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43(アベル)
胸騒ぎがした。
僕は自分が聡明で信頼に値する人格であると自負している。
夕食前、急いで母の部屋に向かった。
母は黒衣に身を包み、小さな手荷物一つで静かに部屋を出たところだった。それから早足で裏門へ。僕は着の身着のままだったけれど、狩りの練習で放り投げた外套一式がお気に入りの馬の寝床に隠してあるので、焦らない。
薄暗い通路の、小さな扉。
裏門に続く狭い廊下に出ようとした母を呼び止める。
「母上」
「……」
母は無言で時を止め、静かに振り向いた。
黒いベールの向こうに揺れるのはきっと、蒼白い頬。
いつものおしろいの匂いがしない。母は化粧を落としているか、極めて薄化粧という状態だ。
喪に服している。
「母上。僕も連れて行ったほうがいいですよ」
「……」
「僕は次期クルーム侯爵です。僕の存在が、母上の助けになります」
「……」
まるで、言葉の通じない外国人に話しているみたいだ。
或いは、言葉を忘れた亡霊。
それでも僕は母を見上げていた。
だって、僕の母だから。
この人を失ったら、僕は……
「ごめんなさい」
小さく洩らした声は乾き、掠れている。
一瞬の絶望の後、僕は母に強く抱きしめられていた。
「……ごめんなさい……っ、アベル……!」
「……っ」
母は消えそうな声で僕に詫び、泣き出した。
わかっている。
そうなんだ。
全てを捨てて、僕を棄てて、出て行くつもりだったんだ。
わかるよ。
僕だって、何度も家出したくなった。
僕は母にしがみ付いた。
「ごめんなさい、アベル……行きましょう」
母が僕の手を握り、扉を開けた。
久しぶりに繋いだ手は冷たくて硬くて、記憶していたより小さく、頼りなく感じる。
僕の知らない人。
母の、前の結婚相手。
母の愛した人。
その人のもとに帰るんだ。
ずっと感じていたのは、母に対する奇妙な違和感。
何処か夢のようで、浮遊しているようで、努めてクルーム侯爵夫人の役を演じているだけなのではと疑っていた。
やはり、そうだったんだ。
だけど僕は知っていた。
僕と二人きりで過ごす時間だけは、母は、本当の母で僕を愛してくれていた。
母は今、黒のレースの手袋を外しもせず、その甲で頬の涙を拭いながら僕の手を引いて歩いている。
「……」
決めたんだ。
母は、自分の人生を、生きると。
何処に行くかは見当がついている。というか、決まっている。
「ちょっと待って」
僕は自分の外套一式を取る為に、母をお気に入りの馬のところまで導いた。
急ぎたいだろうに、母は僕に従ってくれた。
「いつか迎えにくるよ。それまで、待ってて」
残念ながら、僕のお気に入りの馬を所有しているのは父だ。勝手に連れ出して事態をややこしくするのはよくない。
一瞬で旅支度を整えて、母を見遣る。
洩れ入る月灯りに照らされた母の表情は、ベールの向こうで少し驚き、困惑しているようだった。
だから僕は言った。
「ご覧の通り。僕は此処が嫌いだった。いつだって出て行きたかった。だから、母上が気に病むことはひとつもありません。逃げますよ、さあ。僕に、いい考えがあるんです」
あんな男に食い潰されてたまるか。
あの男の為に生まれてきたわけじゃない。
幸せになるんだ。
生きるんだ。
僕も、母も。
僕は自分が聡明で信頼に値する人格であると自負している。
夕食前、急いで母の部屋に向かった。
母は黒衣に身を包み、小さな手荷物一つで静かに部屋を出たところだった。それから早足で裏門へ。僕は着の身着のままだったけれど、狩りの練習で放り投げた外套一式がお気に入りの馬の寝床に隠してあるので、焦らない。
薄暗い通路の、小さな扉。
裏門に続く狭い廊下に出ようとした母を呼び止める。
「母上」
「……」
母は無言で時を止め、静かに振り向いた。
黒いベールの向こうに揺れるのはきっと、蒼白い頬。
いつものおしろいの匂いがしない。母は化粧を落としているか、極めて薄化粧という状態だ。
喪に服している。
「母上。僕も連れて行ったほうがいいですよ」
「……」
「僕は次期クルーム侯爵です。僕の存在が、母上の助けになります」
「……」
まるで、言葉の通じない外国人に話しているみたいだ。
或いは、言葉を忘れた亡霊。
それでも僕は母を見上げていた。
だって、僕の母だから。
この人を失ったら、僕は……
「ごめんなさい」
小さく洩らした声は乾き、掠れている。
一瞬の絶望の後、僕は母に強く抱きしめられていた。
「……ごめんなさい……っ、アベル……!」
「……っ」
母は消えそうな声で僕に詫び、泣き出した。
わかっている。
そうなんだ。
全てを捨てて、僕を棄てて、出て行くつもりだったんだ。
わかるよ。
僕だって、何度も家出したくなった。
僕は母にしがみ付いた。
「ごめんなさい、アベル……行きましょう」
母が僕の手を握り、扉を開けた。
久しぶりに繋いだ手は冷たくて硬くて、記憶していたより小さく、頼りなく感じる。
僕の知らない人。
母の、前の結婚相手。
母の愛した人。
その人のもとに帰るんだ。
ずっと感じていたのは、母に対する奇妙な違和感。
何処か夢のようで、浮遊しているようで、努めてクルーム侯爵夫人の役を演じているだけなのではと疑っていた。
やはり、そうだったんだ。
だけど僕は知っていた。
僕と二人きりで過ごす時間だけは、母は、本当の母で僕を愛してくれていた。
母は今、黒のレースの手袋を外しもせず、その甲で頬の涙を拭いながら僕の手を引いて歩いている。
「……」
決めたんだ。
母は、自分の人生を、生きると。
何処に行くかは見当がついている。というか、決まっている。
「ちょっと待って」
僕は自分の外套一式を取る為に、母をお気に入りの馬のところまで導いた。
急ぎたいだろうに、母は僕に従ってくれた。
「いつか迎えにくるよ。それまで、待ってて」
残念ながら、僕のお気に入りの馬を所有しているのは父だ。勝手に連れ出して事態をややこしくするのはよくない。
一瞬で旅支度を整えて、母を見遣る。
洩れ入る月灯りに照らされた母の表情は、ベールの向こうで少し驚き、困惑しているようだった。
だから僕は言った。
「ご覧の通り。僕は此処が嫌いだった。いつだって出て行きたかった。だから、母上が気に病むことはひとつもありません。逃げますよ、さあ。僕に、いい考えがあるんです」
あんな男に食い潰されてたまるか。
あの男の為に生まれてきたわけじゃない。
幸せになるんだ。
生きるんだ。
僕も、母も。
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