思っていたより狭い空間だった。ベッドが二つと、箱の中で規則正しく整列した体温計や絆創膏などの医療道具、そして業務用の電話のみが置かれた空間はどこか閉鎖的だ。
 月裏は入ってみたものの、次にとるべき行動が見出せず、一先ずベッドに腰掛けた。

 人を雇う余裕さえない会社だ、専属医などいる筈も無い。故に、部屋は静か過ぎるくらい静かだ。
 微かな消毒液の香りが鼻を掠める。誰かが使った形跡もないのに、特有のにおいが残っている。
 譲葉もこのような空間の中で、己と向き合おうと必死になっているのだろうか。

 医師は説明の中で、トラウマになっている原因と向き合う事で苦手意識を克服する、との方法を口にしていた。その説明を聞いたきりで、ここ三日譲葉からは何も聞いていない。
 語り合う時間も無ければ、話題に触れてさえいないのだ。切欠すらないわけだが。
 辛い思いをしていないか、懸念してしまう。
 しかし、周囲の人間の役目は、急かさず冷静に付き合う事だ。気にはなるが、話すタイミングに関しても譲葉の意向の尊重が求められる。

 モヤモヤと巡り続ける不快感に苛まれつつ、月裏はベッドに背を預けた。
 慣れない空間に一人切りだと、底知れない孤独感に襲われる。
 このまま目を閉じて、一生目覚めなければいいのに。月裏は薄れゆく意識の中で、また無意識に死を願った。

 その後、遣ってきた見知らぬ同僚に「大丈夫か」と揺り動かされ、渡されるがまま体温を測ったわけだが、そこで熱が出ている事を知り帰宅を促された。
 月裏は迷い躊躇いつつも、浮つく意識に従って帰宅を決めた。
 知らない同僚が、部署には伝えておいてくれるとのことだ。

「……ただいまー」

 月裏は、真っ昼間から帰宅した自分への反応を恐れながらも、玄関の取っ手を引いた。
 真っ先に視線を落とした先、靴はある。音もどこからか聞こえてくる。
 月裏は帰宅を報告する為、音の方へと歩き出した。

 音源はリビングにあった。外に立った瞬間、料理中であると把握した。約束通り、週の半ばに残りの半分を拵えてくれていたのだ。
 月裏は緊張気味にノックし、扉を開いた。

「……譲葉くん」

 どうやら譲葉はノックに気付いてさえいなかったらしく、振り向いた顔は非常に驚いていた。

「月裏さん、どうした!?」

 菜箸の先が皿に乗るよう揃えておき、火加減を弱くすると不安定に駆け寄ってきた。
 安定しない体を支えようしてか、両手が月裏の肩元の袖を掴んだ。

「…………調子が悪くて帰って来ちゃった……」

 早退するほどの不調だ。気遣わせる事を承知の上、せめて緩和するようにと一笑する。

「…………そうか、辛かったな」

 真っ直ぐに向く瞳が、自分だけを捉えていると思うと直視できない。

「…………ううん、大丈夫……大丈夫だから心配しないで……」

 全ての思考を差し置いて、自分だけに意識が向けられていると思うと逃げたくなる。
 ふわりと、頭上に素手の感触が下りた。譲葉が嘗て、母親から受けていたと言う愛情表現だ。

 譲葉に縋ってしまおうと自分を許した日、慰めの為にしてくれた行為が重なる。
 心が震えて、抑えきれなくなった涙が落ちた。結局我慢できず、泣いてばかりで実に情けない。

「…………またこんな……、ごめん……」

 けれど、リミッターが外れてしまった今、制御は効かなかった。
 また、たった数日しか押さえられなかった。
 駄目だと言い聞かせた後、すぐに脆く崩壊してしまった。
 自分は弱い。厭になる位弱い。虚勢を張り続けられずに、弱さを曝け出してしまう自分が大嫌いだ。

「…………譲葉くんばかりに心配かけて考えさせて……我慢させて……辛い思いさせて、それなのに助けられなくて……どうすれば良いか分からなくてもどかしくて…………僕はそんな自分が嫌だ……」

 自分は何を言っているのだか。こんな事を告げても、また譲葉を追い詰めるだけなのに。
 意識が朦朧とし、夢現が混濁していて、乖離現象に襲われている感覚だ。口が勝手に心根を曝け出す。

「でも俺は月裏さんと生きたい」

 端的な台詞に、月裏は放心する。
 全てを包み込む家族以上の言葉に、正直疑念しか浮かばない。
 他に頼れる人間が居れば、そちらに靡いてしまうだろう。自分で生きる力があれば、いつか離れていってしまうだろう。
 普通に考えて、皆が納得する見解だと思う。
 しかしそれでも、はっきりとした意見は月裏の心を揺さ振って慰めた。

「…………ありがとう……」

 そんな、優しい譲葉が大好きだ。
 恥ずかしくて言葉には出来なかったが、胸の内で暖かい感情が溢れた。
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