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44(カールフェルト伯爵)
早朝の訪問に対応した執事が渋い顔で俺を起こした時、何かよくない事件が起きたのだと思った。
一瞬で跳ね起き、身支度を整えながら話を聞くと、完全に杞憂だった。
母が帰ってきた。
家の者は皆、母を嫌っている。
血筋に対して文句をつけているわけではない。そうであれば、俺はここまで愛されない。
父の死後、母は逃げた。
共に悼む人生から、逃げたのだ。
一度は受け入れ、愛情を注ぎ忠誠を尽くした相手が、自分たちを丸ごと棄てて新しい人生を築いてしまった。
カールフェルト伯爵家の使用人たちにとって、それは紛れもない裏切りだった。
とはいえ、俺は母の帰還を心底喜んでいる。
会いたくなかったわけがない。
愛が憎しみに変わらないことだってある。俺はそれを証明する。
案の定、カールフェルト伯爵家の裏切り者であるクルーム侯爵夫人は、その身分にも関わらず正門を潜る事さえ許されずに待たされていた。
俺は焦る気持ちを抑え、小走りで向かった。
小さな少年を連れている。
尋ねなくても、それが誰かはわかっている。
クルーム侯爵家の跡取。
俺と半分血の繋がった弟アベルが、母を守るように前に出た。今、九歳か。それにしては大人びた印象を受ける。血筋か、教育か。
母はその細い腕でアベルを下がらせ、此方を見据える。
そして俺が辿り着いたのと同時に跪いた。
「母上!?」
弟アベルが声を上げた。
俺も同じ気持ちだったが、こちらは言葉を失いただ茫然と母を見下ろすしかできなかった。
母は頭を垂れて、言った。
「カールフェルト伯爵。申し訳ございませんでした。何とお詫び申し上げようとも、私の罪は消えることはありません」
「……」
黒衣に身を包み、黒のベールで顔を覆っている。
母が何を言っているか、わからないではない。だが……
「何でも致します。小間使いでも、洗濯でも。掃除も、どんな場所でもいたします。ですので……どうか、お願いします。あの人の……」
「やめてください、母上」
やっと声が出た。
俺は母の前に跪き、その肩に触れた。冷たかった。
「母上。シモンと呼んでください。あなたの息子です」
「申し訳……」
「何も謝ることはありません。母上、おかえりなさい」
「……っ」
母の肩が激しく震えた。
泣き崩れるかと思ったが、母は必死で耐えているようだった。
「父上も喜んでいるでしょう。ですが、まずは旅の疲れを癒しましょう。それから共に墓地へ。部屋も昔のままです。ゆっくり過ごしてください」
「ありがとう……ございます……っ」
母が他人行儀なのは、罪悪感だけが理由ではないだろう。
俺も大人になり、よく父の生き写しだと言われる。そんな俺を直視するのは、母にとって切ないはずだ。
俺は傍らで立ち尽くす弟を見上げた。
俺とはあまり似ていない、クルーム侯爵家の血が強く出ている利発そうな少年だった。
「アベル卿、母上をお守りしたのですね、御立派です。感謝申し上げます」
「あ、はい」
「お疲れでしょう。すぐに部屋を用意させます。それまで、どうぞ朝食を召しあがってください」
「……どうも」
血統という意味では、俺のほうが遥かに格下だ。
トーシュ公爵夫人フレデリカは懐妊した。弟アベルは、王族の叔父になる。
だが、まあ、そんなことは今はどうでもいいだろう。
母が帰ってきた。
こんなに嬉しいことはない。
「母上」
呼び掛けながら、俺は弟を目で促した。
小さな弟は、俺と二人で母を挟んで左右に立った。泣きじゃくる母を共に支えて立たせ、共に労わりながら、屋内へと導いていく。
母を休ませなければ。
それに、弟も。
使用人たちは苦い顔をしていたが、クルーム侯爵家の令息もついてきたとなれば話は別のようで、それはもう丁重にもてなす気になったらしい。
併し、迅速に仕事を割り振り、母の部屋を用意させているメイド長が憤怒の炎で瞳をギラギラさせたままだからか、メイドたちは全員怒りを隠しはしなかった。女の世界は、本当に恐い。
母と弟にくつろぐよう言って応接室を出たところで執事に捕まった。
「坊ちゃま。よろしいのですか?」
呼び方が昔に戻っているのにこの上なく真剣だから、つい笑ってしまった。
「当たり前だ」
「ですが」
「母上は悲しみのあまり気が狂い、長く行方知れずだった。だが帰ってきた。こんなに嬉しいことは無い」
「……」
不満そうだ。
「俺と父上が愛する人だ。優しくしてくれ」
「畏まりました、坊ちゃ───旦那様」
「新しい坊ちゃまが現れた。良かったな」
俺は執事の肩を叩き、親指を立てて祝い、足早にその場を離れた。
メイド長に同じ事を頼まないといけない。何しろ、母は嫌われている。
案の定、何をヘラヘラしているのかという呆れと怒りを綯い交ぜにした視線の刃に四方八方から俺は刺し貫かれたが、これだけは確かだった。
かつて母を受け入れ、愛そうとしてくれた大人たちは、深く俺を愛している。
俺の頼みを聞いてくれないはずがない。
そして、父が。
亡き父が、母の帰還を誰よりも喜んでいるはずだと、家の者たちは理解している。
ふと、遥か彼方、クルーム侯領の方角へと視線を投げた。
幾度も繰り返したこの行為の意味が、今日から、明確に変わる。
母は黒衣を纏い、弟は着の身着のまま、来た。
相手にするには些か強敵だが、此方も軟弱ではない。
俺から母を奪い、父から妻を奪ったクルーム侯爵。
さて、どう出る?
お前の息子は、俺の手の内に居る。
一瞬で跳ね起き、身支度を整えながら話を聞くと、完全に杞憂だった。
母が帰ってきた。
家の者は皆、母を嫌っている。
血筋に対して文句をつけているわけではない。そうであれば、俺はここまで愛されない。
父の死後、母は逃げた。
共に悼む人生から、逃げたのだ。
一度は受け入れ、愛情を注ぎ忠誠を尽くした相手が、自分たちを丸ごと棄てて新しい人生を築いてしまった。
カールフェルト伯爵家の使用人たちにとって、それは紛れもない裏切りだった。
とはいえ、俺は母の帰還を心底喜んでいる。
会いたくなかったわけがない。
愛が憎しみに変わらないことだってある。俺はそれを証明する。
案の定、カールフェルト伯爵家の裏切り者であるクルーム侯爵夫人は、その身分にも関わらず正門を潜る事さえ許されずに待たされていた。
俺は焦る気持ちを抑え、小走りで向かった。
小さな少年を連れている。
尋ねなくても、それが誰かはわかっている。
クルーム侯爵家の跡取。
俺と半分血の繋がった弟アベルが、母を守るように前に出た。今、九歳か。それにしては大人びた印象を受ける。血筋か、教育か。
母はその細い腕でアベルを下がらせ、此方を見据える。
そして俺が辿り着いたのと同時に跪いた。
「母上!?」
弟アベルが声を上げた。
俺も同じ気持ちだったが、こちらは言葉を失いただ茫然と母を見下ろすしかできなかった。
母は頭を垂れて、言った。
「カールフェルト伯爵。申し訳ございませんでした。何とお詫び申し上げようとも、私の罪は消えることはありません」
「……」
黒衣に身を包み、黒のベールで顔を覆っている。
母が何を言っているか、わからないではない。だが……
「何でも致します。小間使いでも、洗濯でも。掃除も、どんな場所でもいたします。ですので……どうか、お願いします。あの人の……」
「やめてください、母上」
やっと声が出た。
俺は母の前に跪き、その肩に触れた。冷たかった。
「母上。シモンと呼んでください。あなたの息子です」
「申し訳……」
「何も謝ることはありません。母上、おかえりなさい」
「……っ」
母の肩が激しく震えた。
泣き崩れるかと思ったが、母は必死で耐えているようだった。
「父上も喜んでいるでしょう。ですが、まずは旅の疲れを癒しましょう。それから共に墓地へ。部屋も昔のままです。ゆっくり過ごしてください」
「ありがとう……ございます……っ」
母が他人行儀なのは、罪悪感だけが理由ではないだろう。
俺も大人になり、よく父の生き写しだと言われる。そんな俺を直視するのは、母にとって切ないはずだ。
俺は傍らで立ち尽くす弟を見上げた。
俺とはあまり似ていない、クルーム侯爵家の血が強く出ている利発そうな少年だった。
「アベル卿、母上をお守りしたのですね、御立派です。感謝申し上げます」
「あ、はい」
「お疲れでしょう。すぐに部屋を用意させます。それまで、どうぞ朝食を召しあがってください」
「……どうも」
血統という意味では、俺のほうが遥かに格下だ。
トーシュ公爵夫人フレデリカは懐妊した。弟アベルは、王族の叔父になる。
だが、まあ、そんなことは今はどうでもいいだろう。
母が帰ってきた。
こんなに嬉しいことはない。
「母上」
呼び掛けながら、俺は弟を目で促した。
小さな弟は、俺と二人で母を挟んで左右に立った。泣きじゃくる母を共に支えて立たせ、共に労わりながら、屋内へと導いていく。
母を休ませなければ。
それに、弟も。
使用人たちは苦い顔をしていたが、クルーム侯爵家の令息もついてきたとなれば話は別のようで、それはもう丁重にもてなす気になったらしい。
併し、迅速に仕事を割り振り、母の部屋を用意させているメイド長が憤怒の炎で瞳をギラギラさせたままだからか、メイドたちは全員怒りを隠しはしなかった。女の世界は、本当に恐い。
母と弟にくつろぐよう言って応接室を出たところで執事に捕まった。
「坊ちゃま。よろしいのですか?」
呼び方が昔に戻っているのにこの上なく真剣だから、つい笑ってしまった。
「当たり前だ」
「ですが」
「母上は悲しみのあまり気が狂い、長く行方知れずだった。だが帰ってきた。こんなに嬉しいことは無い」
「……」
不満そうだ。
「俺と父上が愛する人だ。優しくしてくれ」
「畏まりました、坊ちゃ───旦那様」
「新しい坊ちゃまが現れた。良かったな」
俺は執事の肩を叩き、親指を立てて祝い、足早にその場を離れた。
メイド長に同じ事を頼まないといけない。何しろ、母は嫌われている。
案の定、何をヘラヘラしているのかという呆れと怒りを綯い交ぜにした視線の刃に四方八方から俺は刺し貫かれたが、これだけは確かだった。
かつて母を受け入れ、愛そうとしてくれた大人たちは、深く俺を愛している。
俺の頼みを聞いてくれないはずがない。
そして、父が。
亡き父が、母の帰還を誰よりも喜んでいるはずだと、家の者たちは理解している。
ふと、遥か彼方、クルーム侯領の方角へと視線を投げた。
幾度も繰り返したこの行為の意味が、今日から、明確に変わる。
母は黒衣を纏い、弟は着の身着のまま、来た。
相手にするには些か強敵だが、此方も軟弱ではない。
俺から母を奪い、父から妻を奪ったクルーム侯爵。
さて、どう出る?
お前の息子は、俺の手の内に居る。
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