Ich liebe dich~世界でいちばん身勝手なラブソング~

二一

文字の大きさ
6 / 8
Farewell Day

2

しおりを挟む
「レナード。私はいったん帰るよ」
 明日の演奏の準備もあるから。そうつぶやいたクラウスを、寂しげな目が引き止める。
「なんで、こんなものを寄越したんだ……」
 レナードの手には、真っ白な封筒が握られている。
「言っただろう? 私はレナードの幸せを願っている」
 この世界の誰よりも幸せになってもらいたい。
「クラウス……おまえのいない幸せなんて……」
 幸せなんてない――レナードが吐き捨てた。
 自分も同じだ。そう傲慢に叫ぶことができたら、どれほどよかっただろう。それでも、レナードはバックマン家を背負っていく男で、その責任を捨てることなど許されない。クラウスだって、捨てさせたくはない。
「レナード。私を愚か者にするつもりか?」
 妻子ある男の愛人などという不名誉を背負わせるのか? 意地の悪い問いかけに、レナードが唇を噛んだ。
「俺を愛していると言ったくせに」
「愛しているよ。今でも」
 これからも。
 驚くほど穏やかでいられることに、内心呆れていた。自分はなんて残酷な人間なのだろう。もっと優しく離れてやることもできたのに。
「だったら! なぜ言ってくれないんだ!? 愛しているなら一緒に……っ」
 一緒にいたいと言ってくれさえすれば。呻いたレナードがその場に崩れ落ちた。
「なにもかも捨てて、逃げてしまえるのに」
 そんな甘美な誘いをしないで欲しい。逃げた先に幸せなんか存在しないと分かっていても、その手を取りたくなる。その手を取ればなんとかなると、そんな夢物語を信じたくなる。
 レナードを説得する言葉が見つからず、クラウスはリビングの角に置かれたピアノを開いた。指先を静かに鍵盤へと下ろす。小さく息を吸い込んで、その指先を鍵盤に走らせた。
 軽やかなメロディが流れ出す。ベートーヴェン、ピアノソナタ第八番、悲愴。それは、タイトルとは真逆の朗らかさで始まる。
 スピード感溢れる第一楽章から、穏やかに想いを馳せる第二楽章へ。
 リビングの床に座り込んだレナードは動こうとしない。
 クラウスはワールドツアーのラストをこの曲で締めた。それはレナードが言ったとおり意外だと思われただろう。
 だけど、今ならわかる。それは、クラウスの心の奥底で混ざり合った想い出の欠片だ。吐き出すことができなくなった、愛しい記憶だ。
 ひたすらに楽しかった始まりの日々から、穏やかでなにものにも邪魔されることのない愛に溢れた日々――それから。
「止めろ!」
 レナードが叫んだ。
 曲はまさに第三楽章へと進んだところだった。ポロンと止めきれなかった音の残滓がこぼれる。
「それ以上は弾かないでくれ」
 座り込んだレナードは俯いていた。
 クラウスの心は、レナードに駆け寄り、大丈夫だと抱き締めた背中を撫でる。だけど、現実のクラウスはピアノに座ったまま動けずにいる。
「私は……ピアノでなら、うまく自分を表現できるんだ」
 焼け付くような情熱も、狂おしいほどの激情も、泣きたくなるほどの切なさも――。
 そして、レナードはそんなクラウスの叫びをいつだって聴き取ってくれる。
「だったら、どうして……」
 どうして、どうして。レナードが何度も呻く。
 どうしてなのだろう。ただ、クラウスは逃げるレナードなんか見たくなかった。捨てた責任に後悔する姿を見たくなかった。それは、きっとクラウスからの愛情だけでは埋めることは叶わない。
 愛してる。
 音のない、唇の空虚がそう想いを綴る。
 愛してる。
 だけど、愛してくれなくていい。
 ただ、いつかの熱を、安寧を、ときに思い出してくれればいい。
「それじゃあ、私は帰るよ。明日は最高の演奏を聴かせるから」
 俯くレナードにそう告げて、クラウスは立ち上がった。声に出さなければ、いつまでも未練が身体を縫い付ける。
 このまま、明日なんてこなければいいと願ってしまう。
 リビングを横切り、ドアに手をかけた。
「クラウス!」
 振り返った瞬間、乱暴な身体がドアに押し付けられた。
「レ、ナ……――」
 そのキスにはあらゆる愛が詰まっていた。
 そのキスにはあらゆる怨嗟えんさが込められていた。
 愛しくて、愛しくて、まるで半身をもがれるような痛みに抱き合う。
 最後のキスは、死ぬんじゃないかというくらい長く、苦しかった。
 こぼれ落ちた涙が混ざり合う。
 愛してる。
 背徳を心の奥底で押し潰し、キレイな上澄みを身に纏う。
「おやすみ……よい夢を……」
 レナードを押し返し、部屋を後にした。誰もいない廊下が、この世のすべてに感じる。ここから先は、ひとりだ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

寡黙な剣道部の幼馴染

Gemini
BL
【完結】恩師の訃報に八年ぶりに帰郷した智(さとし)は幼馴染の有馬(ありま)と再会する。相変わらず寡黙て静かな有馬が智の勤める大学の学生だと知り、だんだんとその距離は縮まっていき……

幼馴染は僕を選ばない。

佳乃
BL
ずっと続くと思っていた〈腐れ縁〉は〈腐った縁〉だった。 僕は好きだったのに、ずっと一緒にいられると思っていたのに。 僕がいた場所は僕じゃ無い誰かの場所となり、繋がっていると思っていた縁は腐り果てて切れてしまった。 好きだった。 好きだった。 好きだった。 離れることで断ち切った縁。 気付いた時に断ち切られていた縁。 辛いのは、苦しいのは彼なのか、僕なのか…。

捨てられた生贄オメガ、魔王城で極上の『巣作り』始めます!~不眠症の魔王様、私のクッションで爆睡して溺愛モードに突入~

水凪しおん
BL
「役立たずのオメガ」として冷遇され、血も涙もない魔王への生贄として捨てられたリノ。 死を覚悟して連れてこられた魔王城は、寒くて硬くて、居住性最悪のブラック環境だった!? 「こんなところで寝られるか!」 極限状態で発動したオメガ特有の『巣作り本能』と、神業レベルの裁縫スキルが火を噴く! ゴミ同然の布切れをフカフカのクッションに、冷たい石床を極上のラグマットにリフォーム。 すると、不眠症で常にイライラしていた魔王ザルドリスが、リノの作った「巣」のあまりの快適さに陥落してしまい……? 「……貴様、私を堕落させる気か」 (※いいえ、ただ快適に寝たいだけです) 殺されるどころか、魔王様に気に入られ、気付けば城中がリノの虜に。 捨てられた生贄オメガが、裁縫一つで魔王城を「世界一のマイホーム」に変える、ほのぼの逆転溺愛ファンタジー!

やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。

毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。 そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。 彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。 「これでやっと安心して退場できる」 これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。 目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。 「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」 その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。 「あなた……Ωになっていますよ」 「へ?」 そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て―― オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。

大工のおっさん、王様の側室になる

くろねこや
BL
庶民のオレが王様の側室に?! そんなのアリかよ?! オレ男だけど?! 王妃様に殺されちまう! ※『横書き』方向に設定してお読みください。 ※異母兄を『義兄』と表記してしまっておりました。『兄』に修正しました。(1/18・22:50)

こっそりバウムクーヘンエンド小説を投稿したら相手に見つかって押し倒されてた件

神崎 ルナ
BL
バウムクーヘンエンド――片想いの相手の結婚式に招待されて引き出物のバウムクーヘンを手に失恋に浸るという、所謂アンハッピーエンド。 僕の幼なじみは天然が入ったぽんやりしたタイプでずっと目が離せなかった。 だけどその笑顔を見ていると自然と僕も口角が上がり。 子供の頃に勢いに任せて『光くん、好きっ!!』と言ってしまったのは黒歴史だが、そのすぐ後に白詰草の指輪を持って来て『うん、およめさんになってね』と来たのは反則だろう。   ぽやぽやした光のことだから、きっとよく意味が分かってなかったに違いない。 指輪も、僕の左手の中指に収めていたし。 あれから10年近く。 ずっと仲が良い幼なじみの範疇に留まる僕たちの関係は決して崩してはならない。 だけど想いを隠すのは苦しくて――。 こっそりとある小説サイトに想いを吐露してそれで何とか未練を断ち切ろうと思った。 なのにどうして――。 『ねぇ、この小説って海斗が書いたんだよね?』 えっ!?どうしてバレたっ!?というより何故この僕が押し倒されてるんだっ!?(※注 一月十日のアルファポリス規約改定を受け、サブ垢にて公開済みの『バウムクーヘンエンド』をこちらへ移しましたm(__)m サブ垢の『バウムクーヘンエンド』はこちらへ移動が出来次第、非公開となりますm(__)m)

天使から美形へと成長した幼馴染から、放課後の美術室に呼ばれたら

たけむら
BL
美形で天才肌の幼馴染✕ちょっと鈍感な高校生 海野想は、保育園の頃からの幼馴染である、朝川唯斗と同じ高校に進学した。かつて天使のような可愛さを持っていた唯斗は、立派な美形へと変貌し、今は絵の勉強を進めている。 そんなある日、数学の補習を終えた想が唯斗を美術室へと迎えに行くと、唯斗はひどく驚いた顔をしていて…? ※1話から4話までは別タイトルでpixivに掲載しております。続きも書きたくなったので、ゆっくりではありますが更新していきますね。 ※第4話の冒頭が消えておりましたので直しました。

処理中です...