魔法使いの同居人

たむら

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魔法使いの同居人

5話

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 三限目の授業は苦手な数学だった。

 正確に言うと数学という教科そのものが苦手なわけではない。むしろ理系科目はテストにおいての得点源だ。

 何がダメなのかと言うと、念仏を唱えているかのような先生の口調だ。あの声を聞いていると授業の内容何て耳を素通りしてしまい、強烈な眠気に襲われる。

 案の定、さっきから僕の背後から寝息が聞こえている。きっと涼川さんだ。

 人目もはばからず机に突っ伏す彼女の姿を想像していると、今朝方の出来事が思い起こされた。

 それは学校へ行くための支度を終えた後のことだった。僕は律儀にも昨夜の約束を果たすべく、リビングで紗月さんを待っていた。

 しかしいつまで経っても紗月さんはやってこない。まだ遅刻になる時間でもなかったが、業を煮やした僕は彼女の部屋へと迎えに行った。

 母親がいるため大きな音や声を出すことはできない。小声で扉の外側から呼びかけてみたが、中から反応は返ってこなかった。かといって、無断で女性が寝てる部屋に入るのは躊躇われる。

 しかし、もとはと言えば時間を守っていないのは紗月さんのほうだ。それに姿が見えないのだから寝顔を見てしまうとか着崩れた寝間着から下着が見えてしまう、というハプニングが起きることはない。

 多少の罪悪感はあったが、部屋に足を踏み入れることにした。

 緊張しながらドアを開けると、誰もいない室内から紗月さんの寝息だけが微かに聞こえる。自分から約束を取り付けたというのに、完全に寝坊している。女性のものとわかる吐息に緊張するが、やましい考えを頭から追いやりベッドへと向かう。

 身体に触るわけにもいかず、迷った末ベッドを乱暴に揺すってみる。なかなか目を覚まさないので執拗に繰り返していると、「あと五分」という素っ気ない言葉が返ってきた。

 時間を確認すると、いつもの出発時間はとうに過ぎていた。

 義理は果たしたと考えた僕は、紗月さんに先に行くことを伝えると、一人で家を出たのだった。

 再び意識が教室に戻る。ずいぶん時間が経ったような気がしたが、時計は五分も進んでいなかった。このペースだと授業が終わるころには干からびてしまうに違いない。

 少しだけ進んでいた黒板を急いでノートに書き写していく。この先生は黒板をすぐに消すので、さっさとノートを取らないと置き去りにされる。しかもさらっと板書した問題がそのままテストに出ることもあるから気が抜けないのだ。

「しっかり授業を受けているみたいですね」

 突然、真正面のそれも至近距離から話しかけられ、僕は驚きのあまり後方へ飛び退いてしまう。膝裏に当たった椅子が床を引き摺り、不快な音が教室中に響く。

 勢いそのまま立ち上がってしまう。クラスメート中の視線が僕に向けられていた。

「一ノ瀬、どうしたんだ?」

 先生の問いかけに、すぐに答えることができなかった。自分でも何が起きたかわかっていない。

 激しく脈打つ心臓は少しずつ冷静さを取り戻していく。頭から血が下りると、代わりに羞恥心が湧き上がってきた。それと同時に僕は自分の身に何が起きたのかを理解する。

 なんとか誤魔化さなくては。頭をフル回転させる。

「すみません。蜘蛛がいたので」
「蜘蛛?」
「はい。もうどこかへ行ってしまったみたいですが」

 周りのクラスメートたちが慌てて自分の周囲に蜘蛛がいないかを確認しだす。顔を強張らせている女子生徒もいて、嘘をついたことに申し訳ない気持ちになる。

「とにかく座りなさい。授業を続けます」

 先生はそう言うと背を向け、再び黒板へチョークを走らせた。

 僕が着席すると、クラスのみんなはこちらを気にしながらも授業に戻っていった。
 全員の視線が僕から離れたことを確認すると、ノートの端にペンを走らせる。

『驚かせないでよ』

 それは傍にいるであろう紗月さんに宛てたメッセージだった。

「凄いびっくりしてましたね」

 紗月は笑いながら言う。

『至近距離から急に声をかけられたら誰だってああなるよ。こんなこと繰り返されたら心臓がもたない』
「それでは、こういうのはどうでしょう。千花くんに話しかけるときは、少し離れた位置から鼻歌を口ずさみながら近づくようにします。そうすれば、いきなり話しかけられてびっくりすることもないですよね」
『鼻歌?』
「ジョーズのBGMなんてどうでしょうか。近づいてくる感じがするでしょう」
『怖いよ。襲われると思っちゃう』
「わがままですね。それなら千花くんがアイディアを出してくださいよ」

 急に言われても困ってしまう。しかし紗月さんに任せてしまうとろくなことにならないことは目に見えているので、僕はできるだけ不自然にならず、互いに合図を送る方法を考える。

『咳ばらい二回を合図にしよう。僕に話しかける前に咳ばらいしてくれれば、紗月さんの位置もわかるし、心の準備もできる。逆に紗月さんの位置を把握したいときには僕の方から咳ばらいする。そのときは声を出してどこにいるのかを教えて』
「暗号みたいで面白そうですね」
『くれぐれも忘れないように』
「了解です」

 試しに僕はその場で咳ばらいをした。

「ここにいますよ」
『いいね。その感じでよろしく』

 僕は一息つくと意識を授業へと戻す。

 しかし紗月さんが近くにいることを想像すると、なんだか落ち着かない。家族が授業参観に来ているような居心地の悪さがあった。

 授業はすっかり進んでしまったようだ。今から遅れを取り戻すことは不可能だろう。すっかり諦めモードになった僕は、教科書を閉じるとノートの端に紗月さんへのメッセージを書き込む。

『このままここにいるの?』

「うーん」と彼女は考えている素振りを見せた後、「飽きたので校内の散策にでも行ってきます」

 願ってもない提案だ。紗月さんがいたのでは、注意力散漫になってしまう。僕の勉学のためにも、いち早く教室から出ていってほしかった。

『いってらっしゃい』
「放課後までには戻ってきますね」

 別に戻ってこなくてもよいのだが、とにかく紗月さんを追い払うことには成功したようだ。ほっとする一方、校内に泥棒を放ってしまったことの心配が脳裏をよぎった。

 しかしすぐに考えを改める。無意味に悪さをするような人ではないという、紗月さんに対する根拠のない信頼があった。

 そういえば、と疑問が浮かぶ。

 クラスメートや先生も当然のように紗月さんを認識していなかった。授業中にあれだけ好き放題話していて、誰にも聞こえていなかったということはないだろう。

 となれば、みんなも僕と同じく彼女の催眠術にかかっているということになる。今朝から三限目までの時間にクラスメート全員に催眠術を掛けたと言うのか。

 いくらなんでも手際が良すぎる。いったいどんな技を使ったのだろうか。

 そんなことを考え始めたところで、ノートに書かれた紗月さんとのやり取りが目に付いた。とっさに使ってしまったが、これは数学用のノートだ。落書きは消さなければと、僕はペンケースから消しゴムを取り出そうとした。

「あれ?」

 消しゴムがどこにもない。今さっき使ったので、どこかに忘れてきたということはない。床を見回しても見つからない。

 嫌な予感がして僕はペンケースの中身を一通り確認する。消しゴムに加え修正テープが紛失していた。代わりにノートの切れ端がペンケースの中に残されていた。

『泥棒参上!』

 紙には可愛らしい文字でそう書かれていた。謎の女の子のイラストが添えられている。紗月さん本人の似顔絵の可能性も考えられるが、彼女の顔を知らないので真偽は不明だ。

「……やりやがったな」

 いつか筆跡から紗月さんが捕まることを期待して、紙をペンケースの中に大切にしまった。
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