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2.夢男怪奇譚
第2話 片目の男
5月7日
午後10時半
寿々と史はオカルトラボから編集部に戻り、二人して史の仕事を片付けたあと家に帰宅した。
「大丈夫ですか?ずっと険しい顔をしていますけど」
寿々は帰宅後もどことなく上の空で、まだオカルトラボで東海林朱李に聞いた話を気にしているようだった。
「え?ああ。まあ」
二人は平日いつもこの時間に帰宅してから夕飯を食べる。
とはいえこの時間だ。土日はともかく、夕食は大概が簡単な麺類で済ますのが日課となっていた。
幸い二人共麺類の好き嫌いはない。寿々は極度の偏食だが、具材に肉魚類が入ってなければ大概は食べる事が出来る。
食材は史が管理している為、その目立つ見た目からは想像もつかない程の倹約っぷりで冷蔵庫の中には安価な食材ばかりが収められていた。
史は冷蔵庫を開け、スーパーで買い溜めした5袋も積み上がっている3玉入りのうどんの一袋を取り出すと、コンロの前で鍋に湯を沸かしている寿々にそれを渡した。
「気をつけてくださいね。寿々さんそうやって考え事していると必ず怪我をするから・・」
「大丈夫だって。流石に俺も火を使ってる時は気をつけるってば」
寿々はそう言いながら、渡されたうどん玉を全て沸騰した鍋の湯へと入れる。
「・・それにしても、さっき朱李さんから聞いた事が本当ならば、日曜の深夜にもしかしたら朱李さんにも何かしらの危険が及ぶ可能性があるって事になるよな」
史は寿々の話を聞きつつも、慣れない包丁で集中しながらゆっくりと野菜を刻む。
「・・・そう・・ですね。・・・もし、片目の男が差し出した指の・・・本数が、日数のカウントダウンを意味・・するのならば、そうなりますよ・・ね」
手元で人参を一生懸命刻んでていた史だったが、その手つきはかなり危なっかしい。
料理をほぼ毎日担当しているとは言え、それでもまだまだ包丁だけは苦手そうだ。
若干歪ながらも何とか全ての野菜を刻むと、そのまま寿々が管理していた鍋の中へと一気に投入した。
「・・・野菜に火が通る頃にはうどんが倍に膨れていそうだな・・」
寿々が何気につぶやくと、
「別にうどん煮込むならいくらでも柔くなってもいいでしょ」
「はは、史と同じ意見で良かったよ。こういう些細な好みで人は争いが起こるもんだからな・・」
寿々が意味深な言い方をするものだから史も気になって、
「・・・それは元カノさんとの話ですか」
そう言いながら若干のジト目で寿々を見た。
「は?ちが!・・・・・。ごめん、違くないわ。そう」
反射的に否定しそうになった寿々だったが、そんなごまかしをしても無意味だと気づくとすぐに謝罪した。
「別に謝ることじゃないでしょ。でも偏食の寿々さんと暮らしていても食事で喧嘩する事がないってのは本当に不幸中の幸いですよ」
「不幸中の幸い・・・。そんな言い方されると食事以外で争いが起きるぞ」
鍋をかき混ぜながら今度は寿々が史を嫌そうに見上げた。
寿々は腹を空かせていると、無自覚のまま気が立つという悪い癖がある。
史もそれをちゃんと理解してるが、今がまさにそんな感じのようだ。
「やめましょうよ、お互い疲れてそれどころじゃないって言うのに」
史は鍋に出汁と塩を入れながら、おたまに掬って味見の為に小皿に乗せた。
「本当にな・・・連休明けだと言うのに何で家に帰ってきてまで仕事関連に悩まされなきゃならないのか」
「それでも寿々さんは気になるんでしょ?」
熱そうにつゆを冷ましながら味見する史にそう言われ、寿々は少しだけ悩んだ。
「じゃあ逆に史は気にならないのか?俺達だって、いつあの片目の男が夢に現れてもおかしくないんだぞ?俺達はもしかしたらあの心霊写真を受け取った時点でかなり接点が近くなっている可能性だってあるのに」
寿々のその問いに今度は史がおたまを持ったまま、少しだけ考えるようにして上を向いた。
「う~ん。確かに可能性はあるでしょうけれど、それにしても俺達があの写真を受け取ったのって先月の半ばですよ?それからもう3週間近く経ちます。その間兆候もなかったですし、今更夢に現れるんでしょうか?大体あの男が夢に現れる条件って何なんでしょうね?This Manならば精神科に通う患者という共通点がありましたけれど。今回は接点も共通点も今の所見当たらないですよ」
そう言いながらもう少しだけ出汁を加え、もう一度味見をする。するとちょうどいい塩梅だったのか表情が緩んだ。
史は鍋をかき混ぜる寿々にもそのまま味見をさせる。
「あ、うまっ!」
その寿々の反応に史は満足そうな笑みをこぼした。
食事を終えると寿々は一人キッチンで後片付けをしていた。
時刻は既に11時半を超えている。
視線では食器洗いに集中出来てはいたものの、やはり頭の中ではあの片目の男の事で頭が一杯になっていた。
『俺が夢に見たらどうしようと言うより、万が一史が見てしまったら、と思うと気が気じゃない。朱李さんに見せてもらったグラフでも20代より10代の方が圧倒的に多かった。やっぱりあの片目の男を夢に見る可能性が高いのは10代後半から20代前半がほとんどなんだろう。確かに史が言う通り、あの男の写真を受け取ってから3週間が経つ。だから何も無いと思いたいけれど・・・・でも』
寿々は全ての食器を洗い終わり水切り籠へ入れると、タオルで手を拭きキッチンの灯りを消す為にスイッチに手を伸ばした。
と同時に冷蔵庫横のドアが開き、風呂から上がってきた史が戻ってきた。
「・・風呂空きましたからどうぞ」
バスタオルで短い銀髪をガシガシと拭きながらそのまま冷蔵庫を開け、作り置きのお茶を取り出す。
「ああ、わかった」
そう言って寿々は消そうとしたスイッチから手を戻したところで、至近距離で洗ったばかりのコップを取り出しお茶を注ぐ図体のデカい史に立ち塞がれた。
「ん?なに?」
「・・・何じゃなく。何で今日は一緒に入らなかったんですか」
「え?・・・いやまあそんな日もあるじゃん?」
「ふ~ん・・・」
史はお茶をグイっと飲み干すとコップをゆすいだ。
「何だよそのふ~んって」
「ふ~んはふ~んですよ。急に一人で入れとか言われて何か理由があるのかと思っているだけです」
「いやだって、ほら、連休中ずっと一緒だっただろ?・・だから別に深い意味はないよ」
寿々は何となく何かをごまかしているようにしか見えなかった。
勿論史にはそれがよく分かっている。
だからこそ尚更気になって仕方がなかった。
「じゃあ深くない意味はあるんですか?」
「だから~本当そんなに詰め寄らないでくれよ。・・・ただ単純に一緒に入らない日があってもいいなって思っただけだから」
「!・・・・それってつまり一緒に風呂入るのが嫌って事ですか・・」
「しつこいなぁ、嫌とかじゃないって・・・」
史は冗談っぽく聞こえるトーンで話しているが、実はこういう時は全く冗談を言っていない。
自分の執着愛が重い事を理解した上で、敢えて茶化したように言っているだけなのだ。
寿々も理解しているが、結局こういう場合本当の事を話すまで延々と茶番を続けられて面倒なだけなので寿々も仕方なく観念した。
「・・ほら、毎日のように一緒に風呂入ると倦怠期が早いって聞くから」
「・・・・・」
寿々は顔を赤くさせて詰め寄る史から顔を逸らした。
しかし何だか史からは余計嫌な気配を感じる。
寿々がもう一度史をゆっくりと見上げると、物凄い不満だらけの表情をしていた。
「倦怠・・?は?」
「いやいや、今じゃないからな!いずれ、いずれあるかもしれない先の、な?」
史は本気で怒っているようで、こめかみの血管をうっすら浮かせながら寿々を片手でヒョイッと持ち上げた。
「ちょっと、何するんだよ!」
「腹立つのでもう一回風呂入ります。勿論一緒に」
そう言いながらそのまま洗面所へと連れ込む。
「待て待て、服くらい自分で脱がせろよ!」
寿々は抵抗を試みるが、力で史に敵うわけがなく次から次に服を剥がされた。
「・・・寿々さんは今、いずれ倦怠期がくるだろうと本気でそう思っているんですか?」
下着一枚にされながら、寿々はいつになくまるで乙女のように恥じらう様子で風呂の扉ギリギリまで追い詰められた。
「マジ違うんだって・・・倦怠期云々は俺が保険掛けているだけ。・・・連休中ずっとだったからちょっとくらい間を開けないと、俺の方が飽きられる・・・と、ちょ・・・まっ!!」
史は半分怒り任せに寿々にキスをした。
と言うか連休中ずっとこんな感じだったのに、どこまでそんなにもガッつけるのか寿々は本当に不思議で仕方がなかった。
勿論それが嫌だからとかの理由では無い。
純粋にこれ以上ないくらい愛されて絆され、いよいよ自分自身でも頭がおかしくなってしまいそうで怖かったからでもある。
「っ・・ぁ・・ぁ・・待って、今本気で・・息苦し」
寿々はやっと唇を離してもらえ、若干腰砕けになりそうな状態で史のその逞しい腕をぐっと掴んだ。
「いいですか、俺が寿々さんの事を飽きるとか出鱈目を言うのは許さないですよ」
そう言った史の目はいつも以上に鋭く、寿々はそうやって史に見つめられると何もかも否定できなくなってしまうのだった。
それはまるで魔法の魅了でも掛けられいるかのような錯覚さえ覚える。
それだけ史の美しい見た目だけでなく、その特殊な力を秘めた瞳には強烈な魅力があった。
「は・・はぁ・・・わかった。ごめん・・」
寿々は疲れもあってそのまま史の胸に寄り掛かるように顔を埋めた。
史もようやく分かってもらえたと安堵し、寿々を抱きしめると、
「分かってもらえたなら良かったです。・・俺が寿々さんの事を飽きるとか絶対にあり得ませんから。だから風呂も毎日一緒でいいし、倦怠期なんてつまらない事は絶対に考えないでください」
そう耳元で優しく囁く声でさえ、寿々の全身を震わせるほど甘美なものだった。
寿々の背中にはいつの間にか光輝く2対の羽が、寿々と史を包み込むように取り囲んでいた。
『・・・本当に家に帰って来る度にこんなのが続いたら、気がおかしくなりそうだよ・・』
史は寿々がこの世に還って来てからと言うもの、以前よりもその愛情が強くなっていた。
元々愛情が依存や執着へとなりやすい気質だったのもあるが、寿々がこの世から消え再び舞い戻ってきてからと言うもの確実に輪をかけて重くなっている。
特にこの連休中は寿々の人生の中でもありえないくらいの時間を二人で過ごした。
今まで女性としか付き合ってこなかった寿々にとって、28歳にしてまさか逆の立場になるだなんて半年前まではこれっぽっちも想像していなかったのだ。
それがどうしたものか、今は毎日10歳も下の同性の色男にあり得ないくらい丁寧に愛されている。
そんな状態なのだから脳がバグってしまいそうになるのも当然と言えば当然の事だった。
結局二人がベッドで眠りに着く頃には深夜1時近くになっていた。
明日はまだ金曜日。朝から寿々は仕事に、史は大学に行かなくてはならない。
『今から寝ると6時間ちょいか・・・明後日は土曜だから何とか気力で乗り切れるか』
そう思いながら隣を見ると、史は既にスヤスヤと眠りに着いている。
寿々はその寝顔を愛おしそうに見つめると、史のパヤパヤとした短い銀髪をそっと撫で、そして寝室の電気を消し布団へと潜り込んだ。
その数十秒後だっただろうか。
リビングの方から、ゴト・・という物音が聴こえて目を開けた。
「?」
寿々は少しだけウトウトとし始めていたので、聞き間違いでは?と思ったのだが、次の瞬間、夕方に聞いた東海林朱李の話が一気に頭の中に蘇ってきた。
『最初はリビングで妙な物音がしたんです。それで僕は気になってリビングへと行くと再び音がしました。それは床を歩く靴音のようでした。・・・僕は台所から包丁を持って気配を感じたベランダ窓のカーテンへと近づいたのです・・・・。しかし包丁を中にそっと差し入れたその瞬間、そのカーテンの中から老いた男の手が伸びて来て腕を掴むと即座にそのままカーテンの中へと引きずり込まれました・・・』
寿々はやはり気になって少しだけ体を起こした。
そして横で眠る史が何も気づいていない事を確認すると、起こさないようにそっと布団から出て目の前の仕切られたパーテーションを静かに開けリビングへと戻った。
「・・・・」
ふと寿々は視線をベランダのカーテンへと向ける。
そのまま暫くの間耳を澄ませてみた。
しかしその後は妙な音が聴こえて来なかった。
『・・・気のせいか?』
カーテンからは物音は勿論だが、裾下から足などが見える事もなく全く揺れる様子もない。
やはり気のせいだろう、とそう思いながら寿々は目の前のソファへと腰をかけた。
そして寿々はふとすぐ近くの暗がりの本棚の前を見つめ、ある少女の事を思い出していた。
「・・・アイナ」
それは2ヵ月前寿々の前の突然現れた、消えた世界線の未来で寿々の娘になるはずだった実態のない魂だけの女の子だった。
その後寿々も一度はこの世での生を終え、この場所からアイナと共に死の世界へと旅立ったのだ。
死後の世界でアイナと別れる時、アイナから渡されたとある重要な機密データ。肉体の再生と魂込めのデータのおかげで再びこの世に戻って来れた。
あの時、アイナはこう言っていた。
「私はね、これを寿々に渡す為にここへ来た。そんな気もするんだよ」
確かにそうだったのかもしれない。
アイナは実態のない魂のみの存在で、裏政府常天統合府の被検体として望まない仕事を無理矢理やらされていた。
それは次元の狭間を自由に行き来し、ポータルを使って人を自由に移動させられる能力だ。それはこの世とあの世の間に囚われた特別な魂にしか使えない特別な力だった。
そしてその力を使ってアイナは命令を受けた人間を危険な場所へと移動させ、自死に見せるように指示されていたのだ。
その拘束から逃げるには自らあの世へと進み、転生して新たな肉体を手に入れる為の死を選らぶしか方法がなかった。
だから大好きな寿々となら一緒にあの世へ行くのも怖くないと信じ、そしてそのまま次の人生を目指して旅立ってしまった。
寿々はソファの上で膝を抱えた。
本棚の上に置かれたデジタル時計の灯りがその姿を照らしている。
「・・いつかまた会いたいよ・・アイナ」
寿々がそう小さく呟いたその時、小さく鳴く猫の声が聴こえてきた。
それは外から聴こえてきただけだったのかもしれない。
でも寿々はアイナの言葉を思い出しハッとさせられた。
「でも私、階層は下がるからきっと次は動物の姿で生まれ変わると思う」
その言葉を思い出し寿々は直感的に感じた。
『そうか。アイナは多分今猫に生まれ変わっているんだ。・・いつ会えるかは分からないけれど、もし再び会えるならば、今度は俺の方から探しに行かないと』
すると今度は史の部屋の中から、ゴト・・・という物音がはっきりと聴こえてきた。
「!!」
寿々は今度は寝ぼけてもいないしちゃんと聴こえてきたと確信を持った。
『侵入者?・・・いや、これはまさか』
寿々は立ち上がるとゆっくりと目の前の史の部屋のドアを開けた。
部屋の中は相変わらずの殺風景だ。
本棚には本がびっしりと並べられているが、机の上には時計一つも置かれていない。
あとは窓際の隅に今はほとんど使われていない敷布団が畳まれているだけだった。
しかし。
寿々は部屋を見渡しすぐに、物音は右奥のクローゼットの中からした。そう確信を持った。
何故ならばクローゼットがほんの少しだけ開いていたからだ。
史の性格からいってそういう事は考えづらかった。
元来極度の怖がりの寿々にとってその扉を一人で開けるのはかなりの勇気が必要だ。
でも寿々は守るべきものがある時はその恐怖よりも使命感の方が上回る。
もしかしたら、この先にいるのは朱李が言っていたあの片目の男なのかもしれない。
だがその男に誘われたのが史ではなく自分で本当に良かったと心からそう思った。
それにいざとなれば寿々には天使の羽もある。
これは寿々の魂が人としての位を終え、天界に行く代りに地上に降りた証でもあった。
この羽は現世では飛ぶ事はできない。だがその代り波動となって寿々の肉体を守る役目がある。
だから少しだけならば何かあってもどうにかなる・・・。そう信じてもいた。
寿々は意を決してクローゼットを開けた。
ガチャ!
折り畳み式の開閉扉を勢いよく開く。
しかし中は史の数少ない洋服と、寿々が買ってあげたスーツ。そして2ヵ月前に卒業した高校の制服が掛けられているだけだった。
「・・・・」
そこまで大きくはないクローゼットだ。流石に中に人がいないのは一目瞭然である。
「はぁ・・・脅かすなよ、まったく・・・」
そう安堵して大きく息を吐き出すと、寿々は再び寝室へ戻ろうとクローゼットの取っ手を元に戻そうとした。
その時、
ガシッ!!
史の洋服と洋服の間からゴツゴツした老いた男の手が伸びて来て寿々のか細い左手首を容赦なく掴んだ。
「!!」
咄嗟の事で寿々も恐怖より驚きしか感じられず、反射的にその手から逃れようと力一杯引き戻したが、男の握力は凄まじく抵抗も空しくグイっ!と力一杯引っ張られるとそのままクローゼットの闇の奥へとズルリと引きずり込まれてしまったのだった。
気づくとそこは見知らぬ夜の森の中だった。
「いてぇ・・・」
寿々は引きずり込まれた拍子に、勢いよく樹の根に頭をぶつけたようだ。耳鳴りが酷い。
本当に一瞬の事だった。
掴まれたのは確かに老いた男の手だったが、寿々の感覚ではとてもじゃないけれどあの腕力は写真に写っていた白髪片目の男のような老人の力だとは到底思えなかった。
『史ほどじゃないにしても、それなりの腕力。そんな気がした・・・』
寿々はぶつけたこめかみあたりを摩りながら身を起こし、周囲を見回した。
「ここは一体・・・」
辺りは光が一切入らない深く真っ暗な森の中。
上空を見上げると木々の合間から満点の星空が見えた。
寿々は頭をぶつけた樹の幹に手をあてながら、再度その表面を観察してみた。
「この樹の幹・・何だか夢の中とは思えないほどリアルだな・・。と言うか、もし今これが本当に夢だったとしたら、俺は明晰夢を見ているって事になるよな?」
そう言いながらおでこを摩る手を止めた。
「・・・・・ちゃんと痛い」
そう、寿々はぶつけたおでこが既に痣になっているのか、しっかりと痛みを感じている事に気がついた。
「これじゃまるで現実みたいじゃないか・・」
そう思ったその時、数メートル先に何かが潜んでいる事に気が付いた。
「!?・・なんだ?」
少しづつだが夜目にも慣れ、辺り一面に大きな大樹の森が広がっているのが分かってきた。
そしてその樹と樹の根が重なる上にキラリと光る二つの目。
高さからいって狸、それともイタチだろうか?
かなり小さな生き物が闇の中から寿々をじっと見つめていた。
するとその生き物が寿々に向かって小さく鳴いた。
「ニャァォ」
それは暗闇に紛れた小さな黒猫だった。
「!!え、アイナ?」
寿々はその闇に紛れた黒猫がアイナの魂だと直感的にそう思ったのだ。
と同時にその黒猫はくるりと踵を返すと森の中へと駆けていってしまった。
「アイナ!待って!」
寿々はわけも分からず、とにかく必死にその小さな黒猫の後を追った。
その黒猫には鈴の首輪がされているのか、目には見えないが走る度に寿々にこっちだと言うようにチリチリンと冷たい樹々の合間に鈴の音を響かせた。
「はぁ・・はぁ・・待って!!」
運動神経がほぼ皆無の寿々は、息を切らして何度も転びそうになりながら、樹の合間を裸足で走り続けた。
そして走り続けながらどんどんと嫌な予感がしていた。
何故だかが分からないが、その先に行ってはいけない、急にそう感じ咄嗟に声をあげた。
「アイナ!!そっちに行くな!」
そう言って手を伸ばしたその途端、足元には大きな真っ黒な深淵が口を開いていた。
急に重力に引っ張られた寿々はその穴の中へと勢いよく落下する。
目の前にいたはずの黒い猫はいつの間にかその闇に紛れ、そのまま姿を消してしまっていた。
『ヤバい!!このままじゃ身体を失ってしまう!!』
恐怖の波がつま先から頭のてっぺんまでブワワワッ!と一気に押し上げてくるのを感じ、寿々は本能的に2対の羽を煌々と広げると身体全体を繭の様にして包み込んだのだった。
ゴッ!!
自分でも聞いた事もない酷く鈍い音が体中に響き渡った。
再び酷い耳鳴りと眩暈で今度こそ本当に頭を打っておかしくなったかも、と怖くなり暫く動けずにその場で蹲ったが、徐々に身体の感覚が戻ってくると羽のおかげなのか、あったのは衝撃だけで特に痛みもなく、眩暈も耳鳴りも次第にフェードアウトしながら消えていった。
そして良く見るとそこは最初にクローゼットから落ちて来て頭をぶつけた樹の目の前だった。
「え?」
寿々は驚いて勢いよく飛び起きた。
すると背後から声がした。
「・・・何なんだよお前・・・。俺はお前なんて呼んでねぇよ・・」
「!!」
突然の事で背筋が凍るかと思った。
寿々は勢いよく振り返った。
「お前は!?・・・・」
そこにいたのはあの心霊写真に写された、通称【令和のThis Man】こと片目の男だった。
午後10時半
寿々と史はオカルトラボから編集部に戻り、二人して史の仕事を片付けたあと家に帰宅した。
「大丈夫ですか?ずっと険しい顔をしていますけど」
寿々は帰宅後もどことなく上の空で、まだオカルトラボで東海林朱李に聞いた話を気にしているようだった。
「え?ああ。まあ」
二人は平日いつもこの時間に帰宅してから夕飯を食べる。
とはいえこの時間だ。土日はともかく、夕食は大概が簡単な麺類で済ますのが日課となっていた。
幸い二人共麺類の好き嫌いはない。寿々は極度の偏食だが、具材に肉魚類が入ってなければ大概は食べる事が出来る。
食材は史が管理している為、その目立つ見た目からは想像もつかない程の倹約っぷりで冷蔵庫の中には安価な食材ばかりが収められていた。
史は冷蔵庫を開け、スーパーで買い溜めした5袋も積み上がっている3玉入りのうどんの一袋を取り出すと、コンロの前で鍋に湯を沸かしている寿々にそれを渡した。
「気をつけてくださいね。寿々さんそうやって考え事していると必ず怪我をするから・・」
「大丈夫だって。流石に俺も火を使ってる時は気をつけるってば」
寿々はそう言いながら、渡されたうどん玉を全て沸騰した鍋の湯へと入れる。
「・・それにしても、さっき朱李さんから聞いた事が本当ならば、日曜の深夜にもしかしたら朱李さんにも何かしらの危険が及ぶ可能性があるって事になるよな」
史は寿々の話を聞きつつも、慣れない包丁で集中しながらゆっくりと野菜を刻む。
「・・・そう・・ですね。・・・もし、片目の男が差し出した指の・・・本数が、日数のカウントダウンを意味・・するのならば、そうなりますよ・・ね」
手元で人参を一生懸命刻んでていた史だったが、その手つきはかなり危なっかしい。
料理をほぼ毎日担当しているとは言え、それでもまだまだ包丁だけは苦手そうだ。
若干歪ながらも何とか全ての野菜を刻むと、そのまま寿々が管理していた鍋の中へと一気に投入した。
「・・・野菜に火が通る頃にはうどんが倍に膨れていそうだな・・」
寿々が何気につぶやくと、
「別にうどん煮込むならいくらでも柔くなってもいいでしょ」
「はは、史と同じ意見で良かったよ。こういう些細な好みで人は争いが起こるもんだからな・・」
寿々が意味深な言い方をするものだから史も気になって、
「・・・それは元カノさんとの話ですか」
そう言いながら若干のジト目で寿々を見た。
「は?ちが!・・・・・。ごめん、違くないわ。そう」
反射的に否定しそうになった寿々だったが、そんなごまかしをしても無意味だと気づくとすぐに謝罪した。
「別に謝ることじゃないでしょ。でも偏食の寿々さんと暮らしていても食事で喧嘩する事がないってのは本当に不幸中の幸いですよ」
「不幸中の幸い・・・。そんな言い方されると食事以外で争いが起きるぞ」
鍋をかき混ぜながら今度は寿々が史を嫌そうに見上げた。
寿々は腹を空かせていると、無自覚のまま気が立つという悪い癖がある。
史もそれをちゃんと理解してるが、今がまさにそんな感じのようだ。
「やめましょうよ、お互い疲れてそれどころじゃないって言うのに」
史は鍋に出汁と塩を入れながら、おたまに掬って味見の為に小皿に乗せた。
「本当にな・・・連休明けだと言うのに何で家に帰ってきてまで仕事関連に悩まされなきゃならないのか」
「それでも寿々さんは気になるんでしょ?」
熱そうにつゆを冷ましながら味見する史にそう言われ、寿々は少しだけ悩んだ。
「じゃあ逆に史は気にならないのか?俺達だって、いつあの片目の男が夢に現れてもおかしくないんだぞ?俺達はもしかしたらあの心霊写真を受け取った時点でかなり接点が近くなっている可能性だってあるのに」
寿々のその問いに今度は史がおたまを持ったまま、少しだけ考えるようにして上を向いた。
「う~ん。確かに可能性はあるでしょうけれど、それにしても俺達があの写真を受け取ったのって先月の半ばですよ?それからもう3週間近く経ちます。その間兆候もなかったですし、今更夢に現れるんでしょうか?大体あの男が夢に現れる条件って何なんでしょうね?This Manならば精神科に通う患者という共通点がありましたけれど。今回は接点も共通点も今の所見当たらないですよ」
そう言いながらもう少しだけ出汁を加え、もう一度味見をする。するとちょうどいい塩梅だったのか表情が緩んだ。
史は鍋をかき混ぜる寿々にもそのまま味見をさせる。
「あ、うまっ!」
その寿々の反応に史は満足そうな笑みをこぼした。
食事を終えると寿々は一人キッチンで後片付けをしていた。
時刻は既に11時半を超えている。
視線では食器洗いに集中出来てはいたものの、やはり頭の中ではあの片目の男の事で頭が一杯になっていた。
『俺が夢に見たらどうしようと言うより、万が一史が見てしまったら、と思うと気が気じゃない。朱李さんに見せてもらったグラフでも20代より10代の方が圧倒的に多かった。やっぱりあの片目の男を夢に見る可能性が高いのは10代後半から20代前半がほとんどなんだろう。確かに史が言う通り、あの男の写真を受け取ってから3週間が経つ。だから何も無いと思いたいけれど・・・・でも』
寿々は全ての食器を洗い終わり水切り籠へ入れると、タオルで手を拭きキッチンの灯りを消す為にスイッチに手を伸ばした。
と同時に冷蔵庫横のドアが開き、風呂から上がってきた史が戻ってきた。
「・・風呂空きましたからどうぞ」
バスタオルで短い銀髪をガシガシと拭きながらそのまま冷蔵庫を開け、作り置きのお茶を取り出す。
「ああ、わかった」
そう言って寿々は消そうとしたスイッチから手を戻したところで、至近距離で洗ったばかりのコップを取り出しお茶を注ぐ図体のデカい史に立ち塞がれた。
「ん?なに?」
「・・・何じゃなく。何で今日は一緒に入らなかったんですか」
「え?・・・いやまあそんな日もあるじゃん?」
「ふ~ん・・・」
史はお茶をグイっと飲み干すとコップをゆすいだ。
「何だよそのふ~んって」
「ふ~んはふ~んですよ。急に一人で入れとか言われて何か理由があるのかと思っているだけです」
「いやだって、ほら、連休中ずっと一緒だっただろ?・・だから別に深い意味はないよ」
寿々は何となく何かをごまかしているようにしか見えなかった。
勿論史にはそれがよく分かっている。
だからこそ尚更気になって仕方がなかった。
「じゃあ深くない意味はあるんですか?」
「だから~本当そんなに詰め寄らないでくれよ。・・・ただ単純に一緒に入らない日があってもいいなって思っただけだから」
「!・・・・それってつまり一緒に風呂入るのが嫌って事ですか・・」
「しつこいなぁ、嫌とかじゃないって・・・」
史は冗談っぽく聞こえるトーンで話しているが、実はこういう時は全く冗談を言っていない。
自分の執着愛が重い事を理解した上で、敢えて茶化したように言っているだけなのだ。
寿々も理解しているが、結局こういう場合本当の事を話すまで延々と茶番を続けられて面倒なだけなので寿々も仕方なく観念した。
「・・ほら、毎日のように一緒に風呂入ると倦怠期が早いって聞くから」
「・・・・・」
寿々は顔を赤くさせて詰め寄る史から顔を逸らした。
しかし何だか史からは余計嫌な気配を感じる。
寿々がもう一度史をゆっくりと見上げると、物凄い不満だらけの表情をしていた。
「倦怠・・?は?」
「いやいや、今じゃないからな!いずれ、いずれあるかもしれない先の、な?」
史は本気で怒っているようで、こめかみの血管をうっすら浮かせながら寿々を片手でヒョイッと持ち上げた。
「ちょっと、何するんだよ!」
「腹立つのでもう一回風呂入ります。勿論一緒に」
そう言いながらそのまま洗面所へと連れ込む。
「待て待て、服くらい自分で脱がせろよ!」
寿々は抵抗を試みるが、力で史に敵うわけがなく次から次に服を剥がされた。
「・・・寿々さんは今、いずれ倦怠期がくるだろうと本気でそう思っているんですか?」
下着一枚にされながら、寿々はいつになくまるで乙女のように恥じらう様子で風呂の扉ギリギリまで追い詰められた。
「マジ違うんだって・・・倦怠期云々は俺が保険掛けているだけ。・・・連休中ずっとだったからちょっとくらい間を開けないと、俺の方が飽きられる・・・と、ちょ・・・まっ!!」
史は半分怒り任せに寿々にキスをした。
と言うか連休中ずっとこんな感じだったのに、どこまでそんなにもガッつけるのか寿々は本当に不思議で仕方がなかった。
勿論それが嫌だからとかの理由では無い。
純粋にこれ以上ないくらい愛されて絆され、いよいよ自分自身でも頭がおかしくなってしまいそうで怖かったからでもある。
「っ・・ぁ・・ぁ・・待って、今本気で・・息苦し」
寿々はやっと唇を離してもらえ、若干腰砕けになりそうな状態で史のその逞しい腕をぐっと掴んだ。
「いいですか、俺が寿々さんの事を飽きるとか出鱈目を言うのは許さないですよ」
そう言った史の目はいつも以上に鋭く、寿々はそうやって史に見つめられると何もかも否定できなくなってしまうのだった。
それはまるで魔法の魅了でも掛けられいるかのような錯覚さえ覚える。
それだけ史の美しい見た目だけでなく、その特殊な力を秘めた瞳には強烈な魅力があった。
「は・・はぁ・・・わかった。ごめん・・」
寿々は疲れもあってそのまま史の胸に寄り掛かるように顔を埋めた。
史もようやく分かってもらえたと安堵し、寿々を抱きしめると、
「分かってもらえたなら良かったです。・・俺が寿々さんの事を飽きるとか絶対にあり得ませんから。だから風呂も毎日一緒でいいし、倦怠期なんてつまらない事は絶対に考えないでください」
そう耳元で優しく囁く声でさえ、寿々の全身を震わせるほど甘美なものだった。
寿々の背中にはいつの間にか光輝く2対の羽が、寿々と史を包み込むように取り囲んでいた。
『・・・本当に家に帰って来る度にこんなのが続いたら、気がおかしくなりそうだよ・・』
史は寿々がこの世に還って来てからと言うもの、以前よりもその愛情が強くなっていた。
元々愛情が依存や執着へとなりやすい気質だったのもあるが、寿々がこの世から消え再び舞い戻ってきてからと言うもの確実に輪をかけて重くなっている。
特にこの連休中は寿々の人生の中でもありえないくらいの時間を二人で過ごした。
今まで女性としか付き合ってこなかった寿々にとって、28歳にしてまさか逆の立場になるだなんて半年前まではこれっぽっちも想像していなかったのだ。
それがどうしたものか、今は毎日10歳も下の同性の色男にあり得ないくらい丁寧に愛されている。
そんな状態なのだから脳がバグってしまいそうになるのも当然と言えば当然の事だった。
結局二人がベッドで眠りに着く頃には深夜1時近くになっていた。
明日はまだ金曜日。朝から寿々は仕事に、史は大学に行かなくてはならない。
『今から寝ると6時間ちょいか・・・明後日は土曜だから何とか気力で乗り切れるか』
そう思いながら隣を見ると、史は既にスヤスヤと眠りに着いている。
寿々はその寝顔を愛おしそうに見つめると、史のパヤパヤとした短い銀髪をそっと撫で、そして寝室の電気を消し布団へと潜り込んだ。
その数十秒後だっただろうか。
リビングの方から、ゴト・・という物音が聴こえて目を開けた。
「?」
寿々は少しだけウトウトとし始めていたので、聞き間違いでは?と思ったのだが、次の瞬間、夕方に聞いた東海林朱李の話が一気に頭の中に蘇ってきた。
『最初はリビングで妙な物音がしたんです。それで僕は気になってリビングへと行くと再び音がしました。それは床を歩く靴音のようでした。・・・僕は台所から包丁を持って気配を感じたベランダ窓のカーテンへと近づいたのです・・・・。しかし包丁を中にそっと差し入れたその瞬間、そのカーテンの中から老いた男の手が伸びて来て腕を掴むと即座にそのままカーテンの中へと引きずり込まれました・・・』
寿々はやはり気になって少しだけ体を起こした。
そして横で眠る史が何も気づいていない事を確認すると、起こさないようにそっと布団から出て目の前の仕切られたパーテーションを静かに開けリビングへと戻った。
「・・・・」
ふと寿々は視線をベランダのカーテンへと向ける。
そのまま暫くの間耳を澄ませてみた。
しかしその後は妙な音が聴こえて来なかった。
『・・・気のせいか?』
カーテンからは物音は勿論だが、裾下から足などが見える事もなく全く揺れる様子もない。
やはり気のせいだろう、とそう思いながら寿々は目の前のソファへと腰をかけた。
そして寿々はふとすぐ近くの暗がりの本棚の前を見つめ、ある少女の事を思い出していた。
「・・・アイナ」
それは2ヵ月前寿々の前の突然現れた、消えた世界線の未来で寿々の娘になるはずだった実態のない魂だけの女の子だった。
その後寿々も一度はこの世での生を終え、この場所からアイナと共に死の世界へと旅立ったのだ。
死後の世界でアイナと別れる時、アイナから渡されたとある重要な機密データ。肉体の再生と魂込めのデータのおかげで再びこの世に戻って来れた。
あの時、アイナはこう言っていた。
「私はね、これを寿々に渡す為にここへ来た。そんな気もするんだよ」
確かにそうだったのかもしれない。
アイナは実態のない魂のみの存在で、裏政府常天統合府の被検体として望まない仕事を無理矢理やらされていた。
それは次元の狭間を自由に行き来し、ポータルを使って人を自由に移動させられる能力だ。それはこの世とあの世の間に囚われた特別な魂にしか使えない特別な力だった。
そしてその力を使ってアイナは命令を受けた人間を危険な場所へと移動させ、自死に見せるように指示されていたのだ。
その拘束から逃げるには自らあの世へと進み、転生して新たな肉体を手に入れる為の死を選らぶしか方法がなかった。
だから大好きな寿々となら一緒にあの世へ行くのも怖くないと信じ、そしてそのまま次の人生を目指して旅立ってしまった。
寿々はソファの上で膝を抱えた。
本棚の上に置かれたデジタル時計の灯りがその姿を照らしている。
「・・いつかまた会いたいよ・・アイナ」
寿々がそう小さく呟いたその時、小さく鳴く猫の声が聴こえてきた。
それは外から聴こえてきただけだったのかもしれない。
でも寿々はアイナの言葉を思い出しハッとさせられた。
「でも私、階層は下がるからきっと次は動物の姿で生まれ変わると思う」
その言葉を思い出し寿々は直感的に感じた。
『そうか。アイナは多分今猫に生まれ変わっているんだ。・・いつ会えるかは分からないけれど、もし再び会えるならば、今度は俺の方から探しに行かないと』
すると今度は史の部屋の中から、ゴト・・・という物音がはっきりと聴こえてきた。
「!!」
寿々は今度は寝ぼけてもいないしちゃんと聴こえてきたと確信を持った。
『侵入者?・・・いや、これはまさか』
寿々は立ち上がるとゆっくりと目の前の史の部屋のドアを開けた。
部屋の中は相変わらずの殺風景だ。
本棚には本がびっしりと並べられているが、机の上には時計一つも置かれていない。
あとは窓際の隅に今はほとんど使われていない敷布団が畳まれているだけだった。
しかし。
寿々は部屋を見渡しすぐに、物音は右奥のクローゼットの中からした。そう確信を持った。
何故ならばクローゼットがほんの少しだけ開いていたからだ。
史の性格からいってそういう事は考えづらかった。
元来極度の怖がりの寿々にとってその扉を一人で開けるのはかなりの勇気が必要だ。
でも寿々は守るべきものがある時はその恐怖よりも使命感の方が上回る。
もしかしたら、この先にいるのは朱李が言っていたあの片目の男なのかもしれない。
だがその男に誘われたのが史ではなく自分で本当に良かったと心からそう思った。
それにいざとなれば寿々には天使の羽もある。
これは寿々の魂が人としての位を終え、天界に行く代りに地上に降りた証でもあった。
この羽は現世では飛ぶ事はできない。だがその代り波動となって寿々の肉体を守る役目がある。
だから少しだけならば何かあってもどうにかなる・・・。そう信じてもいた。
寿々は意を決してクローゼットを開けた。
ガチャ!
折り畳み式の開閉扉を勢いよく開く。
しかし中は史の数少ない洋服と、寿々が買ってあげたスーツ。そして2ヵ月前に卒業した高校の制服が掛けられているだけだった。
「・・・・」
そこまで大きくはないクローゼットだ。流石に中に人がいないのは一目瞭然である。
「はぁ・・・脅かすなよ、まったく・・・」
そう安堵して大きく息を吐き出すと、寿々は再び寝室へ戻ろうとクローゼットの取っ手を元に戻そうとした。
その時、
ガシッ!!
史の洋服と洋服の間からゴツゴツした老いた男の手が伸びて来て寿々のか細い左手首を容赦なく掴んだ。
「!!」
咄嗟の事で寿々も恐怖より驚きしか感じられず、反射的にその手から逃れようと力一杯引き戻したが、男の握力は凄まじく抵抗も空しくグイっ!と力一杯引っ張られるとそのままクローゼットの闇の奥へとズルリと引きずり込まれてしまったのだった。
気づくとそこは見知らぬ夜の森の中だった。
「いてぇ・・・」
寿々は引きずり込まれた拍子に、勢いよく樹の根に頭をぶつけたようだ。耳鳴りが酷い。
本当に一瞬の事だった。
掴まれたのは確かに老いた男の手だったが、寿々の感覚ではとてもじゃないけれどあの腕力は写真に写っていた白髪片目の男のような老人の力だとは到底思えなかった。
『史ほどじゃないにしても、それなりの腕力。そんな気がした・・・』
寿々はぶつけたこめかみあたりを摩りながら身を起こし、周囲を見回した。
「ここは一体・・・」
辺りは光が一切入らない深く真っ暗な森の中。
上空を見上げると木々の合間から満点の星空が見えた。
寿々は頭をぶつけた樹の幹に手をあてながら、再度その表面を観察してみた。
「この樹の幹・・何だか夢の中とは思えないほどリアルだな・・。と言うか、もし今これが本当に夢だったとしたら、俺は明晰夢を見ているって事になるよな?」
そう言いながらおでこを摩る手を止めた。
「・・・・・ちゃんと痛い」
そう、寿々はぶつけたおでこが既に痣になっているのか、しっかりと痛みを感じている事に気がついた。
「これじゃまるで現実みたいじゃないか・・」
そう思ったその時、数メートル先に何かが潜んでいる事に気が付いた。
「!?・・なんだ?」
少しづつだが夜目にも慣れ、辺り一面に大きな大樹の森が広がっているのが分かってきた。
そしてその樹と樹の根が重なる上にキラリと光る二つの目。
高さからいって狸、それともイタチだろうか?
かなり小さな生き物が闇の中から寿々をじっと見つめていた。
するとその生き物が寿々に向かって小さく鳴いた。
「ニャァォ」
それは暗闇に紛れた小さな黒猫だった。
「!!え、アイナ?」
寿々はその闇に紛れた黒猫がアイナの魂だと直感的にそう思ったのだ。
と同時にその黒猫はくるりと踵を返すと森の中へと駆けていってしまった。
「アイナ!待って!」
寿々はわけも分からず、とにかく必死にその小さな黒猫の後を追った。
その黒猫には鈴の首輪がされているのか、目には見えないが走る度に寿々にこっちだと言うようにチリチリンと冷たい樹々の合間に鈴の音を響かせた。
「はぁ・・はぁ・・待って!!」
運動神経がほぼ皆無の寿々は、息を切らして何度も転びそうになりながら、樹の合間を裸足で走り続けた。
そして走り続けながらどんどんと嫌な予感がしていた。
何故だかが分からないが、その先に行ってはいけない、急にそう感じ咄嗟に声をあげた。
「アイナ!!そっちに行くな!」
そう言って手を伸ばしたその途端、足元には大きな真っ黒な深淵が口を開いていた。
急に重力に引っ張られた寿々はその穴の中へと勢いよく落下する。
目の前にいたはずの黒い猫はいつの間にかその闇に紛れ、そのまま姿を消してしまっていた。
『ヤバい!!このままじゃ身体を失ってしまう!!』
恐怖の波がつま先から頭のてっぺんまでブワワワッ!と一気に押し上げてくるのを感じ、寿々は本能的に2対の羽を煌々と広げると身体全体を繭の様にして包み込んだのだった。
ゴッ!!
自分でも聞いた事もない酷く鈍い音が体中に響き渡った。
再び酷い耳鳴りと眩暈で今度こそ本当に頭を打っておかしくなったかも、と怖くなり暫く動けずにその場で蹲ったが、徐々に身体の感覚が戻ってくると羽のおかげなのか、あったのは衝撃だけで特に痛みもなく、眩暈も耳鳴りも次第にフェードアウトしながら消えていった。
そして良く見るとそこは最初にクローゼットから落ちて来て頭をぶつけた樹の目の前だった。
「え?」
寿々は驚いて勢いよく飛び起きた。
すると背後から声がした。
「・・・何なんだよお前・・・。俺はお前なんて呼んでねぇよ・・」
「!!」
突然の事で背筋が凍るかと思った。
寿々は勢いよく振り返った。
「お前は!?・・・・」
そこにいたのはあの心霊写真に写された、通称【令和のThis Man】こと片目の男だった。
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