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最悪の経緯/ポケットの中 (後)

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*酒田視点です。
ーーーーーー


 最長36時間ロックされる扉。

 酒田はフラフラと校内をさまよい、気づけば、避難部屋の前で呆然と立ち尽くしていた。


 本多さんから「もう帰って良い」と言われたが、残りたい、と伝えると警備員が「どうぞ、仮眠室を使ってください」と言ってくれた。
 信隆は自宅に帰り、本多さんと水瀬は警備員の仮眠室で扉が開くのを待っている。

 何も出来ないと分かっているけど、ここに来た。
 最初に「おつかれ」と出迎えるのは酒田の仕事だったから。


 オメガ暗黒時代に使われていた脳に障害が出る危険な薬、日本のオメガが激減した一因でもある「ベータ擬態薬」とも呼ばれた、フェロモンに反応しなくなる強力な薬。多くの海外では手術中や完全に外界と遮断されるような環境下のみと使用が限定されるような薬を、ベータが多いこの国ではまだ常用可能なほどに処方できる。その事自体は知っている。未成年のオメガの警護につくとき補佐アルファが使うことがあるから。でも、まさかオメガに処方するなんて、あり得ない。あっては、ならないだろう・・・。

 でも、慶介はその薬を飲んでいた。
 飲んででも永井を拒否していた。

 なのに、暗証番号を聞き出す「禁じ手を使う」と永井に覚悟させたのはあの会話だ。もしかしたら、永井は慶介が薬を飲んでいる事に気づいていたのかも知れない。何度も確認していた。なのに、最後の引き金を永井に引かせたのは、脳天気に何も分かっていなかった酒田だ。

 守るべき対象に迂闊にも最も危険な存在を、肝心な時に近づけて、守れなかった。警護としても失格だ。せめて、左手が使えたら、警護として守れただろうか?どうせ、無理だ。永井に力で勝てるワケがない。
 アルファ用緊急抑制剤を手に取ったのも間違いだった。永井に勝てるかも知れないなどと夢を見てしまった。部屋に飛び込んだら、即刻、緊急通報ボタンを押すべきだった。そうすれば、最後の手段などと言って、慶介を昏睡状態にすることもなかった。
 せめて、慶介の意識があったら、薬を飲む覚悟を決めるほどの強い意志がある慶介自身なら拒否できたかも知れない。それを出来なくしたのも、自分だ。

ーーそのくせ、暗証番号まで・・・。

 水瀬のいうとおり、暗証番号を知っている事に愉悦を感じていた。そして優越感に浸っていた。浸っていなければ永井に対する嫉妬を押さえられなかった。しょうもない男の嫉妬をしたばかりに、こんな事になってしまった。
 最後は、アルファとしての格で負けた。
 負け続けの人生だけど、負けてはならない場面だった。でも、勝てなかった。微塵も敵わなかった。


 慶介の項が噛まれてしまう。


 脳内では、艶めかしく誘う慶介が、獰猛な獣の永井に項を噛まれて、恍惚とした微笑みで『おまえのせいだよ』と笑う。

 胸の内で慟哭する。


 許してくれ。
 やり直させてください。
 なかった事にできませんか。

 どの神に祈ればいいですか?
 誰に言えば叶えてもらえますか?

 分かっている。バカバカしい。


 後悔。それ以外の言葉はない。


 絶望とかではない、取り返しの付かない事をした。後で悔やむ、文字のごとくだ。
 慶介の覚悟と意志を無駄にした。


 前回のヒート入院で言われたんだろう。運命の番を拒否するリスクや運命を拒否できる薬、その副作用。その事をずっと、隠していた。

 命を縮める薬を飲んでいたから夏休みにベータたちに泣いたのだ。確か、10年程度で脳に記憶障害が出たはずだ。高校の2年と大学の4年、そこから数年で、慶介は記憶障害が始まり出していたかも知れない。

 入院から、たった3ヶ月だが、それを決めた慶介の決断はとてつもなく重く、一粒飲むごとに抱えた不安はどれほどのものだったろう。

 教えてほしかった。そんな辛いことを独りで抱えてほしくなかった。せめて、支えてやりたかった。

ーーだが、慶介が薬を飲むことに、何も言わずにいられただろうか?

 たぶん、無理だ。あの危険な薬を飲むくらいなら、永井のことを番として見るように勧める。慶介が死んでしまうより、永井と番になってもらう方が断然いい。
 慶介はそんなこと望んでいないのに、薬を飲んでまで拒否しているのに。

(でも、きっと、俺は、止めていた。)


 いまも、慶介の意志を守れなかったという絶望と後悔の暗闇に「これで命は助かった」という一枚の免罪符が目の前にでちらつかされている。
 すがりつきたくなる。自分の大失態を帳消しにしてくれるその一言に。


 暗い。
 暗い、夜だ。
 空も、廊下も、心も、未来も。


**


 翌朝。
 日が出る前の独特の空はまだ少し暗い。

 静かな廊下にドアロックが解錠される音が響く。

 酒田は顔を上げられなかった。部屋からあふれ出てきた強烈で濃いアルファフェロモンとオメガフェロモン。そして、行為の残り香。

 1つの足が目の前で止まり、1つの足音が遠ざかって行った。

 酒田は、昨日から一滴も流れなかった涙が、今になって悔しさで溢れた。泣きたいのは慶介の方なのに、自分に泣く資格なんて、権利なんて、微塵もないのに。だけど、涙が溢れて、廊下にポタポタと落ちた。

「俺は慶介の心を守りたかった。守り、たかった・・・貞操も、項も、俺が、なんとしても、と、思ってたのに・・・っ!なのに、全然、守れなかった。むしろ、俺のせいで、・・・すまない。慶介、すまないっ・・・本当に、・・・死んで詫ても、償いようがない・・・。」

 土下座した頭を冷たい廊下に押し付けた。このまま頭がかち割れてしまえばいいと思った。

「そんな詫びは、いらねぇな。」

 慶介の指が酒田の髪に滑り込んできて、髪をサラサラと撫でた。
 酒田はなんだか堪らなくなって、口が勝手に動いた。

「ほんとは、・・・ほんとは、俺っ・・・!」


 もう警護であることを捨てる。友達でいようなんて嘘だ。できるわけが無い。本当は、酒田こそが、慶介の最も嫌がるアルファそのものだった。

 慶介のことを誰よりもオメガとして見ていた。その手をとってキスして、キスを返してほしかった。初めてのヒートの最中に電話がなった時だってヒートのお相手だと思って、違ったことにガッカリした。お友達ごっこだって、本音では恋人気分だった。ネックガードの暗証番号を知っている自分はもはや婚約者みたいなものだと優越感に浸っていた。永井が塩対応されてることに誰よりも小気味よく感じていたのは自分だ。だから、自分が居られなくなった友達というポジションに永井が収まった時、嫉妬した。勝てもしないのに、喧嘩をふっかけて、本当に、馬鹿だ。こんな事になるんだったら、最初から、正直でいればよかったのだ。


「・・・俺がッ、項を噛みたかった・・・ッ!」


 胸に秘めていた想いを、ついに口にした。

 しかし、なんと、無意味な告白だろう。
 全ては後のまつり。生涯に一度きりの項には既に噛み跡ができている。後から噛んだって手遅れだ。上書きは出来ない。
 

 酒田の、爪が食い込むほどに硬く握られ、廊下に押し付けられた手を、髪を撫でていた慶介の手が一本ずつ、優しくほどいていく。
 そして、持ち上げられた酒田の手がちょうど、しゃがんだ人の首の高さまで達した時、指の先、爪に、カツンと金属のようなものに当たった。


 ハッと顔をあげた酒田が見たのは、八万ロックの鍵付きネックガード。


「似合ってるよな?」


 酒田は滂沱の涙を流した。


 使い所がなくて、結局、部屋に飾ると言っていた。慶介のお気に入りのネックガードが、慶介の首にあった。
 似合ってるなんてもんじゃない。それこそが、慶介の首を飾るに相応しい。

 後悔が吹き飛んだ。酒田のしでかした罪は消えない。分かってる、それは生涯償う。慶介の意志と決意を二度と踏みにじるようなことはしないと誓う。
 神に感謝した。慶介の強い意志に畏敬の念すら覚える。あの状況からどうやって、もう一つのネックガードをつける事が出来たのか想像もできない。そもそも、何を思って鍵付きネックガードをカバンに潜ませていたのか。気まぐれ?虫の知らせ?神のお告げ?なんでも良い、とにかく奇跡だ。もしくは、それも慶介の強靭なる意志によるものなのだろうか。

 慶介が自分で守った項。

 生きてさえくれれば良いなんて思ってなかったのだと、その項が守られていた事が最上の意味を持っているのだと、自分の反省の心を突き破り、歓喜するアルファの本能で気づく。
 たとえ情事の後の匂いがしても、気怠げな表情をしていても、胸元に執着の痕が無数にあっても、慶介の身体からは濃厚な誘惑フェロモンが漂い、酒田の鼻に届いている。
 気崩れた襟元から覗く噛み跡も、項だけは踏み荒らされることなく守られ、新雪のように輝いて見える。

 誰のものでもない項がこんなに嬉しい。


 酒田は涙をぬぐい、おもむろにポケットから何かを取り出し、慶介に差し出した。

 手のひらでキラリと光る銀色のそれは、真実、慶介から託された信頼の証。


 ネックガードの鍵。



「慶介・・・。俺と、番になってください。」










***

    
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