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Farewell Day
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「レナード。私はいったん帰るよ」
明日の演奏の準備もあるから。そうつぶやいたクラウスを、寂しげな目が引き止める。
「なんで、こんなものを寄越したんだ……」
レナードの手には、真っ白な封筒が握られている。
「言っただろう? 私はレナードの幸せを願っている」
この世界の誰よりも幸せになってもらいたい。
「クラウス……おまえのいない幸せなんて……」
幸せなんてない――レナードが吐き捨てた。
自分も同じだ。そう傲慢に叫ぶことができたら、どれほどよかっただろう。それでも、レナードはバックマン家を背負っていく男で、その責任を捨てることなど許されない。クラウスだって、捨てさせたくはない。
「レナード。私を愚か者にするつもりか?」
妻子ある男の愛人などという不名誉を背負わせるのか? 意地の悪い問いかけに、レナードが唇を噛んだ。
「俺を愛していると言ったくせに」
「愛しているよ。今でも」
これからも。
驚くほど穏やかでいられることに、内心呆れていた。自分はなんて残酷な人間なのだろう。もっと優しく離れてやることもできたのに。
「だったら! なぜ言ってくれないんだ!? 愛しているなら一緒に……っ」
一緒にいたいと言ってくれさえすれば。呻いたレナードがその場に崩れ落ちた。
「なにもかも捨てて、逃げてしまえるのに」
そんな甘美な誘いをしないで欲しい。逃げた先に幸せなんか存在しないと分かっていても、その手を取りたくなる。その手を取ればなんとかなると、そんな夢物語を信じたくなる。
レナードを説得する言葉が見つからず、クラウスはリビングの角に置かれたピアノを開いた。指先を静かに鍵盤へと下ろす。小さく息を吸い込んで、その指先を鍵盤に走らせた。
軽やかなメロディが流れ出す。ベートーヴェン、ピアノソナタ第八番、悲愴。それは、タイトルとは真逆の朗らかさで始まる。
スピード感溢れる第一楽章から、穏やかに想いを馳せる第二楽章へ。
リビングの床に座り込んだレナードは動こうとしない。
クラウスはワールドツアーのラストをこの曲で締めた。それはレナードが言ったとおり意外だと思われただろう。
だけど、今ならわかる。それは、クラウスの心の奥底で混ざり合った想い出の欠片だ。吐き出すことができなくなった、愛しい記憶だ。
ひたすらに楽しかった始まりの日々から、穏やかでなにものにも邪魔されることのない愛に溢れた日々――それから。
「止めろ!」
レナードが叫んだ。
曲はまさに第三楽章へと進んだところだった。ポロンと止めきれなかった音の残滓がこぼれる。
「それ以上は弾かないでくれ」
座り込んだレナードは俯いていた。
クラウスの心は、レナードに駆け寄り、大丈夫だと抱き締めた背中を撫でる。だけど、現実のクラウスはピアノに座ったまま動けずにいる。
「私は……ピアノでなら、うまく自分を表現できるんだ」
焼け付くような情熱も、狂おしいほどの激情も、泣きたくなるほどの切なさも――。
そして、レナードはそんなクラウスの叫びをいつだって聴き取ってくれる。
「だったら、どうして……」
どうして、どうして。レナードが何度も呻く。
どうしてなのだろう。ただ、クラウスは逃げるレナードなんか見たくなかった。捨てた責任に後悔する姿を見たくなかった。それは、きっとクラウスからの愛情だけでは埋めることは叶わない。
愛してる。
音のない、唇の空虚がそう想いを綴る。
愛してる。
だけど、愛してくれなくていい。
ただ、いつかの熱を、安寧を、ときに思い出してくれればいい。
「それじゃあ、私は帰るよ。明日は最高の演奏を聴かせるから」
俯くレナードにそう告げて、クラウスは立ち上がった。声に出さなければ、いつまでも未練が身体を縫い付ける。
このまま、明日なんてこなければいいと願ってしまう。
リビングを横切り、ドアに手をかけた。
「クラウス!」
振り返った瞬間、乱暴な身体がドアに押し付けられた。
「レ、ナ……――」
そのキスにはあらゆる愛が詰まっていた。
そのキスにはあらゆる怨嗟が込められていた。
愛しくて、愛しくて、まるで半身をもがれるような痛みに抱き合う。
最後のキスは、死ぬんじゃないかというくらい長く、苦しかった。
こぼれ落ちた涙が混ざり合う。
愛してる。
背徳を心の奥底で押し潰し、キレイな上澄みを身に纏う。
「おやすみ……よい夢を……」
レナードを押し返し、部屋を後にした。誰もいない廊下が、この世のすべてに感じる。ここから先は、ひとりだ。
明日の演奏の準備もあるから。そうつぶやいたクラウスを、寂しげな目が引き止める。
「なんで、こんなものを寄越したんだ……」
レナードの手には、真っ白な封筒が握られている。
「言っただろう? 私はレナードの幸せを願っている」
この世界の誰よりも幸せになってもらいたい。
「クラウス……おまえのいない幸せなんて……」
幸せなんてない――レナードが吐き捨てた。
自分も同じだ。そう傲慢に叫ぶことができたら、どれほどよかっただろう。それでも、レナードはバックマン家を背負っていく男で、その責任を捨てることなど許されない。クラウスだって、捨てさせたくはない。
「レナード。私を愚か者にするつもりか?」
妻子ある男の愛人などという不名誉を背負わせるのか? 意地の悪い問いかけに、レナードが唇を噛んだ。
「俺を愛していると言ったくせに」
「愛しているよ。今でも」
これからも。
驚くほど穏やかでいられることに、内心呆れていた。自分はなんて残酷な人間なのだろう。もっと優しく離れてやることもできたのに。
「だったら! なぜ言ってくれないんだ!? 愛しているなら一緒に……っ」
一緒にいたいと言ってくれさえすれば。呻いたレナードがその場に崩れ落ちた。
「なにもかも捨てて、逃げてしまえるのに」
そんな甘美な誘いをしないで欲しい。逃げた先に幸せなんか存在しないと分かっていても、その手を取りたくなる。その手を取ればなんとかなると、そんな夢物語を信じたくなる。
レナードを説得する言葉が見つからず、クラウスはリビングの角に置かれたピアノを開いた。指先を静かに鍵盤へと下ろす。小さく息を吸い込んで、その指先を鍵盤に走らせた。
軽やかなメロディが流れ出す。ベートーヴェン、ピアノソナタ第八番、悲愴。それは、タイトルとは真逆の朗らかさで始まる。
スピード感溢れる第一楽章から、穏やかに想いを馳せる第二楽章へ。
リビングの床に座り込んだレナードは動こうとしない。
クラウスはワールドツアーのラストをこの曲で締めた。それはレナードが言ったとおり意外だと思われただろう。
だけど、今ならわかる。それは、クラウスの心の奥底で混ざり合った想い出の欠片だ。吐き出すことができなくなった、愛しい記憶だ。
ひたすらに楽しかった始まりの日々から、穏やかでなにものにも邪魔されることのない愛に溢れた日々――それから。
「止めろ!」
レナードが叫んだ。
曲はまさに第三楽章へと進んだところだった。ポロンと止めきれなかった音の残滓がこぼれる。
「それ以上は弾かないでくれ」
座り込んだレナードは俯いていた。
クラウスの心は、レナードに駆け寄り、大丈夫だと抱き締めた背中を撫でる。だけど、現実のクラウスはピアノに座ったまま動けずにいる。
「私は……ピアノでなら、うまく自分を表現できるんだ」
焼け付くような情熱も、狂おしいほどの激情も、泣きたくなるほどの切なさも――。
そして、レナードはそんなクラウスの叫びをいつだって聴き取ってくれる。
「だったら、どうして……」
どうして、どうして。レナードが何度も呻く。
どうしてなのだろう。ただ、クラウスは逃げるレナードなんか見たくなかった。捨てた責任に後悔する姿を見たくなかった。それは、きっとクラウスからの愛情だけでは埋めることは叶わない。
愛してる。
音のない、唇の空虚がそう想いを綴る。
愛してる。
だけど、愛してくれなくていい。
ただ、いつかの熱を、安寧を、ときに思い出してくれればいい。
「それじゃあ、私は帰るよ。明日は最高の演奏を聴かせるから」
俯くレナードにそう告げて、クラウスは立ち上がった。声に出さなければ、いつまでも未練が身体を縫い付ける。
このまま、明日なんてこなければいいと願ってしまう。
リビングを横切り、ドアに手をかけた。
「クラウス!」
振り返った瞬間、乱暴な身体がドアに押し付けられた。
「レ、ナ……――」
そのキスにはあらゆる愛が詰まっていた。
そのキスにはあらゆる怨嗟が込められていた。
愛しくて、愛しくて、まるで半身をもがれるような痛みに抱き合う。
最後のキスは、死ぬんじゃないかというくらい長く、苦しかった。
こぼれ落ちた涙が混ざり合う。
愛してる。
背徳を心の奥底で押し潰し、キレイな上澄みを身に纏う。
「おやすみ……よい夢を……」
レナードを押し返し、部屋を後にした。誰もいない廊下が、この世のすべてに感じる。ここから先は、ひとりだ。
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