魔法使いの同居人

たむら

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誘拐少女と探偵

17話

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 深夜二時。僕はそっと布団から身体を起こした。

 音を立てないように鍵で手錠を外す。閑静な住宅街に建てられたマンションは、夜になると物音がほとんどなくなり、ときおり遠くを走る車の音がわずかに聞こえる程度だ。静かであるがゆえに、小さな物音もよく響く。

 慎重に時間を掛けてリビングに出ると、そのまま玄関へと向かう。まずは月乃ちゃんは連れずに部屋から出る。玄関までの扉を開け放ち、導線を確保するためだった。

 静まり返ったリビングは、冬の夜であることを差し置いても冷たく感じられた。張りつめられた空気が充満しているように感じるのは、緊張が原因だろう。

 リビングから廊下へ出る扉のノブに手を掛ける。この先には男が眠っている寝室もある。これまで以上に気を引き締めていかねばならない。

 扉の先は暗闇だった。カーテンが閉められていないリビングには月明かりが差し込んでいたが、廊下には窓がなく、ぞっとするような暗黒が目前に広がっている。足元すらまともに見えない場所に、気配を殺して進まなければならないプレッシャーに足がすくむ。

 目を閉じて悪いイメージをひとつずつ消していく。今やらなければいけないことだけに集中するのだ。そうしているうちに少しは落ち着きを取り戻せたような気がしたので、覚悟を決めて前を向き直った。

 先ほどまではただの暗黒だった光景が、暗くはあるが物の輪郭が微かに見えるようになっていた。視覚が暗順応したのだ。

 きっとうまくいく。自分に言い聞かせるように、心の中で数回つぶやく。

 忍び足で廊下を進む。たかだか数メートルの廊下が随分長く感じられた。ようやく玄関にたどり着くと、そっとロックを解除する。玄関を開けっ放しにすることはできないので、これで今できる導線の確保作業は一通り完遂したことになる。後は部屋に戻って月乃ちゃんを抱えて出ていくだけだ。

 身体を反転させ、来た道を戻る。目的の第一段階を終えたためか、さっきまでより余裕が感じられた。もちろん気を抜いたりはしないけれど、周りの様子を冷静に見ている自分がいる。

 ふと右手にあるスライドタイプのドアが目に入った。それを見た途端、どうしてか目が離せなくなる。寄り道をしている時間もなければ、左手の壁の向こうでは男が寝ている危険な状況にも関わらず、僕の右手は勝手にドアを開けていた。

 中には入ると背後のドアを閉め、電気を付ける。

 最初に視界に捉えたのは洗面台だった。正面に置かれた独立洗面台の鏡に僕の姿が映し出されている。真っ青な顔をしている自分と目が合った。まるで人を殺したような顔をしている。

 洗面台の左手には洗濯機があり、右手にはすりガラスの扉があった。扉の先には浴室があるのだろうと予想がついた。

 いや、予想ではない。僕はこの場所を知っている。

 すりガラスなので浴室の中は見えない。しかしガラスに付着する黒いしみはっきりと見て取れた。黒いしみの付着する範囲は広く、それは浴室側に付いているようだ。

 不意に足が震えだした。真っ直ぐ立つことができず、壁に手を当てて身体を支える。続いて胃酸が逆流を起こしたような嫌悪感が込み上げてきた。目の前がぐるぐると回りだす。とうとう立っていられなくなり、僕はその場に屈んで口元を手で押さえる。口から溢れようとしている悲鳴を何とか押し殺す。

 浴室の中を見てはいけない。誰かがそう忠告を出している。しかし僕の身体は床を這って浴室へと近づいていく。

 触れられるまで距離を詰めたとき、それはシミではなく黒い液体がこびり付いているのだとわかった。頭の中で「ああ、やっぱり」と言葉が反響する。

 俯いた状態で扉を開く。もう引き返すことはできない。

 諦めにも似た気持ちで、僕は顔を上げて浴室の中を見た。黒い液体が壁や天井に飛び散っている。他人が見れば、墨汁がぶちまけられたようにでも見えたのかもしれない。

 しかし僕はそれが血液であることを知っていた。正確には知っていたのではない。思い出したのだ。頭の中で記憶のピースが次々に嵌まっていく。

 一体どれほどの時間が経過したのか、僕は我に返るとゆっくりと立ち上がる。何をどうしたらいいのか、すぐには整理がつかない。いずれにしても、まずは月乃ちゃんの待つ部屋に戻らなければならない。

 部屋へ戻る前に、血まみれの浴室を一瞥する。
 ここは俺が父親を殺した場所だった。
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